ドイツ参謀本部
著者:渡部 昇一
2009年に出版された新書であるが、書店で手にした時には新刊のような紹介がされていた。しかし実際はこの本の初版は1974年で、40年前の作品である。何でこれが今再版になったのかについては、序文で2009年時点の世相(田母神エッセイに伴う文民統制議論等)が理由に挙げられているが、それ以上に末尾に記載されている90年代に行われた他の学者との論争がきっかけになったようである。
その論争は、秦郁彦という学者が、著者のこの本を、ドイツ人による同種の本の「剽窃」と批判したことに、著者が反論したものである。しかし、この学者の本が、当初この本が出されたのと同じ中公新書から出ていたことから、出版社が、著者の作品の再版で著者の反批判を追加することを拒絶。そのため、著者は、今度は出版社を批判し、すったもんだの末、別の出版社から反批判を加えた新版を出すことになったようである。この本が「剽窃」であるかどうか、という問題は、今世間を騒がせている「STAP細胞」問題と同様、専門家による判断を待つしかないが、内容的には、私が以前からドイツを見る時の視点として重視している「ドイツ問題=欧州大陸の中央に位置するドイツの持つ地政学的運命」を、軍事戦略面から説明したものとして興味深い。40年前の作品であるということは、私の1991年のドイツ赴任時に既に出ていたものであることから、この時に何で目につかなかったのか、という思いはある。出版から40年を経過し、欧州情勢も、そして我々が身近に感じる東アジアの政治情勢も大きく変わっていることから、この作品が主題としている欧州大陸における戦争の戦略・戦術的は、そのまま現代に適用できるものではないが、ドイツの地政学的運命と、政治と軍部の関係についてのある見方は、依然それなりのアクチャリティを持っていると言える。その意味で、今までは感覚的に避けてきた著者の数ある「教養本」の中で唯一私の関心と重なるものであると言える。尚、この作品は直接ナチスを扱ったものではないが、外に適当な場所がないこと、及びドイツ参謀本部のナチス時期に至る前史とこじつけられなくもないことから、ここに掲載することにする。
著者は近代における欧州での陸戦の形態から、その歴史を、@30年戦争後の絶対王政の時代、Aフランス革命とナポレオンの時代、Bドイツ参謀本部の時代、C第二次大戦後の時代という4つの時期に区分している。Cについてはあらかじめこの本の対象となっていないことが明示されているので、対象は前3つの時代ということになるが、それは軍事的な意味で、ある特徴を刻印しているという。
最初の時代はいわゆる「制限戦争」の時代で、絶対君主が傭兵を中心とした軍隊により、他の絶対君主と限界的な領土を巡る争奪戦を繰り広げていた時代である。その中で、プロイセンが18世紀半ばのフリードリッヒ大王の時代に、ユンカー中心の「厳格な軍規と、徹底した練兵の伝統」を持つ強力な常備軍を備えるに至ったことが特徴的である。またこの時代、既に後に「参謀本部」へと成長していく組織ができていたが、当初はまだ絶対君主が「大元帥にして戦場の指揮官、同時に参謀総長」であった。しかし、このフリードリッヒ大王の治世の後半に、彼の幕僚として登場したアンハルトという軍人が、参謀的な役割を果たし、大王晩年の「戦闘なき戦闘」の常勝者の影の立役者になったという。そしてこの「プロイセン最初の参謀総長」とも言うべき人の特徴が、終始「無名」であったとして、この「無名性」がそれ以降の参謀機能の鍵となる、と著者は考えるのである。
しかしフランス革命の勃発により、軍事面でも新たな時代が始まる。それは国民国家の誕生に伴う、「徴兵制による安上がりで士気の高い国民軍」の登場であり、それを存分に使ったのがナポレオンであった。この時代軍事面では「兵士の愛国心、散兵線の利用、行軍速度、火砲の集中利用」といった変化が起こったが、それ以上に「徴兵された無制限に大量の軍隊を(統制のとれた)『師団』編成にした」ことが、ナポレオン軍が欧州大陸を席巻した主因であったと考えるのである。但し、ナポレオンは自分の天才を信じ、その大規模の軍隊を自ら全て指揮できると考えたことが限界となり、それがその後の没落に繋がる。
