アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
夜と霧
著者:X.E.フランクル 
 昨年(2021年)11月、「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」等のフランクルの著作に触発された元朝日新聞女性記者の随想を読み、また今年(2022年)1月には、フランクル自身の関連する著作に接し、かつてアウシュヴィッツを訪問した際の感慨(別掲)を思い出していたところだったが、今回は、その彼の最も有名な著作である本作の新訳を図書館で見つけ手にすることになった。この著作は、大学入学直後に、何らかの形で薦められた必読本に入っていたので、その時に読んでいるのは間違いがないが、当時の読後感等はなく、読んで当然という感覚のまま現在に至っていた。しかし、今回図書館で見つけたのは、1947年出版の初版(霜山徳爾訳)から30年を経て1977年に再刊されたもので、新たな訳者(池田香代子)によると、初版から「かなりの異同」があったという。もちろんそうした「異同」には注意を払うべきではあろうが、極限状況におかれた人間の「精神分析医」による回想と分析は、それを無視しても当初の価値を失っていない。そんなことで、恐らく大学時代以来、半世紀振りにこの著作を読了することになったのである。

 念頭に読んだ関連作品に記したフランクル自身の年譜を改めて確認しておく。既にウィーンで神経科医として活躍していた彼が家族ともども捕らえられ、チェコのテレージエンシュタットに送られたのが1942年。そしてその後1944年、妻と共にアウシュヴィッツに移送されるが、そこからダッハウを経て、1945年4月テュルクハイム強制収容所で解放された時は40歳であった。その後は1946年にこの「夜と霧」を出版するなど、1997年に92歳で逝去するまで多くの著作や講演活動を行うことになるのである。

 改めてこの作品を読み返してみると、小著にも関わらず、絶滅収容所で強制労働を強いられた人間が、その絶望的な状況で、どのようにして「物体」と化していくか、そしてそれにも関わらず自身と周囲のそうした変化を、精神科医として「冷静かつ客観的」に観察していく著者の能力と姿勢に驚かされる。アウシュヴィッツに移送された囚人たちが、当初抱いていた「恩赦妄想」が、親衛隊将校の小さな指の動きで、労働グループとガス室・焼却炉行きグループに分けられる冒頭の選別から始まり、取合えず生き残ったグループも、(著者の場合は、書きかけの学術書の原稿を含めて)全ての所持品を取上げられ、体毛を全て剃られたただの「裸の存在」となっていく様子(「ショックの第一段階」)、そしてそれからは、そうして「記号」だけになった囚人たちが繰り広げていく生存競争の数々(「第二段階である感動の消滅」へ)。「苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者。これらはすべて、数週間を収容所で生きた物には見慣れた風景になってしまい、こころが麻痺してしまった。」毎日、つまらない因縁をつけられ殴られることについての何も感じられなくなってしまうのである。

 それでも著者はまだ幸運だったのは、彼がある現場監督の夫婦関係の話を「精神分析医」として親身に聞いたことから、その現場監督は、工事現場への行進の際に、著者を庇ってくれたり、食事時にスープに入れる豆を若干増やしてくれたりしたという逸話が語られている。そしてそれ以上に著者が幸運だったのは、ある時アウシュヴィッツからダッハウへ移動するグループに加わったことであろう。行先の分からない、すし詰め、立ちんぼうの汽車が、「かまど(ガス室や焼却炉)のない」ダッハウに向かっていると分かった時の喜びはひとしおであった。もちろん、そこに移っても、重労働と制裁、飢えと疫病の蔓延という環境は変わることがなかったとは言え、である。それでも、労働の最中に現れたバイエルンの美しい夕陽や、時折収容所で開催される詩の朗読や音楽が、囚人の心を和ませてくれたことも綴られている。そして著者が最も幸運と感じたのは、労働隊で疲弊しきり、死も見えていた状況下で、「医師として発疹チフス患者がいる収容所」への移動が許されたことであったという。そして、囚人たちも薄々感じていたように、既に連合軍の攻勢が進んでいる中、脱走計画が検討・実施されたり、またある収容所への移送されたグループが移送先の収容所で殺されたりと、混乱の中での囚人たちの明暗が分かれることになる。そしてそうした収容所での最後の日々を回想しながら、著者は、そこで生き延びることの幸運と、それを可能にした内的な拠り所の尊さを語ることになる。その「内的な拠り所」とは、どんな逆境の中でも「自分の未来を信じる」ことであり、それを失った多くの囚人が「破綻」していったとする。3月末に解放されるという夢を信じた囚人仲間の一人は、3月末が近づき解放が困難と分かると、突然チフスを発症し死んだという例が語られている。それを受けて、著者は、「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているか」を考えることが重要だ、と主張する。この意味は、やや分かり難いが、それはただ「生き延びろ」ということで、「人間が存在することの無限の意味は苦しむこと死ぬことを含む」のであるから、それも受け止めて「ただ生き延びろ」ということだと理解する。

