ドイツ連銀の謎 ヨ−ロッパとドイツマルクの運命
著者:D.マ−シュ
ドイツ金融業界で働いている者は誰もが読んでいる、フィナンシャル・タイムス編集員にして、ドイツ経済についての英国第一人者によるドイツ連銀論の定番である。既にいろいろな機会に、書評に接し、また人づてに聞いていたことも多いために、この作品が全く斬新なものとは思えなかったが、それでも幾つか新しい事実や、面白い視点も見られるので、ここで紹介しておこう。
基本的にこの連銀論は、前項で取り上げたバルクハウゼンによる連銀論と比較しながら読むと、その立場の相違が鮮明になって興味深い。バルクハウゼンの連銀論は、ドイツ国内の見方、即ちインフレ・ファイタ−としての連銀擁護の立場から、強い政治介入に曝されている現在の連銀の困難な立場に警鐘を鳴らしている。それに対し、このマ−シュの連銀論は、非ドイツ人という傍観者的立場からやや楽観的なト−ンで書かれていると言える。
この書物は大きく分けると3つの部分から構成されている。第一章から第三章までは連銀とその政策の一般的紹介、第四章から第六章までは、20世紀初頭以降の、連銀の前身としてのドイツ中央銀行の歴史(現在の連銀を理解するための必須要件である。)、そして第七章から第十章までは、連銀対政府の具体的な相克とその展望について、という具合である。最初の部分から見ていこう。
マ−シュはまず、英国にとって、連銀の経済政策が及ぼす影響から始めている。1990年9月、当時大蔵大臣であったメジャ−は、サッチャ−による長年の抵抗を押さえ、英国のERMへの参加を決定した。メジャ−は、ERMは「ドイツマルクをアンカ−とする現代の金本位制である」である、と看破していたが、それでも「イギリス政府は、すでに一連のヨ−ロッパの国々で大蔵大臣がそうしたように、その通貨主権をフランクフルトに引き渡した」のである。しかし、この決定の翌月、ドイツ統一が実現したことにより、英国の決定は最悪のタイミングで行われたことになってしまった。「イギリス大蔵省は、ドイツ連銀がドイツ統一によって引き起こされたインフレ圧力に対処するために、ドイツの金利を引き上げようと動き始めたちょうどその時に、ポンドをドイツ・マルクにリンクさせてしまった」のである。何故英国はこの難しいタイミングで、マルクヘのリンクを受け入れさせられたのか。それは、言うまでもなくドイツの経済力に裏づけられたマルクの力が今や無視することのできないものになっているからである。マルクとドイツ連銀の重要性は以下の具体例の中で示される。
@EC中央銀行をドイツ連銀型の独立機関として設置する議論の優勢
A旧東欧圏での貿易決済や投資におけるマルク流通の拡大
B旧西独は80年代に日本に次ぐ第二の債権国になると共に、外国投資家のマルク保有が増大。マルクはドルに次ぐ第二の準備通貨に(1991年末で、世界の準備通貨の18%)。但し、このマルクの国際化により、ドイツ連銀の金融政策は一層困難に。
C英国とアメリカの急進的自由主義の失敗を受けた、ドイツ型経済への注目
こうした国際的立場の高まりにもかかわらず、ドイツ連銀は時として他国を困惑せしめる意思決定を行う。1992年12月、マ−ストリヒト条約調印直後の利上げは、最近におけるそうした意思決定の例であるが、しかし連銀の側からは、ドイツでインフレを打開することは、ヨ−ロッパ全体に利益をもたらす、という模範回答が準備されている。こうして、連銀は自ら欧州通貨の番人としての役割を認識し、その意味では尊大に振る舞い始めている。この連銀の行動様式の「謎」を解く鍵は、その苦難の歴史の中にある、と考える著者は、次に連銀の前身であるドイツ中央銀行の歴史に踏み込んでいく。
