アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
ナチズム ドイツ保守主義の一系譜
著者:村瀬 興雄 
初版の発行が1968年2月であるから、現在から遡って約30年前の作品であるが、驚くほど古さを感じさせない。ナチズム及びヒトラ−の研究書として、さして名前の上がっている書物ではないが、ピトラ−個人の思想形成と活動を冷静に跡付けると共に、その政権獲得に至る主因を当時のドイツの政治・社会環境の中に見出そうという試みは説得力がある。

特に興味深い視点は、ヒトラ−の思想と行動を、当時のバイエルンを中心とする南ドイツの保守主義とベルリンに対抗しようという地域主義が純化された姿として捉えるものであり、また後年のヒトラ−の思想を、最近ようやく全体が邦訳された、彼の戦時中の大本営での食事時の会話を既に素材として使用しつつ、彼の後年の思想が決して30年代後半の危機の時代に過激化したものではなく、既にミュンヘンでのナチス創生期から完成されていたものであることを示している点である。以下ヒトラ−の出生から始まる著者のナチズムの原点模索の旅を、現代ドイツからの視点も重ね合わせながら追いかけてみよう。

ヒトラ−の出生を巡る議論からこの旅は始まる。今やドイツ歴史学会の重鎮に収まっているマ−ザ−が、駆け出しの俊英として30年前に提示した、ヒトラ−の両親の近親結婚説を手掛かりに、彼の異常な人種論が、その特殊な出生に起因するのかどうか、という議論が提示される。しかし、国家的規模での犯罪が一個人の性格に帰されるはずはない。著者も「ナチスのユダヤ人迫害がドイツ史の例外現象ではないこと、ナチス流の人種論が実はドイツ保守主義の中核部分をなしており、多くのドイツ人の共感と支持を得ていた」と始めに断っている。ヒトラ−の家庭が典型的な中産階級のそれであり、生活程度も悪くはなかったことを考慮すると、家庭環境の反動に後年の異常な思想と行動の源泉を求めることはできないのである。ヒトラ−が18才でウィ−ンの美術学校の受験準備を行うまでに両親が死亡し、彼は孤児となるが、それでも両親の遣産等で通常の生活水準を維持することは問題なく、両親が死に、受験に失敗した後、彼が全くのルンペン・プロレタリア−トになった、という伝説も、後年の「わが闘争」でのでっちあげである、と言う(浮浪者収容所に収監されていたのは、オ−ストリアの徴兵を逃れるためであった)。しかしこの時期に既にヒトラ−が筋金入りの反ユダヤ主義者となっていたことは疑いない。著者は、ロ−マの昔から存在したキリスト教的反ユダヤ主義がせいぜいユダヤ教徒の改宗と同化を要求するのみであるのに対し、19世紀中葉に登場した人種的反ユダヤ主義は、劣等民族としてのユダヤ人の弾圧を帰結するより過激な思想であり、ヒトラ−が早くからこの思想の影響を受けていたことを跡付けている。

ヒトラ−は1913年5月、ウイ−ンを逃れミュンヘンに来るが、徴兵忌避者として追求される生活を送りながらも、ここでの生活を「私の最も幸福な時代」と称しているところを見ると、後に彼がまさに勢力を拡大することになるバイエルンの保守的風土が、彼にはぴったり合っていたのであろう。オ−ストリアでは忌避した兵役も、ミュンヘン滞在中に第一次大戦が勃発すると、ただちに志願兵として応じ、戦場では一般兵士には希有な勲章まで受けている。しかしそうした功績にもかかわらず彼は最後まで上等兵であり、下士官に昇格することはなかった。著者は、この理由は、一般に言われているように彼が外国人の志願兵であったからではなく、むしろ彼の片寄った性格のせいであろう、と推測しているが、これには特段の根拠がある訳ではない。

「軍隊はヒトラ−の第二の故郷であった」。戦場での友情を育て帰還した彼を待っていたのは、ヒトラ−が最も恐れ、憎んでいた事態−オ−ストリア・ハンガリ−帝国内のスラブ人の独立、中部ヨ−ロッパからのドイツ民族の全面的後退であり、更にはミュンヘンでの社会主義革命の勃発であった。

