アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第三章 経済
第二節 金融 
ザ・バンク
著者:M.マ−シャル 
 米国人ウォール・ストリート・ジャーナル記者による欧州中央銀行論である。1998年6月、私のフランクフルト滞在最後の時期に欧州中央銀行はその活動を開始した。それまで私は7年間を、まさにこの欧州統合の金融政策を展望した市場の動きと、それをコントロールしようとするドイツ連銀との戦いの中で過ごしてきたが、それは欧州中銀の設立と共に新たな局面に入ったことを意味した。ドイツ連銀というドイツ国内では公式な金融政策の要ではあっても、欧州全体の中では、公式には表に出ない存在、しかし実質的には欧州全域の金融政策を掌っていたこの組織に替わり、欧州中銀はまさに名目及び実質両面において欧州全域の金融政策を遂行する任務を負って誕生したのである。この組織の立ち上げに際して同時代的に体験した多くの議論−所在地の問題から始まって、初代総裁の人事を巡るドイツとフランスの覇権争いに至るまで−は、まだ時間の経過が短いために、あたかも昨日のことのように、私の脳裏に残っている。そしてそうした記憶をいっきに整理してくれたのが、この作品であった。グアムの休日に、北ヨ−ロッパの日々を思い浮かべながらこの書物を読み進むことに若干の違和感を感じながらも、90年代の自分の思索と体験を反芻する大きな機会となったのである。

 この作品の特徴は、当然のことながら統合欧州の中核として、多国籍の経営者と文化が交錯するこの組織を、まずその経営者の人物像からアプローチすることによって、彼の背後にいる出身国の思惑を炙り出そうと試みていることである。以下、いつものように興味深い事実や論点を抜き出しておこう。

 統合への懸念が強まる1997年2月、バ−ゼルでのBIS総会で、英国のE.ジョージがユ−ロ導入の延期を提案するが、フランス代表トリシュの猛反対に会い、1999年1月の実施が確実なものとなる。この時点ではドイセンベルグもティ−トマイヤ−も政治同盟の欠如に起因する「安定・成長協定」の実効性につき懸念を持っていたという。その後数々の議論を引き起こすフランス代表トリシュの硬い意志が欧州の分裂を救ったという皮肉。

 中央銀行総裁となったドイセンベルグの経歴は、オランダという国のエリ−トの縮図である。大学で経済博士号を取得した後、ワシントンのIMFに派遣され、その後オランダ中銀の顧問、アムステルダム大学の教授を経て38歳で大蔵大臣に就任する。そして民間のラボバンクを経て中央銀行の理事となっていくが、この経歴は小国オランダの国際感覚と官民学一体のこの国のエリ−トの軌跡と言える。彼は、大蔵大臣時代にケインズ的公共投資主導論者(「ドイセンベルグ穴」ティ−トマイヤ−)から保守的財政改革論者に変貌し、15年間にわたる中銀総裁時代もマネタリスト政策を遂行することになったという。そしてこの中銀総裁時代にドイツ連銀の手法とティ−トマイヤ−を始めとする連銀の指導者とのパイプを作ることになる。こうして欧州中銀総裁となった彼は実質的にはドイツ連銀の政策を継承すると共に、フランスや英国からは「ドイツの傀儡」という批判をかわす政治力を試されることになるのである。

 このドイセンベルグを総裁に据える人事を画策したのはティートマイヤーであった。フランス中銀総裁のトリシェでは独仏間のバランスが悪くなることを懸念し、EMIのラムファルシ−の支持を取り付けたのである。彼の経歴はドイセンベルグと異なり、31歳で就職してから20年間経済省に留まり、そこからブラッセルのEUへの出向や経済省の欧州デスク等で国際経験を積み、省内での権力を掌握していった。1982年のシュミット政権崩壊の原因となった「ラムズドルフ・メモ」作成によりコ−ルと接近した彼は、1989年連銀理事に任命され国際通貨問題担当理事となり、ドイツ統合の舞台裏で采配を振るい、私の滞在していた1993年10月シュレジンガ−の退任を受けて総裁に就任し、1999年に退任するまで連銀の正統主義の権化として君臨するのである。

 ドイセンベルグと総裁の坐を争ったトルシェもまたフランスのENAから大蔵省(パリ・クラブの議長を経験)に勤務し、80年代半ば以降国庫局長としてドロ−ルらのEU推進派の実務部隊を指揮することになる。私の記憶にも鮮明に残る1992年9月のポンド/フラン危機の中では、ドイツ側とのぎりぎりの交渉でリラを犠牲にした上でのフラン防衛の協調を引き出すが、ティ−トマイヤ−のフランス側相手方がトリシェであった。通貨危機はその1年後にも繰返されるが、ドイツとの協調路線で乗り切った彼は、1994年9月中央銀行総裁に任命されるのである。伝統的に国家権力が強いフランス社会文化の中で、トリシェは「タカ派」として、マ−ストリヒトに規定された中央銀行の独立性確保に向けた戦いを行ってきたのである。