1875年、普仏戦争の後、「パリ政府の金庫から滝のように流れてきた賠償金」を元に設立されたライヒスバンクが、連銀の前身となる。この金本位性に基づく国際金融の中軸となった中央銀行が、第一次大戦で、普仏戦争と同様に、賠償金で戦費を賄おうとしたのが、戦後のハイパ−・インフレというライヒスバンク最初の失敗をもたらすことになる。そして、第一次大戦後、再び政府から独立した影響力を有する国家機関となるが、「自己満足で無責任、無理をし過ぎて、決断力に欠けた人材」により、第三帝国のもとで再び政治の走愚と化していったのである。
1923年のシュトレ−ゼマンによるレンテンマルク導入時の新旧通貨の交換比率が一兆分の一、またこの計算に使用された対ドル為替は四兆二千億マルクという数字は、1990年の統一時の東西マルク1対1という交換比率と比較すると、いかに双方共、異常な数字であったかが理解できる。しかし、こうした経済の崩壊の中から踊り出た一人の総裁の物語もそれ以上に興味をそそるものである。1923年から1930年そして1933年から1939年の2回にわたりライピスバンク総裁を勤めたシャハトはその後「ヒトラ−の魔術師」と言われた悪魔的側面と、「危険な全体主義政党の中の、唯一の正気な人物」と言われた理性的側面を有する人物であった、という。このシャハトの下で、ドイツはライヒスマルクの安定と歳出削減に努め、ド−ズ案の受入れを経て急速に経済成長の道を辿り、彼はマルク安定の立て役者として称賛されることになる。しかし、ドイツに重くのしかかる賠償金問題は次第に彼の選択肢を狭めていき、結局、債務は減額されるが、以前の敵国による経済管理を受けるというヤング案を受諾した後、彼はライヒスバンクを去ることになる。因みにバ−ゼルの国際決済銀行(BlS)は、シャハトの発案で、ヤング案に基づくドイツの賠償支払いに協力するために設立されたものである、という事実は、その後BlSの中に欧州通貨機構の事務局が置かれ、それがこの4月、フランクフルトのBfGビルに移転するに至ったその後の歴史を見ると暗示的である。
1931年、世界恐慌の中で、オ−ストリアのクレディット・アンシュタルト銀行が倒産すると、急速にドイツからの資本の流出が発生する。こうした金融危機の中で、在野で活動していたシャハトは急速にヒトラ−に接近する。彼の支援を受け1933年にライヒスバンク総裁に返り咲いた時にはナチス党員ではないにしても、熱狂的なヒトラ−支持者になっていた。こうして彼は所謂「メフォ手形」により軍事費調達に大きく貢献し、ユダヤ人資本のドイツからの流出を警告することにより、ナチスによるユダヤ人の経済的収奪に道を開き、そして1938年のオストリア併合に当たってはマルクとシリングの通貨統合を推し進める等、金融面で第三帝国を支えたのである。マ−シュは、才−ストリア併合に当たり、ライヒスバンクが「経済統合と政治統合は同時に行われるべきである」と主張したのは、1990年、東西ドイツ統合に際しての連銀の主張と全く同一であった、と言う(連銀にとって、1990年の通貨統合は、初めての経験ではない!)。しかも、1938年においても、ライヒスバンクは「両国の経済構造の相違から、単純な通貨統合は『不可能』である」と結論し、あえて行う場合も両通貨の交換比率を2:1にするよう主張した。統合は強引に行われ、両通貨は1.5:1で交換され、併合されたシリングは「ボ−ナス」を与えられることになった、というのも1990年に起こった事態と類似している。
しかし52年後の現在と同様、政治主導の経済は次第に破綻に向かわざるを得ない。1939年、メフォ手形の償還を巡るライヒスバンクとヒトラ−の対立を契機に、シャハトはヒトラ−に対するコントロ−ルを失っていき、戦争の開始間近の1939年ライヒスバンク総裁を辞任する。再軍備に対する貢献をヒトラ−から称賛されながらではあったが。そして第三帝国の戦争経済は、「テクノクラ−ト、思想家、宣伝家、大酒飲みであり、詭弁、人民主義、粗雑さとドイツ中央銀行の最高職を混合させた」W.フンクにより担われ、そして敗戦により崩壊していくのである。
