ヒトラ−・ユ−ゲント−青年運動から戦闘組織へ
著者:平井 正
ナチによる「強制的同一化(Gleichschaltung)」の中でも、青年運動の組織化である「ヒトラー・ユーゲント」は最も成功したものの一つであった。それはアーリア系美少年を思想的にも調教し、ヒトラーの権力装置の中での呪術的象徴性を持たせることを意図したプログラムであり、それが成功したことは、「ユーゲント」の名前が世界に広がったこと、そして戦後も、この運動に組み込まれた世代が大きな悔恨を持ってこの時代を振り返らざるを得なかったことからも明らかである。この書物はそうした「ユーゲント」運動の形成と崩壊を、その指導者間の権力闘争も踏まえながら跡つけたものである。
ナチ党は第一次大戦後の混乱状態の中から群小政党の一つとして誕生したが、その初期の段階で、「少年少女」であるために党員にはなれないもの達を束ねる集団として、この「ユーゲント」の原型である青年組織がその初期の段階から発足していた、という。それが大きく分けると以下の過程を経て「空前絶後」の青少年団体として発展し、消滅していった。まず@党から無視された若者の集団が、一応「ヒトラー・ユーゲント」として存在を認められ、Aそれをヒトラーが、「自分に無条件に服従する集団」として公認し、自分と個人的な関係で結ばれたシーラハを指導者に指名、Bナチの政権獲得と共に加入者が急増すると共に、シーラハが「一元化」政策のもと、様々な組織をこれに統合、C「ヒトラー・ユーゲント法」制定により正式な国家組織となり、青少年全員が強制加入させられる、そしてD指導者がシーラハからアクスマンに変わり、組織が軍事化され戦火に巻き込まれ、敗戦と共に消滅していくのである。以下、特徴的な動きについて確認しておこう。
第一段階:初期の青年運動
1899年、社会に対し疎外感を抱いていた若者の一団がボヘミアの森に徒歩旅行を行った「ワンダーフォーゲル」がこうした青年運動組織化の原初形態であった。それが1913年のカッセル南部の山地「ホーエ・マイスナー」での「対ナポレオン戦争」勝利100周年記念集会で組織化に向けての理念化が行われたが、この段階では、この運動はドイツ的な「非政治的」で「感情的・理想主義的」青年運動であった。
しかし第一次大戦での敗戦と共に、他のドイツにおける生活世界と同様に、この青年運動における牧歌的・個人的世界も終わりを告げ、左右を問わず集団的組織を志向するようになる。その際左翼は「階級」を掲げ、右翼は「民族」を旗印としたが、これは青年運動が大人の世界と同様に政治化し、それに従属していくことを意味したのである。そしてナチ組織内においても1922-3年頃にミュンヘンのゴロツキ・ピアノ職人レンクの要望により「突撃隊」予備軍としてナチの青年組織が結成されるのである。そしてこの組織がミュンヘンから全国に次第に拡大し、その過程でザクセンのグルーバーなる指導者が頭角を現し、1926年7月この青年組織が「ヒトラー・ユーゲント」と改称され、彼が最初の指導者に任命されることになる。
第二段階:シーラハによる「ユーゲント」概念の確立
「ユーゲント」とは別の学生運動の中からシーラハが頭角を現す。このシーラハは、グルーバーらと異なり教養中産階級の出身で、米国滞在の経験もあり英語も堪能なエリートであったが、1926-7年にかけ、「ナチ学生連盟」指導者となった彼と、「ユーゲント」指導者のグルーバーとの間でヒトラー及びゲッペルスの支持を得るための権力抗争が繰り広げられるが、両者の愛顧を獲得したのはシーラハであった。それが何故であったかは推測の域を出ないが、著者はグルーバーの地域的偏狭さが、全国運動になっていたナチ運動のイメージに合わず、洗練された指導力を有するシーラハが統一青年運動の指導者として選択されたと見ている。また面白い裏話としては1932年、ヒトラーの寵愛を受け「ユ−ゲント」の全国指導者となったシーラハは、長年にわたりヒトラーの肖像写真を独占してきた写真屋の娘と結婚するが、その写真家で働いていた若い娘が、後年のヒトラ−の愛人エバ・ブラウンだった、という。
こうして「ヒトラーの最内奥のサークルに入った」シーラハのもとで「ユーゲント」のイメージが形成されていく。それは「ユーゲント」はナチの政治運動に献身的に貢献することを唯一の目的とし、そのために指導者たるシーラハ自身に絶対の服従を強いるという、ナチ理念そのものを青年組織に適用したものであり、そのために全国大会での派手なパフォーマンスや「ヒトラー少年の殉教」を扱った小説・映画による象徴操作という、ナチの一般的手法を駆使したのである。その意味で、この時期にシーラハによりミニ・ナチとしての「ユーゲント」の原型が形成されたと考えられるのである。
第三段階:拡大