このミュンヘンでのレ−テ共和国の成立についての著者の分析は、バイエルン人の現在でも変わっていないと思われる性格を物語る。即ち、この左翼政権は、ベルリンの中央政府からの分離独立という、バイエルン人の最も大切な一点において、バイエルン支配階級、農民、軍部、市民層一般の支持を得ることができたのである。しかし、いったんレ−テの武力によりベルリンからの分離を実行してしまうと、今度は保守派にとってはレ−テの使用価値はなくなってしまう。レ−テ指導者のアイスナ−が右翼団体により暗殺されると、左右両派の対立が激化するが、最終的には中央政府国防軍の支援を受けた右翼志願兵部隊によるミュンヘン包囲を経て、1919年5月、半年余りの期間の後このレーテ共和国は武力制圧されるに至るのである。ヒトラ−が戦後の右翼政治活動を開始したのはこうした環境であった。

その後、ヒトラ−がバイエルン右翼運動の中で頭角を現していく過程での幾つかの伏目をフォロ−すると以下のとおりである。まずバイエルン軍隊内の政治啓発コ−スへの抜擢(1919年6月)、ドイツ労働者党への参加(同11月)、ホッホブロイハウスでの同党の25カ条網領公布(1920年2月)、同党の全権掌握(1921年7月)。この過程でヒトラ−を指導者に押し上げていったのは言うまでもなく彼の弁舌の才であった。そして、バイエルンのみならず、ドイツ全土で雨後の筍のように林立し、対立していた右翼民間国防運動の中で、彼のナチス党が台頭していったのも、このヒットラ−の弁論能力が、あらゆる政治団体の中でこの党が「最も厳格でかつ目的意識のある有能な政治指導部」を有しているとの評価をもたらしたからである。

イデオロギ−面での大衆掌握と並行し、暴力装置としての突撃隊もこの間に勢力を拡張する。1923年、フランスのル−ル占領に対する「受身の抵抗」ヘの軍事的対応として、国防軍と民間国防団体が統一的指揮下に置かれたのを契機に、突撃隊の準軍隊化が進む(ゲ−リングの突撃隊司令官就任)。同時に突撃隊は引き続き党集会防衛の仕事も頻繁に担当したことが、他の民間国防団体との相違であった。ナチの影響力は、この時期はせいぜいバイエルンに限られていたが、それでも政治集会におけるこの2つの力、即ち「レトリックの巧妙な使用と会場の完全な支配」を通じて政治的成功を収めていった。

1923年のル−ル占領は、マルクの暴落とハイパ−インフレをもたらし国民生活を直撃。それがライン左岸の分離運動、バイエルン、中部ドイツなどの反ベルリン機運の高揚を促し、ドイツ分裂の危機を招くことになる。バイエルンでは、全独国防軍司令長官ゼ−クトとバイエルン国防軍司令官ロッソウとの緊張が、中央政府とバイエルンのカ−ル政権の対立となり、バイエルンでの一揆の懸念を高めていく。ベルリンヘの進撃と国民的独裁の布告か、バイエルンとライヒとの分裂か、という選択肢からロッソウが選択したのは前者であったが、内閣は決断を行うことができず、しかし民衆の反感を恐れ右傾化した政策を採ることになる。ところが、10月に入ると、レンテンバンクの設立と金本位制復帰による通貨改革を経て、インフレは終結、経済的安定期が訪れる。中央政府の信用が強化されるのに伴い、バイエルンからベルリンヘの進撃と全ドイツ的な右翼独裁という路線の現実味は遠のいていく。バイエルン政府の路線に従いながら、迅速に行動すること。ベルリン進撃計画の茅の外に置かれたヒトラ−が自ら一揆に立ち上がることを決断したのはこうした状況下であったが、著者がここで示そうとしているのは、このヒトラ−の行動が、「ドイツ支配勢力の中枢と基本的には共通している目的を追求していた」という点である。

