マルクの幻想 ドイツ連銀の栄光と苦悩
著者:D.バルクハウゼン
1993年10月29日、マ−ストリヒト条約の12ケ国批准完了を受けて開催された臨時欧州首脳会議は、欧州中銀の前身となる、欧州通貨機構(EMI)の設置場所をフランクフルトに決定した。統合欧州の中央銀行は、多くの駆け引きはあったものの、結局欧州の機軸通貨として実質的な力を有しているマルク圏に置かれることとなり、且つ、そのマルクの金融政策を司っているドイツ中央銀行のお膝下で、それを手本にして設置、発展されることになった。
この決定は、言うまでもなく、政治から独立した、最も中央銀行らしい中央銀行として、かたくなまでの通貨安定策、反インフレ政策を取り続けてきたドイツ連銀の勝利であると共に、それへの信頼の現われであったと言える。選に洩れた英国が主張している通り、統一通貨の導入とEMIが実質的な中央銀行としての機能を果たしうるのはまだかなり先のこととなろうが、この決定は、統合欧州の金融政策においてドイツ連銀がリ−ダ−シップをとることを参加各国が認めたものである、と見倣してもさして誤りではないと思われる。
この書物は、その意味で、統合欧州の金融政策の実権を握ったかに見えるドイツ連銀の実態と問題をドイツ人の目から分析したものである。著者は、ドイツ国営テレビ(ZDF)の経済担当ディレクタ−で、翻訳を、私がフランクフルトに到着した時期にまだ当地の東銀(当時)に勤務していた人間が担当している。
この書物の原題である「良いお金と悪い政治」という言葉が著者の視角を端的に示している、と言える。著者によると、この書物のテ−マは以下の4点である。
@ドイツ統一における政府の巨額の支出が、ドイツ経済に長期的に与える影響。
A東欧の経済的荒廃がドイツの財政に与える影響。
BEC統合がドイツの財政及び輸出に与える影響
C欧州通貨同盟が、ドイツ連銀の政策実行能力にもたらす制約。
強力な中銀の通貨安定策により、強いマルクを通じた強い経済力により戦後欧州の牽引力となってきたドイツが、この4点に於いて今度は政治主導により従来の通貨安定という基盤を喪失し、その結果政治的にも凋落していく。その意味で、強い政治は強い通貨を必要としており、逆もまたしかりである。こうして、この書物は、連銀の過去の栄光を反芻しつつ、現在の連銀の置かれている困難に対する警告となるのである。
シュミットの回想録でも、欧州通貨制度の導入を巡る、連邦政府と連銀の軋轢が語られていたが、戦後ドイツでは、政治的理想(それは時として政治家の単なる売名行為に過ぎないこともあるが)と経済原則が常に緊張を孕みながら進行してきた。それは、2度のハイパ−インフレの経験を有するドイツが、戦後、ボン基本法に「通貨の安定」を盛り込むと共に、それを保証する機関として、政府から相対的に独立した連銀を設置した時から開始され、見方によっては、政府の経済政策のぎりぎりのチェック&バランスとして機能してきた。「ぎりぎりの」と言ったのは、連銀の独立性を保証する連銀法12条(「連邦政府からの独立」)が、他方で最終的な政府支援をも指示している(「その任務を妨げない限りにおいて、連邦政府の一般経済政策を支持」)という二面性を有しているからである。著者はこうした緊張が表面化した事例を幾つか挙げているので以下に列挙しておこう。
@60年代半ば、ドイツ駐留米軍の費用の一部を連銀の外貨準備から支払おうとしたエアハルト首相に対して、ブレッシング連銀総裁が反対し、妥協が行われたケ−ス。
A1969年、シラ−、シュトラウス両大臣の要求に答え、連銀は、景気振興のため大量の国債リファイナンスに同意。これは、金融緩和、低金利政策と相まってインフレの土壌を形成。
B70年代半ば、シュミット首相が政府の財政難を理由に、外貨準備から50〜100億マルクを要求。クラ−ゼン連銀総裁は了承したものの、連銀本部理事の反対により実現せず。
C1979年、第二次石油危機の後、シュミット首相とマットヘ−ファ−蔵相が、外貨準備を原資とする原料基金構想を提案。連銀理事会は、内部の反対を押さえて承認するが、別の理由から計画は実現せず。
E70年代半ば、国の債務の急増時に、クラ−ゼン総裁は、国債の相場維持を名目に80億マルクまで連邦債を購入。連銀は現在でもなお50億マルクの国債を保有。