ミニ・ナチとしての原型が確立されれば、ナチの拡大に並行し、「ユーゲント」も拡大するのは当然の成り行きである。シーラハはヒトラーに「最大の青年組織を提供する」と約束し、各地の青年運動を統合する動きを進める。著者は、シーラハには青年運動に付随する若者特有の理念 (ここでは明示されていないが、自由や解放といった、ヒトラーにとっては危険な理念も含むのであろう) に対する未練が残っており、そのジレンマに最後まで付きまとわれた、と述べているが、現実にはヒトラーの「一元化」政策のもと、個人単位ではなく、組織単位で統合を進めるという政治的手法で拡大を図っていく。統合を回避しようとした組織、例えば海軍退役軍人であるフォン・トロータ提督を指導者とする「大ドイツ連盟」なる組織はゲーリングに接近し独立を維持しようとするが、果たせず1933年解体され、全資産をシーラハに収奪されるのである。同じ年、ナチの政権獲得後初めての党大会(「意志の勝利」)以降、党大会では必ず「ヒトラー・ユーゲントの日」が設けられ、ナチ・プロパガンダの一環として「同一化」されたドイツ青年運動が位置付けられていく。
但し、青年運動一般を統合していったシーラハも、その概念を超える競合組織との間で後退せざるを得ない場面もあったという。それは例えば、退役軍人に率いられた「スポーツ・ユーゲント」との競合(これとは平和共存が続いたという)、そして何よりも困難だったのはカトリック青年組織の統合問題であり、これはナチ自体がバチカンとのコンコルダートにより表向き手出しが出来なかったために、シーラハにとってもアンタッチャブルの世界となっていたという。
第四段階:国家組織化
こうして1936年12月、公式の教育関係者の反対をヒトラーの権威で押し切る形で「ヒトラー・ユーゲント」を正式に国家組織とする法律が成立するが、これは「青少年組織のあり方における画期的な出来事」であったと言われる。そしてシーラハは若干29歳にして、国務大臣と同等の責任、即ち「総統兼首相」に直接責任を負う地位を得たのである。1938年「ユーゲント」の代表団が日本を訪れ大歓迎を受けるが、これはその絶頂期の出来事である。もちろんそうした外延的な活動分野の拡大は、既往の組織権益と衝突することも多く(例えばこうした擬似外交行為はリッペントロップを刺激した)、権力闘争は持続していたが、少なくとも青少年の生活の中でこの「ユーゲント」活動が最大の比重を占めていたことは間違いない。
第五段階:戦時体制と指導者後退
1939年の大戦勃発と共に平和時の「ユーゲント」活動は一変する。ヒトラーが軍事を全てに優先させる中、シーラハも軍に志願せざるを得ず西部戦線に参加するが、フランスの降伏と共に呼び戻されウィーンの地区指導者に任命される。「ユーゲントはユーゲントによって指導されなければならない」との原則から33歳になっていたシーラハはその後も最高指導者としての名誉職は維持するが、実権は27歳のアクスマンに移り、彼は「ユーゲント」の戦争への奉仕に邁進するのである。もともとヒトラーは、「理想の青年運動」などには興味はなく、彼に対する忠実な組織の一つとしてしか「ユーゲント」を考えていなかったのであるから、戦争が始まればそれに奉仕するのは当然であった。シーラハは、「ユーゲント」が出征することに抵抗感をもったようであるが、アクスマンにそうした抵抗など期待できるはずもなかった。一方で「エーデルワイス海賊団」のように「ユーゲント」の締め付けへの抵抗としての「非行化」も発生するが、いずれにしろ組織は軍事化され戦火に巻き込まれ、敗戦と共に消滅していくのである。
戦後のドイツにおける反ナチ教育の中で必ず登場する、父と子供の対話というものを読んだことがある。「ヒトラー・ユーゲント」の記載に触れた子供が、父親に「ユーゲント」とは何か、そして父親自身はどういう思いでこれに参加したのかを問いただしていくもので、外人向けドイツ語教育機関であるゲーテ・インスティチュートのテクストでも採り上げられていたものである。また68年に始まる学生反乱の時代の大きなテ−マは、こうした「ユーゲント」世代が何の反省もなく政治・経済界を牛耳っていることについての学生側からの批判であったことも知られている。このように、ナチの「同一化」が徹底的なものであり、またそれが青年運動に適用され、大成功したことが、そこで青春を過ごした人々に戦後大きな精神的屈折を残したことは間違いない。日本における戦後の価値転換も全く同じではあったとしても、ナチのそれは「青年運動」それ自体を国家機関化し、加入を強制し、そして最後は軍事化させるという点で日本のそれよりもはるかに徹底していた。それは青年の持つロマンチシズム、冒険心、反抗心といった特徴を、象徴を持って操作しつつ政治目的に昇華させて行くという、ナチの手法が集約されたものであった。戦争と混乱の20世紀は既に過去となり、現在は政治的には地域紛争が、そして何よりもグロ−バル化した経済と景気循環が主要な関心になっている21世紀には、こうした「強制的同一化」は歴史の世界に入っているかのように思えるが、それでもドイツ、あるいは欧州の発想を追体験する際には、この歴史を常に頭の片隅に置いておく必要があるのである。
読了:2001年2月17日