11月8日の夜から9日の午前にかけて勃発したビュルガ−ブロイケラ−の一揆は、バイエルン国防軍の支持を得られなかったこともあり、結局は失敗し、ヒトラ−自身も逮捕されることになるが、彼を始めとするこの一揆の指導者たちに対する制裁が寛容であった背景には、まさにこの一揆が、ある部分で当時のバイエルン民衆の雰囲気を反映していたからであり、またその意味で突発的、衝動的な無謀な計画ではなく、十分計算されたものであったことを物語っている。またこの一揆成功の際に支配権力を握る予定であったバイエルン三頭政治家(カ−ル、ロッソウ、ザイサ−)がぴたすら責任をヒトラ−一人に押しつけようとしたこともあり、むしろこの一揆以降は右翼集団の間でのヒトラ−人気を押し上げる結果になったと言う。しかしこれ以降はワイマ−ルの安定期が続く中、1925年に合法化された後も、ナチの勢力には目立った勢力伸張はない。しかし、ヒトラ−が獄中で書き上げた「我が闘争」による宣伝効果もあり、他の右翼勢力が消滅していく中、それらを吸収し生き延び、1929年以降経済危機の発生と共に再び政治舞台の正面に踊り出ることになるのである。

著者のナチ分析はこうして創生期から1923年末までで一服し、次章は第二次大戦中のヒトラ−の思想を、前記の大本営におけるヒトラ−の言行録から再現することに費やしている。著者はまず、ナチスの思想と主流派の右翼思想(それは一方がプロイセン保守−王朝−反動派であり、他方がバイエルン保守反動派である)の間にある共通点と相違を整理する。即ちバイエルン保守派は、「農業的貴族的利害のみを重視し、ただバイエルンだけの郷土的権益を固執」し、「あらゆる進歩革新には反対」し、且つ「対外侵略に対しても積極的ではない。」また「その反ユダヤ主義は党派的見地に立つものであって人種論的ではない。」またプロイセン保守反動派は「ホ−エンツォレルン王朝至上主義であり、頑固なプロテスタントであり、プロイセン王国の領土拡張にのみ熱心であるが、その他の点ではバイエルン保守反動派と同様の性格を示す。」これに対し、ナチスは、基本的にはこうした「大ドイツ派」と一致するものの、他方でその疑似社会主義革命的大衆運動方式をとったことや、意識的なデマ宣伝の流布、更に反ユダヤ主義と東方進出、あるいは民族協同体論と人種論を極端な形で主張した点において大きく異なっていた。

しかしここで著者が意図しているのは、後年のヒトラ−の発想が、ここまで見てきた創生期の思想と根本で大きく変わっていないことを示すことにある。最近になりようやく全体が翻訳されたこの言行録は、ある意味ではヒトラ−の饒舌とその魔力を伝える格好の素材であるが、内容的には「きわめて機械的な生物学的人種論と優者必勝の原理、反ユダヤ主義、ドイツ民族の生存圏の拡張とドイツの反共的ヨ−ロッパ的使命、投機資本と金本位制を否定するフ−ダ−説に基づく経済理論と第一次大戦の敗北とドイツ革命に対する『背後からの一突き説』」等、ヒトラ−の1919年夏以来の根本思想がそのまま表現されている。せいぜいの相違としては、「東方大帝国の建設、政党政治と議会の排除、一党独裁の樹立、自給自足経済の確立」が加わっているが、これは私から見れば、ヒトラ−に限らず権力の頂点にいる独裁者にえてして訪れる、現実から遊離した誇大妄想に過ぎない。それらはフィクションとして読むと面白い内容を含んでいるが、責任ある政治家として一国の運命を握った人間の抱くべき発想ではない。結局オウムにおける麻原の如く、個人領域での言説の魔術性が政治世界に拡大すると結果は悲劇的なものとなる。麻原に帰依した人間はそれでも少数派であったが、ヒトラ−の場合はポピュリズムの手法を駆使することによりこの魔術を多数派までに高めることができたのである。そしてこのポピュリズムを成功させたのが、まぎれもなく、ヒトラ−の言説が基本的に有していたドイツ保守主義の伝統だったのである。

こうしてヒトラ−の初期の思想を丹念に追いかけ、更にそれを後期の言説により連続的なものと捉える著者の手法は、1923年から1941年までの中抜きがあるものの、意外に効果的である。そして最初に書いた通り、この書物が既に約30年前に出ていたにも拘らず、現在読んでも全く新鮮であることが不思議なくらいである。バイエルンの独立意識のように、現在のドイツ生活の中で実感として感じる事項も、こうした歴史的文脈の中で明確に位置付けられる。ナチズムを一時代の一個人による特殊な現象と見るのではなく、大きな歴史的文脈の中に位置付けることにより、我々は間違いなく戦後ドイツが歩んできた道とその根底にある思想をもう一度改めて確認することができるのである。

読了:1997年6月2日