E1987年12月、証券クラッシュの後、連銀の利益減少を見て、シュトルテンベルク蔵相がペ−ル総裁に対し、将来の利益を引き当てに70〜80億マルクの前渡金を要求。ペ−ルはこれを拒否。
F1990年夏、政府は、連銀の外貨準備として保管されている、簿価137億マルクの金を元手に大量の統一記念金貨の発行を検討。当初、少額の記念コインの発行を考慮していた連銀も、一転反対に回りたち切れに。
こうした一連の政府と連銀の織り成す緊張の中で言えることは何か。著者は言う、「政治家は追い詰められると歯止めがきかなくなる。」ドイツ統一時に、国をあげての興奮の陰でペ−ルは「統一は、輪転機を回すことによって賄うことは出来ない」と警告したが、政治家は財政の困窮時には常にこの「輸転機を回す」誘惑に曝されているのである。
連銀の高度に政治的な立場を示すために、著者は1968年から69年にかけて行われた「マルク切上げ論争」を詳細に述べているが、この例は、政府、連銀間の緊張と連銀総裁の立場の難しさ、そしてその皮肉な結末を示している点で興味深いので、少し見ておこう。
国内では景気が加熱し、インフレの兆侯が顕著に現れていた1968年後半、国際通貨マ−ケットでは、ブレトン・ウッズ体制を突き崩すような、ドル資本のマルクへの流入が発生していた。資本の過剰流入がドイツ国内の更なるインフレ昂進に繋がることを怖れた連銀理事会は、マルクの切上げを要求するが、時の首相キ−ジンガ−と、蔵相シュトラウスはこの勧告を拒否する。政府の対応は、産業界、金融界の支持を受けてのものであったが、それ以上に、当時人望を集めていたSPDの経済大臣シラ−を追い落とすという目的を持っていた。景気加熱の危険に気付いたシラ−は翌69年5月、連銀の前年の勧告を深刻に取り上げ再度マルクの6.5%の切上げを提案するが、キ−ジンガ−はこれを再び拒否。しかし、その結巣として同年の総選挙では、シラ−の属するSPDが勝利し、キ−ジンガ−政権が崩壊することになるのである。
しかし、この「マルク切上げ論争」は、それまで政府と協調行動をとっていた労働組合の離反を招き、また投機筋のマルクヘの流入はシラ−の政策転換を結果的に不可能にしてしまう。1971年、連銀は投機筋の怒涛のような動きの中で、資本輸出規制を提案、しかし、結果的に投機の波は収まらず、ドイツは外為市場の閉鎖に追い込まれ、マルクのフロ−トへの移行が行われようやく再開することができたのである。こうして、連銀とその総裁クラ−ゼンは一連の事態を通じ、結果的にシラ−の信任を傷つけ、そして連銀自体の権威も損なってしまったのである。シラ−の後任となったシュミットは、ただちにシラ−の政策であるマルク切上げを実行し、またドイツの産業は、1973年以降の度重なる切上げを凌ぎ、競争力を維持していくが、クラ−ゼンのやり方は、その後も連銀理事の総裁に対する不信となって残ったのである。クラ−ゼンを引き継いだエミンガ−は、著者によると「シュミットの繰り人形」であり、結局連銀が独立機関としての信任を回復するにはぺ−ルの就任を待たざるを得なかったのである。
こうした苦い経験を経た後、ペ−ルの時代は連銀が自立性を取り戻す時代となる。それでも時として、むしろ政治的効果を心配するぺ−ル、シュレジンガ−のコンビが、他の理事達の強硬意見に譲歩せざるを得ない局面さえもあったという。
このペ−ル、シュレジンガ−・コンビが、私のドイツヘの赴任の直前の1991年8月、シュレジンガ−、ティ−トマイヤ−のコンビとなり、今年(1993年)の10月1日、シュレジンガ−が退任するまで、連銀の経済政策を担当することになるが、その2年2ケ月は、ドイツの転換期を画すものとして、私のドイツ滞在の最初の二年を印象深いものにしている。それはまさにドイツ統一の経済的負担が、否応なく政府と連銀にのしかかってきた時期であると共に、マ−ストリヒト条約を巡る欧州統合への動きが、欧州金融市場を混乱に陥れた時期でもあったのである。著者が連銀の危機を感じるのはまさにこの状況であった。