1948年3月、戦後の荒廃の中、フランクフルト、タウナス・アンラ−ゲの旧ライヒスバンク支店事務所で、ドイツ中央銀行はドイツ・レンダ−バンクとして再出発した。1949年5月、ドイツ連邦共和国が誕生する前に、最初の連邦機関として作られたこの中央銀行が、その後政府からの独立性を確保したとすれば、「その理由の一つは、設立当時、中央政府が存在しなかったためであった」という。このレンダ−バンクのもとで、連合国の監視を受けつつ、1948年6月にドイツマルクが導入され、戦後の西独経済の急成長と共に、この再度の通貨改革が軌道に乗っていく。しかし、連合国による非ナチ化政策のもと、このレンダ−バンクの設立自体、決して容易ではなかったことを、マ−シュは当時の豊富な資料を使い(役員会のチ−フ・エコノミストであったW.プレ−デのスキャンダルと自殺といった挿話も含め)実証していくのである。しかし、当初はマルクの為替レ−トでさえ、連合国の決定に関与することができなかったレンダ−バンクは、新総裁 W.フォッケのもとで次第に経済政策の実権を握り始め、1948年6月には、連合国の意向を受けず、公定歩合の決定を行うまでに至る。そしてこの後、連銀の独立性を維持する戦いは、連合国との間ではなく、ボン政府のアデナウア−との間で続くことになるが、最終的に1957年、レンダ−バンクがドイツ連銀に改組された時までには、フォッケは根本的な独立性を、連銀法に厳格に規定することに成功するのである。
こうして連銀の戦後が始まる。「中央銀行が国家を揺るがしてしまう恐れがある」(旧西独初代蔵相F.シェ−ファ−)という政治家の不安は、その後、政権が交替すると、改革にあたって中央銀行が「選挙民よりも大きな影響カを行使」するという事実により実証された。金融政策を決定するという連銀の手段は、「経済界にとって、核兵器のポタンにも匹敵する武器」となり、3人の首相、1966年のエアハルト、1969年のキ−ジンガ−、そして1982年のシュミットは、総選挙で敗北して失脚したのではなく、金融政策を巡る対立によって生じた政党間の亀裂が原因で退陣することになる。この3人は、全て、金融緩和に続いて金融が引き締められた結果、金利がピ−クに達した時に失脚しているのである。
しかも、エアハルトとシュミットが失脚した時の総裁であったブレッシングとペ−ルは、共にその失脚した首相によって引き立てられ、また首相の在任中は、政府と連銀の頻繁且つ親しい関係の要であった、という事実は、その後、コ−ルが、連銀との定期的交流を断ちながらも何とか生き長らえているのを見ると何とも皮肉に思えるのである。
しかし、そのコ−ルは今やドイツ統一の負債を抱えて苦悩している。経済問題の素人であるコ−ルが、統合が実態経済にもたらす影響を正確に把握することができなかったこと、そしてその後の選挙で、党派的宣伝を拡大してしまったことが、楽観的な予測が世論に拡大した最大の理由であった。しかし、野党社民党のラフォンテ−ヌも告白したとおり、ホ−ネッカ−時代の旧東独の経済力についての宣伝を、誰もがある程度は信じていた、ということもその「バラ色の統一ドイツ」伝説の大きな要因であった、とマ−シュは言う。ただ連銀だけが、その危険性を認識しており、その意味で、現在統一ドイツにおける政府と連銀の対立は、戦後の歴史の中でかつてない程高まることになる。しかも、マルクの国際的な性格故に、ポン政府の財政政策の失敗と連銀との相克は、全ヨ−ロッパ的な政治的、経済的困難を生み出しているのである。
この通貨統合時の挿話として興味深いのは、コ−ルの連銀を無視した政治手法である。1990年2月、ペ−ルが、旧東独国立銀行総裁のカミンスキ−との会談を終え、ベルリンで「通貨統合は時期尚早」との記者会見を行っていた時、ボンではまさにコ−ルが通貨統合についての緊急会議を開き、その決定をマスコミに発表しようとしていたのである。記者会見を終え、ベルリン・ケンピンスキ−・ホテルに帰ったペ−ルを迎えたのは国務大臣ザイ夕−スからの、コ−ルの決定を伝える電話であった。こうしてペ−ルのコ−ル、並びに大蔵大臣ヴァイゲル(彼は、ペ−ルの連銀総裁への就任そして再任に際し、常に反対の立場を取っていた)に対する不信は決定的になる。他方、1990年初頭から連銀理事に加わったティ−トマイヤ−は、同年4月以降、通貨統合に当たってコ−ルの特別顧問として、その後の交換比率の決定を含めた通貨統合の中心人物となっていく。
