ヒトラー演説
著者:高田 博行
1955年生まれであるので、私と同年代のドイツ語学者による、ヒトラー演説を分析した2014年6月出版の新書である。ヒトラーやナチスについては、既に多くが語られているが、ヒトラー演説での使用語彙による分析や、その時代毎の変化、そしてその演説が、夫々の局面で、民衆やその他関係者にどのように受容されていたかを、また別の資料にもあたりながら検証していく等々、新しい視点からのヒトラー・ナチス論となっている。
まず演説の使用語彙による分析であるが、著者は、1919年10月、彼がミュンヘンのビアホールで行った初めての演説を含め、「入手できる演説文を機械可読のデータとして集積し、コンピュータを用いた計量的分析を行う」という手法を用いている。当初は、いわゆる「ひげ文字(ドイツ文字)」をソフトで読むことができなかったが、2004年頃にはそれに対応できるソフトが開発されたことから、活用することができたという。
その分析の結果、政権獲得に至る時期から政権獲得以降も、大きな武器であった彼の演説の特徴が浮かび上がることになると、著者は言う。著者は、1933年の政権獲得期(前期)までと、それ以降の時期(後期)のヒトラー演説で主要された名詞や形容詞を、二つの時期での使用変化の大きい順に並べ比較している。それによると、前期は、名詞では「人間」や「運動」、形容詞では「ゆっくりとした」とか「市民」と言った語彙の使用頻度が高いのに対し、後期になると名詞では「国防軍」、「兵士」、形容詞では「国民社会主義の」、「イギリスの」といった語彙の頻度が高くなる。この辺りは、著者が意図しているほど明確に、それがそれぞれの時代のヒトラー演説の説得力を高めたとは言えないものの、運動勃興期から拡大期にかけてはより抽象的な表現が多いのに対し、政権獲得後は、より具体的な対象を持ち出すことが多くなったと理解することにする。
二つ目の特徴であるヒトラー演説の時代毎の変化であるが、その前に、この「天性の演説家」であったヒトラーの文法的な特徴も面白い。それは、例えば敵味方を明確に意識させる「対比法」、印象を強める「誇張法」、他方で「平和」や「意思」といった抽象名詞を使う「曖昧表現」、あるいは「真偽判断と価値判断を表す」「法助動詞」を多用するといった表現を、時代を通じて巧みに使っているということである。弁論術の常道である、@発見、A配列、B修辞、C記憶、D実演という展開は、別の言葉でいえば「起承転結」であるが、ヒトラーが早い時期にこうした技量を備えていたことを著者は説明している。また1923年のミュンヘン一揆で逮捕され、裁判を経て服役したヒトラーは、1925年に釈放されるが、今度はその直後の演説で、いくつかの州や都市での2年間の演説禁止措置を受けることなる。その時期に「我が闘争」を執筆(ヘス等に口述筆記させたものであるが)し、「プロパガンダと演説に関する理論的な考えをまとめる」ことになるが、いわばそうした「不遇期」が、1929年の世界恐慌で一変し、彼の演説を核にしたナチスの勢力拡大が進むことになる。その実践を可能にしたのが、1928年以降使用されることになったマイクとラウドスピーカーであり、またそうした戦略を考案した1930年4月ナチ党の全国宣伝指導者に就任したゲッペルスの手腕であった。この結果、ドイツの政治が流動化し、総選挙が何度も繰り広げられた1932年、ナチスは一気に選挙での得票を増やすことになる。この時期、ヒトラー演説での使用語彙としては名詞では「憲法」、「政府・統治」、「指導(部)」、形容詞では「政治的な」、「経済的な」、「憲法に基づく」といった表現が「有意な差をもって」用いられているが、ここには「政治と経済を前面に出し、憲法を順守しながら政権獲得を目指している」ことが示されている。この年の2月から11月にかけて、ヒトラーが、デフリーントというオペラ歌手から秘密裏に発声法やジェスチャーの訓練を受けた、というのも面白い話である(これは、2007年公開の「わが教え子ヒトラー」というドイツ映画になっているという)。
こうして1933年、政権を獲得したヒトラーの演説は、それまではナチ党には許されていなかったラジオ、そして映画も通じ、国民に広く伝えられることになる。しかし、ヒトラーのラジオ演説は、当初は「原稿棒読み」の、あまり説得力を感じられないものであったことから、以降ゲッペルスは「マイクの前で孤独に演説原稿を読み上げるのではなく、多くの聴衆を前にしてヒトラーが直接語り掛ける演説会場からラジオ中継することにした」という。また著者は、映像化されたヒトラー演説を使い、彼のジェスチャーや声の高さ等につき細かく分析しているが、このあたりでの成長も前述のオペラ歌手による訓練の成果なのだろう、彼の演説技術は、明らかにそれ以前よりも巧みになっているとしている。
