暗殺者の森
著者:逢坂 剛
「イベリアの雷鳴」、「遠ざかる祖国」、「燃える蜃気楼」、「暗い国境線」、「鎖された海峡」に続く、著者の「イベリア・シリーズ」第六作で、2010年発表の作品である。実は、前回9月の一時帰国時に、この完結編である「さらばスペインの日日」を購入し持ち帰ったのであるが、これを読み始めようとしたところで、実はこの第六作を読んでいないことに気がついた。それもそのはず、シリーズ第五作の「鎖された海峡」を読んだのは、まだ私がシンガポールに赴任する10年以上前で、その後、この作家の作品に触れる機会は、今年9月に一時帰国するまでなかった。どこまで読んでいたかが全く記憶から抜け落ちている時に、完結編をアマゾンで見つけて注文したが、その後にこの第六作を読んでいないことに気がついたのだった。
こうして今回の帰国直後からこの文庫(上下)を読み始め、大晦日に読了した。一連のシリーズと同様、基本は、第二次大戦前から戦中の時期、マドリッドを中心に繰り広げられる日本、ドイツ、英国、米国らのスパイ合戦で、日本人の北都、ドイツ人カナリス、英国人ヴァージニア等、おなじみの登場人物が、実際の歴史的背景の中で巧みに絡み合いながら物語が展開していく。しかし、今回の主要な事件は1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件である。この実際に起こった、終戦直前のドイツにおける一大事件の発生から収束までを、著者は、その実行者であるシュタウフェンベルグ大佐を核に、詳細に描いていく。そこで描かれている実行犯の心理状況や、現場での詳細な動きが、どこまで「歴史的な真実」であるかは定かではないが、少なくとも著者が、多くの資料を消化しながら、彼なりにこの事件を小説として再現しようとしたことは間違いない。その意味で、このシリーズについては、今までは特段のHP掲載はしていなかったが、今回はドイツ現代史の一断面としてのこの事件を中心にまとめ、「ドイツ読書日記」に掲載することにしたい。
1944年6月、日本やドイツ等枢軸国の敗戦色が色濃くなる時期のマドリッドからこの第六作が始まる。まずは、前作の終盤に展開した、フィクションである、北都やヴァージニアのスペイン国境越えの苦難の話に、ドイツでの反ヒトラー運動や、連合国による、ドイツへの無条件降伏通告の動きが織り込まれている。国防軍情報部(アプヴェア)長官であるカナリスは、北都との友情で結ばれているが、彼は長官職を解かれ閑職に追いやられている。北都たちは、英国でのアプヴェアのスパイが大部分逮捕され、二重スパイとなり、ノルマンジー上陸作戦での撹乱情報を送っていることを告げようと試みるが、最早それも意味がなくなっている。日本が、不可侵条約締結国であるソ連を通じて英米と和平する動きについても語られるが、むしろドイツ降伏後は、ソ連は条約を一方的に破棄し日本に参戦する、というのが、ドイツ駐在の通信社所長である尾形の見方である。そうした中、ヴァージニアは、北都に何も告げず、マドリッドを脱出しロンドンへ帰還。前作で語られた彼女のベルリンでの秘密任務の謀略を本部に報告している。ドイツのロケット爆弾、V1に怯える英国の情報部内での様々な思惑。相変わらずキム・フィルビーが不穏な動きをとり、ヴァージニアの疑念が深まっている。
そうした中で、ドイツでのヒトラー暗殺計画に移っていく。東プロイセンにある総統本営「狼の砦」に、チュニジア戦線で受けた重症から奇跡的に回復した「英雄」シュタウフェンベルグ大佐が、副官を従え、爆弾を仕込んだスーツケースを持ち到着する。到着から、会議の進行と爆弾の設置。副官が窓を閉めて、爆発の効果を高めようとするが、当日の暑さで、会議の開始時に窓は開け放たれた、といったおそらく想像によると思われる細かい描写が描かれる。爆弾の時限装置の設定と、彼の会議の中座から、爆弾の爆発。空港への逃走途中での警備兵との際どい会話を含め、著者のサスペンス的描写が続く。そしてベルリンに戻ったシュタウフェンベルグらによる戒厳令―ヴァルキューレ作戦の発動。しかし多くの関係者は、ヒトラーの死亡確認を求め、それに手間取っている間にヒトラーの生存が確認され、シュタウフェンベルグらのクーテターは失敗する。そうした経緯を、ベルリンに戻った尾形も刻々と追いかけているところで、上巻が終わる。
