アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
アウシュヴィッツのコーヒー
著者:臼井 隆一郎 
 「コーヒーが映す総力戦の世界」という副題がついた、2016年10月刊の、ドイツ文学者によるドイツ近代史である。大きな枠組みとしては、遅れた帝国主義国家であるドイツが、コーヒー(等)を求めて植民地獲得に乗り出すが、それがアウシュヴィッツでの大量虐殺の前奏曲になると共に、アウシュヴィッツでも「コーヒー」が、囚人たちを騙す小道具として使われたといった逸話を紹介している。そして著者の議論は、それに関連する欧米列強や日本での総力戦の時代に関わる裏話を散りばめた、ある意味ユニークな歴史観を提示することになるが、他方で、そこで「コーヒー」がタイトルに付けられるほど重要な役割をしているのかについては、やや疑問を感じさせる。著者は1946年生まれで、東大大学院総合文化研究所教授等を歴任している。

 まずイスラム・スーフィズムが、コーヒーの起源として紹介される。9−10世紀、モスレムが国家や社会に受け入れられた頃、その虚飾を排し、コーランの内面的な価値に依拠すべきことを訴えた厭世的な禁欲主義であるこのイスラム神秘主義者の何人かは、当時の奴隷制度に反対した反乱を企て、捕えられ処刑されたという。こうした神秘主義者のひとりで医者・哲学者・物理学者・錬金術師であったラーズィーという男が、エチオピアの奥地から来るブンと呼ばれる奇体なマメの医学的効能についての記載したのが史上最初のコーヒー豆についての記述であるという。このある種の覚醒機能がある食品が、異端者の愛好物として歴史に登場したというのが、この作品の導入部である。また、欧州で、このコーヒーについて初めての記録は、16世紀、この「ラーズィーの医学に引き寄せられ中東に向かった」ラウヴォルフというドイツ人が持ち帰った有用植物のリストの中に見られるという。更に、ハンザ都市の東方貿易使節の一員として、ロシア経由ペルシャに向かったオレアーリウスというドイツ人の若者の旅行記の中に、「カフワ」と呼ばれる「黒い色をして、しかも熱い非アルコール飲料」が登場し、この本が英語やフランス語に翻訳されたようである。そして政治的には、こうしたコーヒーを通したドイツとアラブとの関係の中で、時代が遥かに下った20世紀初め、ドイツ皇帝として即位したヴィルヘルム2世が、アラブ世界に誕生したサラディンという王の墓に詣でることで、ドイツは現代の総力戦の時代に突入していくことになる。この辺り、無理やりドイツとコーヒーを結び付けようとしている感はあるが、取り敢えず読み流しておこう。

 上記オレアーリウスの旅行記の影響もあったのか、まずはロンドンやマルセイユでコーヒーハウスが誕生することになる。当時は、「コーヒーは男性をインポにする飲み物」という噂があったようであるが、それはコーヒーハウスに出入りして家庭を顧みない男たち(そこには娼婦も出入りしていた)に対する女性のやっかみもあったようである。その後、植民地貿易により女性には紅茶という代替品が与えられたことで、男性=コーヒー、女性=紅茶という英国文化が育まれることになる。それに対し、17世紀後半、ドイツはライプニッツにも、最初のカフェがお目見えし、バッハの「コーヒー・カンタータ」等によると、英国とは異なり、ドイツではコーヒーは女性の飲み物という文化が広がっていったようである。ただ18世紀初めの時点で、ロンドンには500軒のコーヒーハウスがあったのに対し、ライプニッツのそれは8軒に留まっていたということを考えれば、著者が紹介している18世紀後半に生きた老詩人ハインリッヒ・フォスのコーヒー賛歌にも関わらず、ドイツでのコーヒー文化の広がりは、穏やかなものだったようである。

 さて話は、コーヒーのような植民地物資を獲得するための、「土地なき民」ドイツの拡大戦略に移っていく。18世紀後半、フリードリッヒ大王の統治下、オランダ商人に依存していたコーヒー供給から脱却すべく、「ドイツの食品化学が全力を挙げて取り組んだ品目」が代用コーヒーの開発であったという。もちろん、「遅れてきた列強」であるドイツの植民地獲得需要はそれだけではなかったはずであるが、著者はそれも一つの理由であると言いたいのだろう。またこれは、その後の「ドイツ・プロイセンの化学産業の不気味な展開」の第一歩とされ、後のチクロン等の「効率的」殺人ガス開発が示唆されている。