しかし、それが直ちにナチ党の政権強化を生み出したかというと、そうでもなく、同年3月の選挙ではナチ党は国会議席の過半数を獲得できず、共産党の非合法化により、ようやく過半数を確保することになる。その後、「国民啓蒙宣伝省(当然、ゲッペルスが大臣)」が設立され、そこを通じ大規模集会やそれを伝えるラジオの国民受信機の開発普及、そしてある時期からは、そのラジオから流れるヒトラー演説の強制的聴取等に努めることになるが、当時の亡命社会民主党の機関紙によると、結構国民は冷めていたこともあったようである。もちろん反ナチの視点からの報告であるので、全てその受け取る必要はないが、「一年半前からずっと同じことを繰り返しているだけ」のヒトラー演説に国民が飽きていたり、強制的に聞かされることへの反発もあったことが指摘されている。1935年に公開されたリーフェンシュタール監督の有名な党大会の記録映画「意思の勝利」さえも、一般的なプロパガンダとしての成功という評価の裏で、「くだらない」という感想も聞かれたという。この辺りは、ナチの「同質化」政策にも関わらず、面従腹背する人々もまだ残っていたということだろう。
1935年以降は、ベルサイユ条約破棄以降の海外拡張政策の中で、周辺諸国を意識した外交演説が中心となる。これらの演説では当初は「平和」が強調されたが、次第に戦時態勢に備える表現や英米に対する批判が増えていくことになったのは当然である。著者は、この時期も引続き、上記の亡命社会民主党の機関紙の記事を追いかけるが、ここでも記事では「醒めた国民」の存在が報告されることになる。そして対ソ戦開始後の1941年1月、「力強く勝利の確信」を語ったヒトラーも、1943年2月、スターリングラードでの敗北後は「聴衆のいない部屋で語られたヒトラー演説がラジオで放送されるようになった」が、これは著者によると「10年前の政権掌握直後にヒトラーが失敗と感じた」「聞き手とつながりのない演説」となっていったという。特に戦争の開始後は、多くの国民は、戦意を高揚させる彼の演説よりも、戦争の終結時期を知ることに関心を移していたという。もちろん、無根拠の希望的予言を除けば、それが示されることはなかったのであるが・・。1945年1月、地下壕で録音されラジオで放送されたのが、ヒトラー最後の演説となり、また映像としては同年3月のヒトラーユーゲント表彰式が最後となった。後者では、インタビューを受けた青少年の声は入っているが、ヒトラーの声は入っていないという。
ヒトラーの演説力は、確かに群を抜いており、それがナチの政権獲得の大きな要因となったこと、そしてそのために、彼自身がひとかどの努力をしたことは間違いない。そうした彼の演説の「魔力」を、使用された語彙分析という手法を含めて明らかにした著者の力量には敬意を表する。
他方で、その使用された語彙分析というのは、当然ながら時々の政治情勢により規定される部分が大きく、恐らくそれはヒトラーに限られた特徴ではない。例えばこの時期のチャーチルの演説の使用語彙を分析すれば、同じような結果が得られることになるのだろう。その意味では、この語彙分析は、あくまでヒトラーとナチス党の、それぞれの時代の優先事項や戦略を示すものに過ぎず、演説の説得力についての普遍的な分析になっている訳ではない。そして、その点では、彼の演説の文法構成や、彼がオペラ歌手の教えを受けた発声法やジェスチャー等の身体表現の方が、現代の我々も参考にできる普遍性を持っているということになる。
トランプを含め、現在の世界でも「ポピュリスト」的政治家の存在感が増す中、そうは明言されないが、元祖「ポピュリスト」のヒトラーが注目されていることは間違いない(「ネオナチ」という表現!)。もちろん、日本の政治トップのように、「感情のこもらない原稿棒読み」よりは、気持ちの入った演説が聴衆に受けるのは確かであり、またそれは政治世界だけの問題ではない。しかし、気持ちだけで説得力のある演説、あるいはプレゼンができる訳ではない。その意味で、ヒトラー演説を分析したこの新書は、我々の日常生活でも参考になるプレゼン力の秘訣を教えてくれているとも言えるのである。
読了:2021年6月22日