ナチスと映画
著者:飯田 道子
今回の一時帰国時に、ブックオフで見つけた、2008年出版の新書。著者は、1960年生まれのドイツ文学者で、出版当時は立教大学等の非常勤講師と紹介されている。
ナチス関係の映画作品を通じて、ナチスの映画政策や、ナチスやヒトラーらへの認識の変遷、そして最終的にはこの過去を総括しようというドイツ社会の試みを論じた著作であるが、あえて言えば、ナチスにかかわる映画評をまとめた、気楽に読み流せる作品である。ただ、ナチスに関する文献についても同様のことが言えるが、そこで紹介されている映画は結構な数に及び、私が見て評としてまとめているものは、そのうちのほんの僅かである事に気づかせてくれる。これを読みながら、自分が見た作品について、改めて記憶を思い起すと共に、まだ見ていない作品を、将来どこかのタイミングで見てみたいとの思いを抱くことになったのである。
著者は、ドイツ映画の創世記を導入部に、ナチス、なかんずくゲッペルスによる映画のプロパガンダとしての積極利用、そしてナチス崩壊後に、ナチスやヒトラーを素材として作られた映画の中での表現の変遷を解説していく。そのうち、導入部については、ワイマール時代の「カリガリ博士」やディートリッヒの「嘆きの天使」等、私は見たことがないが、既に大昔にワイマール文化の断片として何度も紹介された作品が簡単に取り上げられている。
そして本論のナチス時代の映画。まずはヒトラーとゲッペルスの二人が無類の映画好きで、彼らが参加する夕食会では頻繁に、選択された映画が上映されていたこと、そしてその結果、映画がナチスの宣伝製作に大きく影響を及ぼすことになったことが語られている。
そして政権掌握後、ゲッペルスによる検閲と「評価付け」という形での映画統制の強化が進められる。映画は大別すると、記録映画と劇映画に分類されるが、記録映画で伸し上がったのが言うまでもなくリーフェンシュタールで、彼女の美意識で作られた「意志の勝利」と「民族の祭典」の撮影、編集経緯とその受容過程などが紹介される。またナチ以前から制作されていたニュース映画も、ナチ時代になると軍の中に「宣伝中隊」という専門組織が作られ、そこで作られた映像が、厳格な検閲を経て一般に公開されていたことも指摘されている(ただ、これはナチスだけの特徴ではなく、日本軍や連合軍を含め、どの国も行っていたものである。ただこの時代、日本を含め、ドイツ以外の国々では、ゲッペルスのように、こうした「文化業界」で名を馳せた政治家の名前は聞こえてこないことを考えると、ナチスのメディア政策はより一貫したものであったことは確かである)。こうしたニュース映画が、戦争の推移に従い雰囲気が変わっていったことは当然で、1945年3月22日のナチス最後のニュース映画では、ヒトラーの表情も憔悴したものになっていたという。
こうした「戦意高揚」を意図したニュース映画に対し、民衆の現実逃避的な気晴らしとして機能したのが、大戦中の劇映画であった。ここでは半分娯楽性をもったプロパガンダ映画の数々が紹介されているが、その中で、これは見るべきと感じたのは「ユダヤ人ジュース」である。これは、18世紀のユダヤ人財政家ヨーゼス・ジュース・オッペンハイマーという実在に人物をモデルとする映画であるが、ユダヤ人作家による原作では「ユダヤ人を犠牲の子羊」として描きベストセラーになったものである。しかし、この原作はナチスの下で発禁となったものの、この映画版は、ゲッペルスの後押しで「狡猾で権力欲のかたまりのユダヤ人」を描く反ユダヤ映画に仕立てられたという。また米国ハリウッド映画に対抗して、膨大な予算をかけて製作されたスペクタクル冒険映画「ほら男爵の冒険」等も、話のネタとしては面白そうである。
以降は、ナチス崩壊後の戦後に、ナチスやヒトラーがどう描かれてきたかを追いかけることになる。まずはナチス政権掌握時の作品としてのチャップリンの「独裁者」(1940年)に加え、エルンスト・ルビッチュの「生きるべきか死ぬべきか」(1942年)が紹介されている。前者と同様、後者も、ヒトラーを笑いの対象としておちょくった作品である。ただチャップリンが自伝の中で、強制収容所の実態を知っていたら、こうした殺人狂を笑いの対象とすることはできなかった、という趣旨の発言をしていることは、彼の良識を物語っているエピソードと言える。
