アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
ヒトラ−の外交官
著者:J.ワイツ 
ヒトラ−物を続けて取り上げる。作者は、1922年、ベルリンで生まれた後、1938年に、家族と共に米国に移住したユダヤ人。戦中、戦後は米戦略事務局なる機関で反ナチ活動に従事すると共に、ファッション・デザイナ−としても成功した器用な人物で、こうした歴史フィクションを発表する一方で、戦後の独米関係の改善という社会活動にも献身した経歴を持つ。そうした人間が、丁度彼の家族が米国に亡命した時期に、大戦直前のドイツ外交を取りしきり、また当時の常識では考えられないような奇策を次々に打ち出し、飛ぶ鳥を落とす勢いであったリッペントロップを主人公に据えて、この混乱と悲惨の時代を綴ったのが本書である。リッペントロップが、既に取り上げたゲッペルスと同様、最後まで盲信的なヒトラ−信者であったことから、勢いリッペントロップの生涯を描くことは、彼を通じてヒトラ−を描くことになる。しかし同時に、ドイツ中産階級出身(貴族の称号は後年養子縁組みにより手に入れた)のただの「シャンペンのセ−ルスマン」で、若くして英国やカナダの文化に触れた経験も有するリッペントロップが、かくまで狂信的なナチとなり、ヒトラ−に最後まで従ったのは何故なのか、という疑問が本書のメインテ−マであることは間違いない。その意味においては、本書は、ヒトラ−の前に、社会的にも人格的にも崩壊していったドイツ中産階級の物語である、と言うことができる。

青年期までのヨヒアム・リッペントロップの成長を特徴付けているのは、多くの海外経験である。軍人であった父親の勤務で、フランスのメッスで10代の一時期を過ごし、スイスを経てロンドンに短期間滞在し英語を習得、そして10代の最後は冒険を夢見て兄と共にカナダに渡り、そこで幾つかの事業を起こしている。その後何度かドイツとカナダの間を往復した後、第一次大戦の勃発と共にドイツに帰国し軽騎兵としてトルコの戦線に参加。大戦後はベルリンに戻り、戦争省に語学専門家として雇われるが、ベルリンの上流階級のコネと、礼儀正しく、ハンサムな容姿も武器にしてシャンペン輸出入業で蓄財すると共に、外務省を中心にした人間関係を築いていく。ビ−スバ−デン在住の富豪のシャンペン一家の娘と結婚しベルリンに居を構えるのもこの頃である。政治的にはベルサイユに対する批判的な姿勢を隠さず、しかし商売上はユダヤ人の銀行家とも親しく交際していくしたたかさを持っていたと言う。そして当初はヒトラ−の反ユダヤ主義には懐疑的であったにもかかわらず、古くからの友人バ−ペンが首相に就任すると彼の命を受け、副首相への就任を説得すべく、バイエルンの山中でヒトラ−と体面し「打ちのめされ」ることになる。「ヒトラ−はこととあれば、相手に向かって自分の考えや夢や論理を何時間でもドラマチックな表現を使って、とうとうと述べるエネルギ−を備えていた。(中略)ヒトラ−の印象として誰もが指摘するのは、いわゆる論理性と野獣的な迫力をともなった説得力だった。」こうしてヒトラ−の魔術の虜となったリッペントロップは1932年にナチに入党する。

ナチ入党後のリッペントロップの上昇過程を著者は当時のナチの勢力伸張過程と重ね合わせながら描いていくが、これはリッペントロップに焦点を当てた著者の時代総括である。遅れてきたナチ党員としての焦り、他方でナチの外交通としてのノイラ−ト外相を始めとするプロの外務官僚との相克、狂暴な突撃隊に対抗する親衛隊への参加、「軍縮会議全権大使」ヘの任命(1934年)、レ−ム粛正後力を増した親衛隊ヒムラ−ヘの接近、海軍船艦協定を巡る英国との交渉の成功と英国大使への任命(1936−38年)、日独防共協定の締結(英国を加えることには失敗)、英国新国王に対するナチス式敬礼事件、チャ−チルとの軋轢等。1937年には自分の外相就任の噂を流しヒトラ−にひどく叱責されることもあったが、ナチ内の人事でも陰謀や嫉妬が日常茶飯事であったこの時代に、ヒトラ−の寵愛を失うことなく、結局この年ノイラ−トの後任として外相に指名される。軍を掌握したヒトラ−は、次なる侵略に備え、職業外交官からなる外務省を自らの息が掛かった者に託する必要があった。最大の敵国の大使経験者であり、変わることのないイエスマンであるリッペントロップはヒトラ−の外務省掌握には最適な人材であったのである。

新外相にヒトラ−が指示した外交課題は@オ−ストリア、Aズデ−テン、Bクライペダ(メ−メル)そしてCダンチヒであったが、初仕事は、ベルグホフで、ヒトラ−がシュシュニク・オ−ストリア首相を脅迫するのに立ち会うことであった。彼はオ−ストリア問題になんの知識もなく「助言も進言もできぬまま」であったが、オ−ストリア併合後は、愛国貴族からゲシュタポが没収したザルツブルク近郊のフシェル城を個人的に使用することを許されたと言う。