 こうしてドイツの植民地政策が説明される。最初に注目されるのは、ナポレオン失脚後、ポルトガルから独立したブラジルとドイツ(またはハプスブルグ)との親密関係と、それを基盤とするブラジルへの、ドイツ人傭兵を含めた移民の拡大政策である。彼らは、黒人奴隷の労働力に依存していたために労働力不足に陥っていたコーヒー農園で働くと共に、ドイツ側ではハンブルグの商社等がその輸入を一手に引受け、それが更なる移民計画に連なっていく。またこれとは全く関係ないが、当時のドイツに、母国と気候・風土の似た北海道の植民地化を進めようとした勢力がいたというが、ロシアとの軋轢を懸念したビスマルクが、これを止めたというのも、本当かどうかは定かではないが、面白い逸話である。そしてその代わりにドイツが目を付けたのが東アフリカのザンジバル(タンザニア等)であった。

 この地域の植民地化を進めたカール・ペータースという男が紹介される。詳細は省略するが、この男が主導して「ドイツ保護領東アフリカ」がドイツの最初の植民地となるが、これを最終的に承認したビスマルクは、英国との対立を避けるべく、慎重に決断を下したとされている。しかし、この植民地での、例えばコーヒー・プランテーションは、労働力不足により現地労働者を過酷な労働に駆り立てたことから大規模な反乱を惹起させ、それは武力で鎮圧したものの経済的な利益を確保することができず苦しい経営を余儀なくされたようである。それにも関わらず、ビスマルクの失脚後実権を握ったとなったヴィルヘルム2世の下で、ドイツは向う見ずな世界戦略に驀進していくことになるのは、誰もが知っているところである。そして彼は、ケルンの銀行家にして、イスラム研究者であるオッペンハイム等の助言を受け、オスマントルコとの同盟と、英仏へのジハードを呼びかける。これが20世紀の「総力戦」の幕開けとなるのである。その最初の「総力戦」である第一次世界大戦を、著者は、ルーデンドルフやヒンデンブルグの動きを中心に描いているが、この辺りはよく知られた話である。そしてワイマール時代を経てヒトラーの台頭へ。この過程で面白かったのは、この時期、IGファルベンが、軍拡により打撃を受けた農業に代わり、代用コーヒーにも使える栄養価の高い大豆の開発研究を続けていたということ。しかし、この貴重な食糧がネズミなどの害獣によって食い荒らされることを防ぐための害虫駆除剤の開発も進め、それがチクロンBという、人間絶滅の毒ガスへと連なっていったのは、科学研究の悲劇の一つであることは言うまでもない。
 
 著者の脱線は、ドイツ人や日本人が移民した「コーヒー王国」ブラジルの近代史にも触れることになる。現地の官憲が逮捕したブラジルでの反乱指導者プレステスのドイツ人妻が、ゲシュタポに引き渡され、ラフェンスブリュック強制収容所で最後を迎えるが、その収容所ではカフカの恋人ミレナも収容され、そこで死んだという。

 こうして最終章である「アウシュヴィッツのコーヒー」に移るが、これは冒頭に紹介したように、処刑される囚人(「回教徒―ムーゼルマン」と呼ばれた)がガス室入室前に不吉な予感を抱き、反抗や暴動を企てることがないよう、「シャワー」の後にはコーヒーが待っているとして、周囲にそれらしき炊事車等が手配されていたという逸話。かつてドフトエフスキーが、窮迫のどん底で「俺に今一杯のコーヒーが飲めたら世界はどうなっても構わぬ」と呻吟し、またそれを引用した清岡卓行が特高に厳しく追及されたあのコーヒーが、ここでは殺人のための小道具となったという悲劇が示されている。しかし著者は呟く。「コーヒーとカフェという人間と社会に多大な影響を与えた制度の歴史はその発端から奴隷制度に深く関連している。」それはそのとおりである。他の香辛料の収奪と同様、列強によるコーヒー農園での収奪は奴隷制労働に支えられて成長し、またその植民地争奪戦は近代の「総力戦」とその後の民族浄化や国家破綻の悲劇をもたらしたことは間違いない。あるいは、現代においても、そうしたコーヒー農園等は、資本による若年労働や事実上の強制労働に支えられている可能性も残っている。私はコーヒーには特段の個人的な思い入れはないので、著者がこの食品にこだわり、近代史をこれに関連付けて語ろうという動機を十分共感することはできない。そしてその近代史の多くの部分は、今まで私が学んできたことの復習であった。しかし、少なくとも、今や老齢に達したこの著者が、この「遅れてきた帝国主義国家」ドイツ近代史を、モスレム圏の歴史も含め、彼の有する幅広い知識の中で再構築しようという意図は十分楽しむことができたと言える。

 尚、この著作は、書名にも関わらず、ナチスが中心の課題ではなく、ドイツ近代史全般にわたるものであるが、他に適当な範疇がないことから、便宜上ここに掲載する。

読了:2020年10月31日