ヒトラーの女スパイ
著者:マルタ・シャート
「女スパイ」と題されているが、あえて言うならば、ヒトラーに魅了された貴族の女が、英国を中心とした親ナチ勢力との関係を通じて、ヒトラーの宣伝役を務めたが、英独開戦と共に共に、その使用価値をなくし、ヒトラーに見捨てられ、その後は、「親ヒトラー=ヒトラーのスパイ」という汚名を払拭すべく奔走するが、結局は米国に亡命する、という話である。著者は、1939年生まれのドイツ人フリーライターで、「皇妃エリザベートの生涯」といった20世紀末のオーストリア・ドイツ王家や、ナチス時代の女性をテーマとする著作が多いという。私は、2010年に、同じ著者による「ヒトラーに抗した女たち」を読んでいる(別掲)が、この著作は、それと対極をなす、ヒトラー協力者の女の物語、ということになる。原書は2002年、邦訳は2006年に出版されている。
主人公は、シュテファニー・フォン・ホーエンローエという女性で、ウィーン生まれの「平民」であるが、その美貌により、オーストリア皇帝フランス・ヨーゼフの義理の息子(皇帝の娘の夫)の子供を身籠った(しかし、本当の父親は彼ではなかった!)ことで、離婚を前提とした形式上の結婚を行い「プリンセス」の称号を手に入れることになる。そしてその後は、皇帝関係の貴族たちの庇護を受けながら成長、第一次大戦では従軍看護婦等も務めるが、戦後は、ウィーンでサロンを催すなどして社交界の華となり、フランツという子供を抱える身でありながら、多くの男たちに言い寄られることになったという。そうした男の中に、英国ロンドンで、デイリー・メール、デイリー・ミラー等を発行する新聞社を経営するロザミア卿という貴族がおり、彼との親密な関係の中で、当時の政治世界の中に深く足を踏み入れていくことになる。
1933年、シュテファニーは、ヒトラーに強い関心を持ったロザミア卿の依頼で、彼とヒトラーとの会談をアレンジする。彼女のオーストリア皇室関係者との繋がりがこれを可能にした。そして会談後は、ヒトラー自身が、英国での親ドイツ世論操作のために、ロザミア卿のみならずシュテファニーに関心を持ち、頻繁に会談や手紙による交流を深めることになる。こうして交わされた双方からの手紙も紹介されているが、ヒトラーの手紙では、「英独交戦を望まない平和主義者」という主張が多く、現在から考えるとヒトラーが真意を隠し、戦略的に対応していたことが見えてくる。もちろんこうした対応に、シュテファニーもヒトラーの魅力の虜となる。そうした中で、ヒトラーの副官であったF.ヴィーデマンという男が彼女の虜となり、彼はその後大戦中を含め、彼女との愛人関係を続けることになったという。他方、その情報は外務大臣となったリッペントロップ(反英スタンス)にも伝わり、彼はシュテファニー(そしてヴィーデマン:親英スタンス)を監視の対象として扱うことになる。他方、シュテファニーは、相変わらず英国内の親独派との接触を重ね、そうした有力者の一人であったウインザー公(エドワード8世)とシンプソン夫人のドイツ訪問をアレンジしたりしている。そして彼女のそうした功績への報償として、ヒトラーは1938年に、彼女にザルツブルグ郊外のレオポルズクローン城を与えたという。
しかし、ヒトラーは、ロザリオ卿やヴィーデマンのように、シュテファニーの女の魅力に取りつかれて彼女を支えた男たちとは異なっていた。1938年の「水晶の夜」事件以降、反ユダヤ政策が顕著になる中、「ユダヤ系」であるシュテファニーに対する監視を強め、その結果彼女は城を出てまずは英国に、そしてそこでロザミア卿との訴訟に巻き込まれた後は、米国に渡ることになる。そこでは、やはりヒトラーとリッペントロップに「左遷」されたヴィーデマンが、サンフランシスコの総領事を務めていた。そしてヒトラーに捨てられたことを悟った彼女は、今度は一変「反ヒトラー」となり、回想録を含めた活動を始めるが、米国の公安当局は、そうしたシュテファニーを当然疑惑の視線で監視することになる。そして1942年には、米国からの追放命令が出され、ドイツ敗戦直後の1945年5月まで、収容所暮らしも余儀なくされたという。
そうした苦境にもかかわらず、彼女は生き延びて米国での滞在を許される。そして、そこで「ヒトラーのスパイ」という疑惑を払拭するための「平和」活動に邁進する。驚くべきは、既に60歳に近くなっていた彼女が新たに愛人を作り、そうした者たちに支えられてその活動を行っていたという点である。そして1964年1月には、ジョンソン大統領の就任式に招待されるまでに「名誉回復」したという。ドイツの出版王、アクセル・シュプリンガーにも見初められ「人生最後の華やかな情事」を楽しむと共に、その出版社との専属契約を結んだという。その他「リーダーズダイジェクト誌」等にも人脈を築くことになる。そして1972年6月に79歳で逝去するまで、その活力は衰えることがなかった。死去の際、彼女は病院に1905年生まれと申告していたので、実際よりも14歳若い年齢で死亡したとされた、という落ちまである。
確かに凄い人生である。本に掲載されているシュテファニーの写真を観ると、彼女がそれほどまでに多くの男たちーそれも政財界の有力者たちーを魅了してきたほどの美形であったとはとても思えない。老年の写真は、ただのばあさんであるが、それでも彼女を支えた男がいた、というのは、この女性が、単なる外見だけではない、強烈な個性を持っていたからなのだろう。彼女の回想録などで協力した者たちは、一様に彼女の記憶力には驚かされたという。そうした時代を駆け抜けた謎に満ちた一人の女性史が、反ヒトラー活動に携わった対極にある女性たちの闘いを著した著者の関心を惹いたということであろう。コロナによる自宅お篭りの暇潰しとして楽しめた一冊であった。
読了:2022年1月25日