ナポレオンに席巻された欧州各国は、対抗策を練ることになるが、これに特に敏感に反応したのがプロイセンで、その軍事部門の中でも戦略を立案する「頭脳集団」の機能を強化する役割を担ったのがシャルンホルストという男であった。彼が行った軍隊改革の基本は「教育」である。限定戦争の時代は「リーダー次第でどうにでもなる」が、国民軍の時代は「天才的なリーダー」が必要である。しかしそうした「天才的なリーダー」でも、国民軍の規模が大規模になると指揮の限界が明らかになる。従ってシャルンホルストは、次に来るのは「教育による頭脳集団の組織的育成」の時代となることを見通し、改革派の同僚であったマッセンバッハと共に「統合的な参謀本部案」を書き上げることになる。
もちろん旧世代の皇帝絶対権力の下での改革は簡単ではなく、またプロセンもまだ19世紀初めの戦闘では敗戦が続き、シャルンホルスト自身も閑職に左遷されることがあったという。しかしナポレオン軍の凋落に伴い彼は再び復活し、「元気がよくて、どちらかと言えば単純な、そして攻撃精神だけは無闇に旺盛なブリュッヘル(将軍)」と「冷静・明敏・博識で(中略)いささかの自己顕示欲も示さないシャルンホルスト」のコンビの下でプロセン軍の立て直しが行われる。シャルンホルスト自身は、オーストリアとの連合交渉の旅路で病死するが、彼の思想は後任のグナイゼナウに受け継がれ、彼はワーテルローで、英国のウェリントンと連合し、ナポレオンに決定的な打撃を与えることになる。そして一時失脚したグナイゼナウが将軍として復活した時に参謀総長に任命したのがクラウゼヴィッツであり、彼が後世まで参照される戦争哲学を構築することになる。そして書物自体は未完のまま残されたその「哲学」を実践に生かし、「無敵ドイツ」を作り上げたのが大モルトケであった。
こうして「ドイツ参謀本部の時代」が訪れる。モルトケの下での鉄道輸送網の拡張を核とする新時代の戦略が構築され、対デンマーク戦争、普墺戦争、そして普仏戦争と連戦連勝の伝説を作り、そしてドイツ統一が実現されることになる。しかし、軍事面でのモルトケの参謀としての機能は、天才的な政治指導者としてのビスマルクの存在があって初めて発揮できたのであり、もちろん両者の間には度々対立が発生したが、大局的には「外交」と「軍事」というそれぞれの分野を信頼し、相互に干渉しなかったことがこの時代のプロイセン隆盛の最大の要因であった、というのが著者の見方である。そしてそれが弱体化していくのが、ビスマルクが退陣し、ヴィルヘルム2世が即位して第一次大戦に突入していく時期であり、そしてヒトラーの下で「ドイツ参謀本部」は完璧に圧殺されるのである。
ビスマルク後のプロイセン軍については、シュリーフェンという有能な参謀を有したものの、彼を使いこなせるリーダーが存在しなかった。「ドイツは自己より強大な国々に包囲されており、自らを守るべき天然の要害はない」という観念はドイツの指導者に歴史的に共有されており、それ故軍事的には多正面作戦は政治的に極力回避されるべき、というのが参謀本部の通念であった。しかしシュリーフェンは、「政治家のリーダーシップを信じていなかったために」こうした多正面作戦や二正面作戦に向けた準備をせざるを得ず、またシュリーフェンの引退後、第一次大戦の開始にあたり参謀総長となった大モルトケの甥の小モルトケは、激務に耐えかね、それでも多方面作戦を極力避けるように構想されたシュリーフェン・プランを骨抜きにし、結局この「敗北感のない敗戦と過酷な賠償」を享受することになったという。こうしてベルサイユ体制の下で拡大した「強いリーダー」を求める国民感情がヒトラーを生み、そして今度はその「強いリーダー」が参謀本部をことごとく無視した戦争に打って出るのである。1942年9月、それでも独自の戦略を持っていた参謀総長ハルダーが罷免され、その5カ月後のスターリングラードの大敗北以降、ドイツ帝国は奈落への道を辿っていくのである。
