アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
ナチスの戦争                 
著者:リチャード・ベッセル 
 1948年生まれの英国ヨーク大学教授(アメリカ生まれの英国人?)によるナチス論である。「ナチスの戦争」というタイトルから、ドイツの第二次大戦の戦争戦略を中心にした記述かと予想していたが、実際にはヒトラーによる権力奪取の前史からその崩壊、そしてその余波を含めた1918年から1949年までのドイツの通史である。その意味では既に同種のものを数限りなく読んでいるので、大部分は復習である。しかし、原初の出版が2004年(この翻訳の出版は2015年9月)ということで、最新の資料や成果を織り込んだ、最も新しいナチス時代の通史であるともいえる。実際、ヒトラー全盛期の、社会民主党秘密連絡員のメモや、敗戦後の混乱期の民衆の日記など、今まで私が目にしたことのなかった資料も引用され、この時代の新たな様相も知ることができた。ここでは、そうした新しい発見に注目しながら、この悲惨な時代とその余波を見ていくことにする。

 まず全体としての視点は、ナチ政権の目的は「人種という視点から考え出された闘争と戦争」であり、「戦争はナチの成功の前提条件であると同時にナチの企ての本質であり、ナチ政権の活動とナチに従属させられた人々の生活を支配した」という総括に端的に示されている。即ち、ナチにとっては、権力の目的は戦争のみであり、そこではある段階での均衡という発想はなく、果てしなく戦争だけが、その政権の存続理由であったと見るのである。その結果、戦争は留まるところを知らず、敗戦が確実になっても、国民の犠牲を最小化するための停戦努力という発想は全く生まれなかった。「戦争による勝利か死か」という二者択一だけが、この政権の本質であったと見るのである。

 こうした週末論的な香りに満ちた政権の成立を、第一次大戦後のドイツ社会を覆った「ベルサイユの『絶対的命令』に対する敵意」とか「背後からの一突き伝説」といった良く知られた表現で語りはじめるが、この辺りは、それほど新しい資料や分析が示されている訳ではない。また1933年、彼を過小評価しながらも、共産主義者たちに対抗させるためにヒトラーを首相に担いだ保守支配層や軍部が、次第に浸食され、ヒトラーに取り込まれていく過程も良く知られたものである。ただ、ならず者の赤裸々な暴力組織であるレームの突撃隊を、親衛隊や軍部と結託し粛清する1934年の「長いナイフの夜」は、若い頃感動したヴィスコンティの映画、「地獄に落ちた勇者たち」で描かれたとおりであるが、この粛清が「あらゆる階層の人々に大きな満足を持って受け入れられ」、これを国会で報告したヒトラーの人気が更に上がったというのは、復習の範囲ではあるが、ヒトラーによる独裁確立に向けた大きな政治決断であったことが示されているのは興味深い。即ち、軍部はヒトラーの力を借りライバルを排除したが、他方で「殺人の共犯者となったことで、後年、総統と共に世界戦争と集団殺戮への道を無節操に進まざるをえなくなってしまう」ということになる。またナチの経済政策については、公共投資主導の需要創出策により不況からの回復を促し、一般の人々は「『良き時代』が戻ってきたような気分を味わっていた」と評価されているが、著者の見方は、これは「赤字財政によって経済成長と繁栄を促すケインズ主義の需要管理政策のたぐいではなく」、「そもそも(ヒトラーにとっては)経済は富を生み出す領域ではない。軍事征服に必要なハードウェアを供給するための領域であり、政権の全経済政策の根底には再武装への決意があった」と断言している。それは「資本家が制御していない資本主義経済」であり、「ナチ経済の目的は金を儲けることではなく、戦争をすることにあった」というのは、この本での著者の主張の大きなポイントである。また1938−9年にかけては、政府支出の半分以上ードイツの国民総生産の約15%―が軍事予算に充てられていたというが、こうした計画は「もし使う予定のない軍備であれば」平時に維持できるものではない。そしてそれは明らかに使われることを前提とした政策で、その決意を明確にしていたヒトラーのみならず、国防軍幹部も認識していたという。ナチ政権の目的は戦争そのものであった、というこの本の主題が、ここでも繰り返されている。そして、社会民主党秘密通信員の1936年夏の報告が紹介されているが、そこでは、第一次大戦の記憶が残る中で、この政権が再びドイツを世界大戦に追い込むのではないか、という不安に加え、「物価上昇、低賃金、門不足、宗教活動に対する党の干渉、政府の役人や党幹部の不快な振る舞い、汚職」等への不平があったが、それでも、「全般的にNSDAP政権は弱体化の兆候をまったく示していない」と報告されている。対抗勢力による分析であるだけに、それなりの客観性がある証言として捉えることができると思われる。こうしてオーストリア併合、水晶の夜、ズデーテンランド併合とミュンヘン会談等を経て、ナチ政権はその目的である再度の世界大戦―しかも今回のそれは「反ボルシェヴィキ運動、人種主義による大量殺人」と結びついていたーに突入していく。