 そして解放。そこでは囚人たちが突然解放されたために、逆にある種の「精神的な潜水病」に犯された例が紹介されている。それは、あれだけ過酷な生活を強いられた自分は、これからは何でも許容される、といった感覚、あるいは、解放後の世界が、自分が想像したものと全く違うことによる違和感がもたらす不適応等々。それは多く語られることはないが、著者は、「ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはない、という高い代償であがなった感慨によって完成するのだ」といってこの回想を終えることになるのである。

 この前に読んだ「もう一つの〈夜と霧〉」の評を改めてここで引用したい。

 「本書の後半に収録されている訳者の解説によると、ここには「人間の真実の生き方や在り方、宗教的・道徳的・形而上学的価値や真理あるいは広義の文明批判が含まれており、同じ過ちを繰り返してはならないというフランクルのメッセージが込められている」ということであるが、そこまで深く理解する程、フランクルに入れ込める訳ではない。もちろんフランクルの心理学は「絶望に効く心理学」であり、収容所という極限状況でも希望を失わなかった彼の姿が、戦後の彼の心理療法に説得力を持たせたのは間違いない。更に、囚人の中にも、他の囚人のパンを奪い自分だけ生きながらえようとした者、他方でナチの中にもこっそりとパンを渡す者もいた、といった観察から、「人間は(極限状況でも)個人の決断次第で天使になれる可能性を失わない」といったポジティブな発想が、時代が変わってもそれぞれの危機に立つ人々に希望を与えてくれるということになるのだろう。父母と最初の妻、そして妹夫妻を収容所で亡くし、一人生き残った壮絶な体験を、フランクルは、被害者意識の塊としてではなく、むしろ第三者的な冷静な筆致で報告したことで、逆にこの壮絶な体験を浮き上がらせ、そしてそれに立ち向かう人間のポジティブな心を際立たせることになるのである。そして前に読んだ著作の評でも書いたが、かつて学生時代にこの本を読んだ時は、そうした感情はなく読んだと思うが、著者と同様、その後の人生を重ねていく過程で、より感情を込めて彼の体験を反芻することになるのはある意味当然であろう。私も仕事を辞めた今になって、いったい自分の人生は何だったのか、と思い悩むことの多い今日この頃であるが、フランクルの人生に対する姿勢は、そうした不安を追い払ってくれる力を持っているのである。彼に比べれば、自分の置かれている環境など、全く悩むようなことはない。そしてまだまだ人生は生きるに値するのだ。思想劇は理解できなくとも、こうした気持ちは改めて確認することができる著作であり、それは前著で満たされなかった期待―それは収容所のより詳細な描写と、それを通じてのフランクルの更に踏み込んだ考察への期待であったと思うーに応えるものではないが、十分満足できるものであった。」

 ここで書いた「前著で満たされなかった期待―収容所のより詳細な描写と、それを通じてのフランクルの更に踏み込んだ考察への期待」は、この本来の著作で十分満たされることになる。そしてその収容所での詳細な描写に加え、「フランクルの更に踏み込んだ考察」が、数多ある「アウシュヴィッツ物」の中でも、この著作を一段輝くものにしていることは間違いない。こうした知性でさえも、ユダヤ人ということだけで強制収容所ではただの「番号」だけの存在となり、強制労働と無慈悲な暴力、飢えと病気に晒されていたのである。そしてそれは、その後もスターリンのソ連、ポルポトのカンボジア等で、そして現在でも習近平の中国(新疆ウイグル)でも繰り返されている。こうした歴史的な著作の存在にも関わらず、権力というものは全く懲りないものであること、そしてその中で、フランクルと同じ、あるいは更に厳しい運命に晒されている人々が依然として数多く存在していることに、改めて思いを馳せざるを得ない。

読了:2022年7月27日