フランクル「夜と霧」への旅
著者:川原 理子
1961年生まれの朝日新聞記者による、フランクルを巡る随想集である。フランクルは、言うまでもなく、ナチスの絶滅収容所を奇跡的に息抜き生還、戦後まもなく著した「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」に始まる多くの著作を残した精神科医にして思想家である。私もこの彼の主著は、ユリ・ヴィーゼルの著作と併せて学生時代に読み、当時それなりの感動を抱いた記憶はあるものの、その他の彼の著作には、その後は全く接することなく現在に至っている。その本と著者を巡る随想集を、今になって図書館で手に取った理由は分からないが、こうしたナチスの絶滅収容所関係を読むのは本当に久々のことであった。
書名から予想されたのは、フランクルが体験した絶滅収容所を巡る旅の中から、このナチスの蛮行を改めて追体験しようという内容であった。もちろんそうした部分も多いが、それ以上に、ある意味「遅れてきた世代」である著者は、フランクルの関係者に接しながら、生身のフランクルを感じる試みを行うと共に、そこから導かれたフランクルの思考―というよりも人生への向かい方―が、現代の我々を取り巻く多くの事象にも多くの有意な示唆を与えていることを示そうとしている。それは秋葉原での無差別殺傷事件等の被害者であったり、あるいは、まさにこの論考が朝日新聞に連載され完結した直後に発生した東北大震災・津波・原発事故の被害者であったりする。人生に絶望する事態に見舞われた人々に、「それでも人生にイエスと言う」というフランクルの想いは多くの救いをもたらしてくれる。そうした思いを込めながらのフランクル紀行である。ただそうした想いは、私がこの本に期待したものではないことから、ここでは絶滅収容所紀行に焦点を当てて記録を残しておく。
まず改めてフランクル自身の年譜を確認しておくと、既にウィーンで神経科医として活躍していた彼が家族ともども捕らえられ、チェコのテレージエンシュタットに送られたのが1942年。そしてその後1944年妻と共にアウシュヴィッツに移送されるが、そこからダッハウを経て、1945年4月テュルクハイム強制収容所で解放された時は40歳であった。その後は1946年に「夜と霧」を出版するなど、1997年に92歳で逝去するまで多くの著作や講演活動を行うことになるのである。
このフランクルについて著者は、自らの体験を重ね合わせながら、絶望の中でも生きることへの希望を失わない姿勢と、絶望の原因に関わる加害者を恨むのではなく、ただ被害者の再生を促す行動を求める姿勢を何度も強調することになる。父母と最初の妻、そして妹夫妻を収容所で亡くし、一人生き残った壮絶な体験を、フランクルは、被害者意識の塊としてではなく、むしろ第三者的な冷静な筆致で報告したことで、逆にこの壮絶な体験を浮き上がらせ、そしてそれに立ち向かう人間のポジティブな心を際立たせることになるのである。かつて学生時代にこの本を読んだ時は、そうした感情はなく読んだと思うが、著者と同様、その後の人生を重ねていく過程で、より感情を込めて彼の体験を反芻することになるのはある意味当然であろう。私も仕事を辞めた今になって、いったい自分の人生は何だったのか、と思い悩むことの多い今日この頃であるが、フランクルの人生に対する姿勢は、そうした不安を追い払ってくれる力を持っているのである。彼に比べれば、自分の置かれている環境など、全く悩むようなことはない。そしてまだまだ人生は生きるに値するのだ。
それにしても、フランクルが最初に収容されたテレージエンシュタットでは、昼間の強制労働の後で、夜になるとコンサートなどの文化行事も行われていたというのは初めて知った。もちろんそれは、そこで作られた「美化プロジェクト」としての収容所映画のような、海外向けの宣伝としての糊塗された姿であるにしても、戦争初期はナチスもそうした意識を持っていたということであろう。また最後のテュルクハイムで、囚人に自費で薬を買い与えた所長と、フランクルが戦後彼の支援を行っていた、といった話も今回初めて接したものである。もちろん、それは敗戦が間もないことを感じた人間の自己保存的対応であったかもしれないが、絶滅収容所の物語に僅かな光を与える逸話でもある。
この本を読んだ後、かつて1995年にアウシュヴィッツを訪れた自分の旅行記(別掲)を読み返すことになった。戦後70年近くなっても、日本軍国主義やナチスの記憶を消え去ることは許されない。27年前に、アウシュヴィッツで自身が感じた思いを、改めて確認させてくれた一冊であった。
読了:2021年11月4日