 この戦争は、著者によれば、「征服と略奪のために行われた人種戦争」で、「理性に基ずいて国営を守ったり、国家の安全を確保したりするための闘いではない」という点で、それまでの戦争とそこで行われた部分的な残虐行為とは性格を異にするものであった。

 それでも「ドイツが1939年9月に開始した戦争は、少なくとも最初の段階では従来の戦争と同じに見えた。」それが異なっていくのは、ワルシャワ陥落後、国家保安本部が再構成され、「侵略部隊の後方でナチの現実的な敵や想定される敵を始末する特別行動隊(Einsatz Gruppen)」が本格的に行動を始めてからであったという。この舞台の目的は、単に占領地のゲリラ的な抵抗運動を圧殺することだけではなく、占領地のユダヤ人の追放をも明確な目的としていたのである。それがユダヤ人大量虐殺に拡大していくのに時間はかからなかった。またバルバロッサ作戦で開始されたソ連との戦争は、「ヨーロッパの文化領域におけるアジアの影響を一掃することにある」として、「アジアとの戦い」として位置付けられていたことが説明されている。もちろんナチスにとっては、同盟国日本など眼中になかったのであろう。しかし、「戦争行為の野蛮化」が最も極端に現れたこの東方での戦闘は、それがパルチザンによる抵抗を促し、更に伸びた補給線と冬将軍の到来で、戦況の転換をもたらしたことは言うまでもない。そして、1943年のスタリングラードでの敗北が物語っているように、決して退却を許さないヒトラーの姿勢は、戦略における合理性を全く欠いたものとなっていったのであるが、これはこの本で主張されているとおり、「戦争を続けることだけが目的」であった、「軍事戦略なき『総統国家』」、そして「ナチズムが職業軍人の精神構造まで浸透していた」この政権の性格についてのもう一つの実例となっている。ただ戦況が明らかに悪化する中で、特に実業界などは「週末論的なナチの狂信よりも現実に目を向け」、「敗北後の世界を合理的に見据えた」対応を取り始めていたということも指摘されている。しかし、戦争被害を少しでも軽くするために和平を模索する動きは、1944年7月のシュタウフェンベルクらによるヒトラー暗殺未遂事件で、決定的に実現可能性を断たれることになったことは、言うまでもない。そして、連合軍の爆撃により全土の焦土化が進んでも、ナチ政権には、戦争の「終了計画」はなかった。こうして「先進工業国が最後の最後まで戦い、攻守ともに数十万人の死傷者を出した市街戦の末、敵軍部隊が政府所在地を制圧してようやく降伏した」という「現代史上はじめて」の終末を迎えるのである。

 戦時中の細かい挿話の中で、面白かったのは、1942年に軍需相に就任したシュペーアが、「資源をより効果的に利用し、国防軍を意思決定にかかわらせないことによって、軍需産業に『生産の奇跡』を起こすことに成功」したために、戦闘資源が確保され、その結果として「戦争の最後の2年間に数百万の命を失う」ことになった、という指摘である。ドイツ流の製造技術における合理主義がドイツの壊滅的な破綻を招いた、ということになる。

 ナチ政権崩壊直前の最後の数か月の民衆の不安と苦難、そして逃亡について、著者はかなりのスペースを割いて説明しているが、これは「その期間の恐怖に対する評価が、一般に受け入れられているドイツの戦争のイメージ(中略)を変える」のみならず、この国民の「『最後の奮闘』のショックは、ナチ・ドイツの戦争初期の記憶に取って代わられ」、これが「他のヨーロッパ人の見識と基本的に異なる被害者意識」となり、それが「第三帝国での出来事の多くについて沈黙させる基盤となった」と論じている。戦後を扱った最後の章で、敗戦国の民衆が耐えねばならなかった苦難が、当時の庶民の日記も引用されながら描写されているが、そこではナチズムは「完全に消え去った」というのもドイツの敗戦の特徴であった。「背後からの一突き」とは言えない完膚なきまでの敗北は、日本と同様、国内のゲリラ的抵抗など発生する余地を微塵たりとも残さなかったである。そしてこの最後の時期の苦難の記憶から生まれた「自分たちはナズムの加害者ではなく戦争の犠牲者なのだ」という認識が疑問視されるまでには、「少なくとも一世代の時間を要することになった」として、この通史を終えている。

 一流の文化を生み出した先進工業国で、なぜこうした合理的な思考を一切排除した終末論的な政権が、民衆の圧倒的な支持を得て成立したのかは、今まで繰り返し議論されてきた。この作品では、そうしたこの独裁国家成立の原因分析には深く立ち入らず、その実際の政策と行動から、この政権の生活を再定義しようというのを目的にしているように思える。その点では、前者に関して私がかつて接した、多くの社会経済的・心理的な分析と比較すると、この通史はやや表面的なもので、且つ使われている素材も、その「終末論的」性格を示すことのみに比重が置かれているような印象を受ける。それは恐らくは欧米系の合理主義者から見たナチ政権の分析であり、歴史的なドイツ思想への理解を踏まえた内省的な分析ではない。その意味でやや物足りなさが残る「復習」であったが、他方でドイツ近代史についての最近の議論として押さえておく意味はあると思われる。

読了:2016年7月9日