著者はこの過程を、「リーダー」と「スタッフ」のバランスという言葉で締めくくっているが、これは常識的な議論である。現代の組織においても、意思決定を行うラインと、その過程でそれに助言するスタッフの間には常に緊張があり、指導者はそれぞれの能力を判断した上で、そのバランスを維持・発展させながら必要な政治決断を行うことが必要であることは言うまでもない。その意味で、この本に書かれているドイツ近代における政治と軍事参謀との関係は、その議論に関わる一つの事例研究であると言える。
しかし、やはりこの本でのもっとも興味深い論点は、ドイツの地政学的運命、ということであろう。ある意味、ドイツ参謀本部というのも、ドイツが直面せざるを得なかった地政学的運命に対する軍事面からの回答であり、実際そこでは限られた軍事資源をいかに有効に利用するか、ということが真剣に検討されていた。限界は、あくまでそれが軍事的なスタッフに過ぎず、また良い意味でも悪い意味でも政治=外交にはあえて口を出さない、という伝統が形成されたことである。それは、「文民統制」という観点では確かに機能したものの、政治=外交面は政治リーダーに依存することになり、その政治リーダーが暴走する時には対応は後手になっていったのである。戦前の翼賛体制の成立期に、日本の軍部では主戦論と慎重論を巡り深刻な対立が発生し、2,26事件のような武力クーデター未遂事件が発生したが、それとの比較ではドイツの軍部は一枚岩で、最後の瞬間までヒトラーに忠実であった。ドイツの地政学的限界につき伝統的な認識を持ちながら、ある時期以降は、それを無視しようとする政治リーダーに対する抑制力を持つことがなかったというのは、その意味でドイツ固有の悲劇であった。
こうしてもたらされた第二次大戦の悲惨な結果を受け、もちろん軍部は解体され国民軍として再編されることになるが、当然ながらそれ以降は政治リーダーシップが圧倒的に強くなる。そしてドイツの地政学的なリスクを「欧州のドイツ」になることで抑える、という明確な政治的リーダーシップの下で進んできたのが、欧州統合に至るドイツの戦後史であった。もちろん徴兵制に基づく国民軍の再編が、冷戦が激化する中で決定されたように、そこでは旧東側との限定戦争の可能性は想定されていたが、それはもはやドイツ一国の戦争ではなく、西側陣営と一体になったものであり、しかも、核兵器の開発で、戦争全体の性格が、それ以前とは全く異なってしまっている状況での軍事組織とならざるを得なかった。その意味で、戦後のドイツ軍部の「参謀」機能は、必然的に欧州軍、あるいはNATO軍との協力関係の中で構築されたものであり、戦前までの「参謀本部」とは質的に異なってしまっていると思われる。そしてそれに伴い、「ドイツの地政学的リスク」自体も政治主導で縮小化されてきたと考えて良いだろう。
もちろん先般のユーロ危機に顕著に示されたように、ドイツ・ナショナリズムが「欧州のドイツ化」を声高に主張する局面があり、その際には、政治指導者とその各種スタッフとの間で、各種の緊張や軋轢が生じることは十分予想される。しかし、そこで発言力を持つのが軍部であるという状況は、現在では周辺国との限定戦争の可能性がほとんどないことから、ドイツの場合にはまず考えられない。むしろそうした問題が発生するとすれば、現在尖閣諸島を巡り緊張関係のある日本と中国の間の方が蓋然性は高いであろう。尖閣を巡り、既に中国の数々の圧力に曝されて緊張が高まっている海上自衛隊などの現場から政治リーダーに対する突き上げが高まってきた時に、自衛隊内でそれを合理的に調整できる「参謀」能力があるのか、そして政治リーダー側にそれに対する根本的な哲学に基づく政治判断が出来るのか、というのは、まさに現在の日本にとっての問題であろう。その意味では、著者のこの作品は、ドイツ問題としては既に過去の「歴史」となっており、むしろ現在の日本の一部地域を巡る国防議論を進める際により参考になるものであると考えられる。
読了:2014年3月14日