91年12月の政策金利引上げの話から始めよう。マ−ストリヒト会議の直後、欧州に統合への期待に高まると共に、他方では不況下のアメリカでのG7を控えた時期に、連銀は国内のインフレ懸念を理由に金利を引上げ、政治的な流れに大きく竿を刺した。著者によるこの決定に至る連銀理事会での議論のレポ−トは、総裁といえども理事の多数意見を無視しえないことを端的に物語っている。同時にこの利上げに対して、ドイツ国内の政府、産業界、労働界のみならず、欧州各国のマスコミで巻き起こった連銀非難の嵐は、連銀決定が高度の政治性を有していることの証唆であると共に、経済政策の独立した決定機関である連銀に対する政治的圧力が否応なく強まっていることをも示すことになった。ここに著者の最大の懸念がある。
著者によれば、今後の統一ドイツの経済発展におけるリスクは、一義的には高賃金、公的な財政赤字そして場合によって対外経済面での悪影響にあるのであって、この91年12月の利上げはまさにそのリスクに対する連銀からの警告であった。実際、この利上げ分は市場金利に転嫁された訳ではなく、また投資活動に影響を与える長期金利はむしろ低下することによって、連銀政策の正しさが証明された、という。しかし、他方で、マルクが今や欧州の機軸通貨であり且つドルに次ぐ第二の準備通貨になっているという現実も存在する。連銀の政策決定がただちに他の市場へも波及するほど金融市場は今や国際化しているのである。
その事実が、「対外政策によって連銀理事会を縛ろうとする」政治家の側からの反応となっていく。1988年の、独仏友好条約25周年に当たり、コ−ルとゲンシャ−が、フランスの要求を呑む形で、連銀の政策決定の独立性を制限しようとしたこと(結局ペ−ルの反対で実現せず)はそのいい例である。しかし、そうした対外政策からの連銀への制約は将来強まることはあっても弱まることはありえない状況になっている。「東西ドイツの統一、ECそして東欧問題によって、ドイツは弱体化の道を歩むか」という問いは明らかにイエスである、と著者は言う。戦後40年のドイツの歴史は「政治に対する経済の優位性という不文律が守られてきた」時代であった。1991年7月1日、束西ドイツの通貨・経済・社会同盟が導入され、同時にECの経済・通貨同盟の第一段階が発足した時点より、このバランスは圧倒的な政治の優位に変わってしまった。そうした状況下、連銀は「世論を啓蒙することにより、ドイツ連銀のこれまでの名声を維持するしかない」(理事会メンバ−)のかもしれない。ECの枠組みの中でそれを行うのは、はるかに困難を伴うものである。
欧州通貨統合についてシュレジンガ−が中央理事会の正式見解としてコメントした中で、彼は以下の点を明確に主張している。
@通貨政策−特に通貨価値を維持する効果を確保するためには、政治同盟という包括的な枠組みが必要であること。
A欧州中央銀行システムの地位が政治的な支持から独立し、物価の安定を第一の目的とし、対外的な通貨政策もこの目的を尊重すること。
G持続的な安定政策をとる意志と能力を実証した加盟国のみが、この通貨同盟に全面的に参加できること。
Cこの同盟の最終段階まで、金融政策は各国の責任。したがって、1994年に設立されるEMlの権限は制約される。
E最終段階においては、加盟国の経済・財政・社会政策における参加基準・収束基準を厳密に審査すべきであり、スケジュ−ルが優先してはならない。
この主張の中には、欧州統一過程の不可逆性を認識しつつも、経済政策の観点から安易な政治的妥協を排すべき、という強い意志が示されている。既にドイツ統合の過程で、政治的熱狂に押し流され、その後始末に苦しんだ経験を持つ連銀は、それ故に、欧州統合に対しては一層慎重にならざるを得ない。そうした中で、今回のEMIのフランクフルトへの招聘は政治の側からの連銀への配慮という側面があったことは否定できない。
その意味で、まずEMIのスタ−トは連銀としてもまず満足できる形で始まったと言える。しかし、それは、大きな歴史の中での小さなハ−ドルに過ぎない。私が日々の仕事において絶えずその動向に注意せざるをえないこうしたドイツ連銀を巡る政治と経済の攻防は、その意味で、ドイツ及び欧州の大きな歴史転換の重要な一側面であるのは間違いないのである。ドイツ人と連銀が、この動きをどう認識し、また如何に対応しようとしているかについてのドイツ内部からの見方として、今後私自身が、仕事として、また仕事を離れこの問題を考えていく上で大いに参考になった書物である。
読了:1993年10月10日