続くチェコ問題については、リッペントロップにかかわる叙述よりも、チェンバリンの宥和政策を巡る駆け引きとその裏話が面白い。官房長ヴァイツゼッカ−の危機回避努力や駐英アメリカ大使、ケネディの「厳正中立とヒトラ−との和解」の進言、三回行われた「ミュンヘン会談」の第二回が行われたバ−ド・ゴデスベルグのペテルブルグ・ホテル(現在のブンデスハウス)とヒトラ−の常宿ドレ−セン・ホテル(先週たまたまこのホテルでのレセプションに参加する機会があった)等。そしてリッペントロップの執拗な強硬姿勢にも拘らず、ヒトラ−は英独「平和協定」に署名、チェンバリンは「われわれの時代は平和である」と述べるが、ヒトラ−は「こんな書類は大した意味はないのだ」とうそぶいた、といった話は興味深い。

1938年の水晶の夜事件と1939年のチェコ併合に続き、ポ−ランドとの間でダンチヒ問題が深刻化する。ポ−ランドの強硬姿勢が、リッペントロップ外交の最大の成果である独ソ不可侵条約への道を開く。ナチスのイデオロギ−と共に歩んだ筋金入りのナチ党員には想像もつかない、国際的実業家としての彼の柔軟性の真骨頂を示すことになるこの悪魔との協定の背後には、ポ−ランドを中心とする欧州の合従連衡のパワ−ポリティックスがあった。そうした工作の中で、リッペントロップはスタ−リンをその気にさせるのに、英国よりも一瞬早く成功したのである。しかしポ−ランドと開戦しても英国は介入しないだろう、というヒトラ−の賭けは明らかに傲慢であった。リッペントロップが自分の最大の成果を誇示し、ドイツでヒトラ−に次ぐ影響力を有したこの瞬間は、また彼の没落への出発点であったのである。

「戦争は形を変えた外交である」というクラウゼビッツの指摘は、ことリッペントロップの場合には全く外れていたと言えるだろう。人生最大の成果を達成した直後の開戦により、彼は事件の中心から外される。外交の時代は終わり、軍人の時代が到来していたのである。リッペントロップは親衛隊の三番目に位する上級分隊長に昇格するが、独自の活動の余地はない。著者も主として戦争の年代記を追いかけながら、その中でリッペントロップが所属するヒムラ−の親衛隊の権力拡大と残虐行為の日常化を描くことにより、基本的には目立たないこの戦争中のリッペントロップの姿を浮かび上がらせようとする。ヒムラ−の名前のついた列車内の総司令部に寝泊まりする開戦初期の日々、パリ陥落後もこの町に足を踏み入れなかったという不可解、対外宣伝の担当を巡るゲッペルスとの抗争、英国の親ドイツ派ウインザ−公の抱き込み作戦の失敗、そしてリッペントロップの最大の業績を葬り去る独ソ開戦−「モスクワに、私はこの攻撃に反対であったと伝えてくれ」というのが彼のモスクワとの外交ル−トヘの最後のメッセ−ジであった。

戦局はスタ−リングラ−ドの敗北を契機に一転し、著者はその後は、リッペントロップには目もくれず、ヒトラ−暗殺計画などの歴史に多くのペ−ジを割いている(ファビアン・フォン・シュラ−フレンドルフなる暗殺失敗者が、連合軍の爆撃により救われた話は、この男の縁戚で、私の身近で働いているドイツ人スタッフの家族的誇りであった)。リッペントロップに関しては、ヒトラ−の自殺の数日前に、チェコ問題の進言にベルリンの地下壕を訪れたことが触れられているが、敗戦後はハンブルクに逃れ、そこで「夢遊病者のようにフラッシュバックの世界に生きて」いるところを、古い友人の息子の通報により占領軍に逮捕され、そしてニュ−ルンベルク裁判での死刑判決を受け執行されていくのである。

裁判で最後まで彼がヒトラ−への忠誠を否定せず、且つ他方で自分の犯罪を認めようとしなかったのは注目される。かつて丸山真男は日本ファシズムの分析によせて「日本ファシズムの責任者たちが、自己の戦争責任を否定したのに対し、ナチスの高官は皆自分の責任を引き受け、薄笑いさえ浮かべながら処刑台に昇っていった」と書いたが、リッペントロップに関する限り、自らの違法性に関する無意識という点では日本ファシズムの指導者とさして差がある訳ではなかったように思われる。おそらくは、無法者集団のナチ高官の中にあって、彼は数少ない上流階級(それが成り上がりであってとしても)出身であったこと、そして若い頃の外国での経験を含めそれなりに広い視野を有したインテリであったことが、その他のナチ分子とは異なった感受性を示した理由であったのだろう。しかし、同時にそうしたインテリが最後までヒトラ−ヘの忠誠を否定しなかった事実が、多くの構造分析の限界を越えた、ヒトラ−の宗教的魔術を物語る素材になっている。結局リッペントロップの生涯は、オウムに帰依した教養人の心理と同様の現象が、危機と戦争の時代に政府レベルで発生した一つの先例と言えるのである。

読了:1997年6月22日