戦後のナチス映画については、著者は時代毎に、その表現が変わっていったとして、まずは単純にナチスやヒトラーを「悪の定番」として表現する作品から始めている。その例として挙げられるのは亡命ユダヤ人監督による「わが闘争」(1960年)やヨヒアム・フェストによるドキュメンタリー「ヒトラー ある経歴」(1977年)等。同時に欧米諸国が戦争の勝利者として、敗戦国ドイツを扱う映画として「バルジ大作戦」(1965年)や「史上最大の作戦」(1962年)等。スターリン全盛時代のソ連でも「ベルリン陥落」(1949年)等の同様の映画が制作される。しかし、60年代後半から70年代に至ると、単純にナチスを悪と表現するのではない傾向が表れる。それはヴィスコンティによる「地獄に落ちた勇者ども」(1969年)のやや倒錯した美的世界であったり、カヴァーニによる「愛の嵐」(1973年)のエロティックな世界であったりしたが、このあたりは、私が思春期にドキドキしながら覗き見していた映画である。それが続いて「ニュー・ジャーマン・シネマ」と呼ばれる「マリア・ブラウンの結婚」(1979年)、「リリー・マルレーン」(1981年)、「ベロニカ・フォスのあこがれ」(1982年)等の登場を促すが、著者はこれらを「(ナチスという)過去の克服」という時代の傾向を表現していたとする。それはナチスを単純に悪として描くのではなく、むしろそうした環境で生き抜こうとした個人の苦悩に焦点を当てたと見るのである。ただそうした「ニュー・ジャーマン・シネマ」の頂点に立つシューレンドルフ監督による「ブリキの太鼓」(1979年)は、「過去の克服」とは一線を画したナチスに対する批判的視線で描かれたものであったことは、当時グラスの原作を読み、この映画を見た私の記憶にしっかりと刻まれている。そしてその延長上に80年代から90年代に多く登場したホロコーストを素材とする映画が登場する。
このテーマについては、既に戦後間もない時期に「夜と霧」(1955年)といった短編映画は作られていたが、本格的な作品は80年代以降になってからで、ここでは「ショアー」(1985年)、「ソフィーの選択」(1982年)等に加え、エンターテイメント性が加わった作品として「シンドラーのリスト」(1993年)、「戦場のピアニスト」(2002年)、「ライフ・イズ・ビューティフル」(1989年)、「ヒトラーの贋札」(2007年)等が紹介されている。またそれとは別に、アイヒマン裁判を素材としたドキュメンタリー「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」(1999年)等も注目されるという。「シンドラーのリスト」は、私にとっても、冬のドイツの映画館で見た後、アウシュヴィッツ旅行を思い立った、思い出深い作品である。
ベルリンの壁が崩壊し、ドイツが再統一された後も、ナチスを素材とした映画は間欠的に登場する。「ナチスのイメージの美的転用が賞賛をもって迎えられた」ロンクレイン監督の「リチャード3世」(1995年)や、ヒトラーユーゲントを舞台に「当時の人びとが感じたナチスの『魅力』を(あえて)提示した」シューレンドルフ監督の「魔王」(1996年)等は、私は見逃したが、是非一回見てみたいと思わせる作品である。これらの作品について、著者は、「あえて肯定的にナチスを描く」ためには「美しさの怖さを認識できる社会の成熟が、前提条件として存在しなければならない」としているが、ドイツや世界はそれだけ成熟しているかどうかについては、現在に至るまで繰返し登場するネオナチや右翼運動を見ると疑問なしとしない。そしてそうした微妙な評価は、ヒトラーを、「狂気の独裁者から、さまざまな面を持つ人間として」描いた幾つかの作品にも言える。エファ・ブラウンの目から見たヒトラーを描く「モレク神」(1999年)や、私も原作著書を読んだトラウドゥル・ユンゲのドキュメンタリー、「私はヒトラーの秘書だった」(2002年)、そしてその映画化である「ヒトラー最後の12日間」(2004年)。それは、著者に言わせると、夫々の時代の中から見た「私たちの『記憶』を反映しているイメージ」で、「ヒトラー像を探して覗いた先に映っているのは、もしかしたら自分自身なのかもしれない」とこの著作を結んでいる。
歴史解釈が、現在から見たその時代の評価だとすれば、映画による時代の解釈も、当然ながらそれが制作された時代の雰囲気を表現することになる。ドイツが抱える「過去の克服」は、決してその清算ではなく、むしろ未来に向けた過去の「記憶」の再確認となるべきものである。そうした歴史評価としての一部として、ドイツ映画ではこれからも多くの作品が登場し、議論の対象となるのであろうが、それは、今後の「ドイツ問題」の展開を見る上で、引続き追いかける価値のある作業である。そしてそれ以上に、ここで紹介されている映画で私がまだ見ていない作品を、何らかの方法で探し当てて見ていくことは、今後の個人的な楽しみとなることだろう。そうした素材を与えてくれたこの本に感謝したい。
読了:2018年10月11日