クーデターに失敗したシュタウフェンベルグらが逮捕、処刑されるところから下巻が始まる。その処刑を偶然目撃した尾形。そしてこのクーデターでのカナリスの関与が次の展開の焦点となる。逮捕者の拷問による自供から、芋ずる式に共犯者が摘発されるが、カナリスもその一人として尾形の目の前で逮捕される。カナリスは、取調べに対し、理詰めで、関与がないことを主張している。
そうした中、ヴァージニアが、キルビーの妨害を逃れ、再びマドリッドでの勤務を勝ち取り、北都と再会する。しかし、それもつかの間、一緒にいることころを、前作から因縁のあるゲシュタポに襲われ、北都は、ヴァージニアを逃がすために、「自らすすんだ」かのように、彼らに拉致され、ドイツに移送されるのである。
ベルリンにいる尾形は、ドイツ敗戦後の身の保全を画策するゲシュタポのハルトマンから、各種の情報を得ているが、そこで、ヒトラー暗殺への関与を疑われたロンメルの自殺の話に加え、北都が、逮捕されたカナリスとの接触を試みるため、「自らすすんで」再びドイツに拉致されてきたことを知る。カナリスと同じ収容所で拷問を受けながらも、秘密の暗号で、カナリスの動静を知り、そして接触に成功するが、結局カナリスは有罪判決を受け処刑される。一方、尾形は、北都の生存をマドリッドのヴァージニアに連絡すると共に、北都救済のために動き回る。最終的に北都の解放を勝ち取り、収容された施設に向かうが、そこには連合軍の前線部隊が迫っている。尾形が到着した時には、既に看守を含めた管理者側は逃げ出しており、北都もその他の解放者と共に、収容所から出て尾形と落ち合うが、そこに因縁のあるゲシュタポが現れ、二人を殺害しようとする。すんでのところで彼らを救ったのは、連合軍の銃弾であった。
1945年5月、マドリッドに戻った北都は、ヴァージニアに再会する。既にヒトラーは自殺し、ドイツは無条件降伏している。そこに北都に電話が入る。そこで聞こえてきたのは、収容所で使用していた暗号の打電。それはカナリスからのメッセージのように思えた。というところで、この第六作が終了する。
ヒトラー暗殺計画は、ここで描かれた「7月20日事件」以外にも、何度か試みられているが、これが最大にして且つ最後の暗殺計画であった。そのため、この事件を取り上げた歴史書も数多く出版されている。残念ながら、それらは私は目にする機会がなかったが、ネットでざーとそれらの要約を眺めてみると、逢坂のこの作品は、会議室の窓が開け放たれていたり、会議が時間より早まったため、爆弾が一個しか破裂しなかったこと、そして爆弾を入れたスーツケースを、参加者の一人がじゃまに感じ移動させたといった、後世の暗殺失敗の要因分析を含め、ほぼ史実をそのまま利用しているようである。その意味では、この作品は歴史書としての価値はない。
それにも関わらず、この作品が読者を魅了するのは、著者が、実行犯のシュタウフェンブルグなどの確固たる態度や、ヒトラー生存情報の真偽を巡る関係者の優柔不断など、人間の本性を刻々と変わる状況の中で巧みに描いていることによるのであろう。そしてそれに、フィクションとして、このシリーズの主要人物を、現場の目撃者や、関係者の救済に向かう者などとして絡ませながら、歴史の大転換の中で翻弄される人間たちを追いかけていく。スパイ戦の中での数々の謀略やそれに対する対応は、一貫したこのシリーズの醍醐味である。
こうして10年以上の歳月を経て、再びこの世界に味をしめてしまった。約一週間後に戻るシンガポールで待っている、このシリーズの完結編を楽しむことにしたい。
読了:2018年12月31日