 欧州中銀におけるドイツ連銀からの影の実力者がティートマイヤーであったとすると、表部隊でこの役割を担うのがドイツ連銀理事から欧州中銀エコノミストに回ったイッシングである。ビュルツブルグ大学経済学部教授から1990年連銀理事に転職した彼は、一貫してエコノミストとしての存在感を示すことになる。シュレジンガ−の「厳格な通貨供給量目標方式」を受継いだものの、彼は前任者よりも柔軟に対応した。90年代始め、まだ通貨供給量が高い水準で推移していたにも関わらず、リセッション懸念から金融緩和を行ったこと(まさに私がドイツで仕事を始めた時、1992年12月をピ−クに長期金利は低下に向かった)を始めとして彼は連銀時代に環境に柔軟に対応し、かつ連銀全体をそうした方向に導くリーダーシップをとったと評価される。しかし他方1994年の再利上げに見られるとおり、大幅な賃上げや増税といった「政府の無責任な政策」に対しては果敢に「中央銀行としての聖戦」を挑み、その際彼は他のタカ派理事以上にタカ派であったと言われている。

 こうした90年代を通じてのイッシングの判断に見られるのは、連銀の伝統的な「通貨供給量管理」という手法がマ−ケットの複雑化と共に、次第に単純な適用が困難になっている姿である。イッシングは、これがかつて考えられたような先行指標ではなく、遅行指標になっているのではないかとの懸念を持っていたと言われる。しかし英国型の「インフレ目標」を認めるような金融政策における「カウボ−イ型」のご都合主義を受け入れることはできない。こうして最終的にはイッシングはECBの中においては連銀型「通貨供給量調節」方式の守護神とならざるを得ないのである。そして同時に経済における2つの重要な分野である労働市場における規制と政府の税制及び支出計画が各国政府に留まる限りにおいて、充分な金融政策は貫徹できないとの信念から、欧州中銀における政治統合の最も熱烈な推奨者となるのである。

 イッシングについての説明の後に、ECB所在地であるフランクフルトについての叙述がある。懐かしい町の光景とECB誘致の経緯に触れた後で、ECBの入居しているカイザ−通り29番地の歴史に触れている。プロイセン王族縁のホ−エンツオレルン・ハウスが爆撃で灰燼と化した後、瓦礫の中にレストランがオ−プンしたが、1971年から高層ビルの建設が始まった。私の滞在時はBfGビルと言われたそのビルは、現在はドレスナ−銀行の子会社が買収し、ECBは現在全館リースすべく交渉中であるという。

 ECB発足に当たって、シラクが総裁人事で突然介入したのも、当時のマ−ケットを騒がした事件であった。この経緯についても、著者は細かく触れている。ドイツ主導のECBに対するシラクの本能的懸念が現れたこの騒ぎは、結局シラクとドイセンベルクの「密約」で収束したが、2002年7月までにドイセンベルクが退任するかどうかは、彼の胸の内にしまわれている、というのが結論である。

 以降、フランス人副総裁C.ノワイエ、元フィンランド中銀総裁で市場操作担当のS.ハマライネン、イタリア人で国際部担当のT.P.スキオッパ(「イタリア人はドイツ人を尊敬しているが愛していない。ドイツ人はイタリア人を愛しているが尊敬してはいない」)らの理事、そしてその下で実務を支える人間達へのインタビュ−を核に、ECBの思想と日常的オペレ−ションを綴っている。1998年12月、ユ−ロ導入の直前のECBによる利下げの経緯や英国の対応、そして1999年に発生した欧州委員会の疑惑からの総辞職や欧州議会の地位の高まり等についての解説も参考になる。

 しかし、欧州中銀にとっての最大の問題は、それが通貨ユ−ロの守護神として、かつてドイツ連銀がマルクに対して持ったような強靭な信頼感を獲得できるかどうかにあることは明白である。そして著者は、このドイツ・システムの優越性を認めながらも、ECBにおいてはそれがドイツ固有のものと認識されないようになること、「それがドイツの大きな影響力を受けて設立されたにもかかわらず、欧州全体の利益に仕えているのだという事実を欧州の人びとに納得してもらうことにある」としてこの包括的なECBレポ−トを締めくくっている。実際は、ドイツの影響力が強まるどころか、ECBの金融政策はむしろ複雑化する市場の中で迷走しているように思えるのは、ECBの組織と意思決定システムの問題であるのか、あるいはドイツ・モデルそのものの終焉を物語っているのか。未曾有の世界的リセッションが進む中で、米国FRBも含め、中銀マジックの神話自体が問われている状況を、改めて我々は認識せざるを得ないのである。

読了:2001年8月13日