大蔵省が、旧東独支援のための新たな政府借入手段として、ドイツ統一基金を決定した際も、ティ−トマイヤ−を除き、連銀への事前相談はなく、理事たちの不興を買うことになる。ポンと連銀の開係がぎくしゃくしていたために、自らは沈黙していたペ−ルは、理事全員に書面を送り、この件での発言を慎むよう要請すると共に、更に続けて行われた理事会でポン批判を行った理事を叱責するが、これは後に提案された、統一に伴う連銀理事会の構成の見直し案と共に、理事会の中の不協和音を高めることになったのである。続けて1991年3月、ブラッセルでのEC議会、経済委員会に出席したペ−ルは、ECの通貨統合に慎重さを要求するために、準備不十分なまま行われたドイツの通貨統合は、「惨憺たるもの」であったと、不用意な発言を行い、国際金融市場でのマルク売りをもたらすという失敗をする。更に4月、ドイツ赤軍のテロにより、親友であった信託公社総裁ロ−ベッダ−が暗殺されると、公私にわたる重圧に耐える力は最早ペ−ルに残っていなかった。こうして5月、ドイツの金融面での理性を代表したペ−ルは辞任の意向を理事会で表明することになるが、これにより彼は、まさにドイツ統合という、今世紀最大の政治的事件の一つの中で、連銀と政府の葛藤を一身に体現し、そしてその犠牲者になった、といえるので
ある。
そして最後に連銀の抱えるもう一つの困難は、いうまでもなく欧州通貨統合問題である。そもそもEMSの成立にあたり、それを計画したシュミットと連銀の対立は、シュミットの回顧録の中に詳しいが、1991年12月のマ−ストリヒト条約調印以降は、それは具体性を帯びた問題になっている。一方で政治的には、統一により強大となったドイツに対する近隣諸国の不安を和らげるために、連銀としても積極的にこの統合に協力せざるを得ない。しかしそれが実現されれば、最も大きな被害を被るのは連銀であるのも明らかである。コ−ルが全幅の信頼を寄せているティ−トマイヤ−でさえ、この通貨統合の持つ危険性を指摘することに躊躇することはない。ドイツのマスコミは、右翼のビルドと左翼のシュピ−ゲルが、共にマルクの消滅に対し警鐘を鳴らす形で、世論を形成している。それは言わば「コ−ルの足元で爆発するかもしれない時限爆弾」なのである。こうした状況下で連銀は来たるEC中央銀行が連銀を模倣し、理事会と役員会の独立性が保証されることを認めさせると共に、1993年秋には、その所在地をフランクフルトにすることに成功する。しかし、加盟国のそうした妥協は、そもそもこうした妥協は受け入れられないであろう、という戦略でこの問題に取り組んできた連銀からそのカ−ドを取り上げ、検討の俎上に置いたという意味で、連銀にとっでは双刃の剣であった。いずれにしろ、今後この統合がスム−スに進むかどうかは、まさに連銀が指摘している6項目−@物価安定、A中央銀行の独立性、GECの拡大への柔軟性、C経済水準の収れん、D資産の転換、そしてE公共債務の削滅−が満たされるかどうかによる。それが成功するかどうかを判断するのはまだ時期尚早である。
欧州通貨統合を、ドイツによる欧州の乗っ取りである、と発言した英国の大臣がいた、という。理念としては、通貨統合はドイツの力を押さえる仕組みとして構想されている。しかし実際はこの過程は、どちらにも転ぷ可能性を有している、というのが真実であろう。その影響を最も被るのは連銀であり、しかもそれはドイツ政府からは独立した存在である。その意味で、通貨統合を巡る議論は、欧州各国とドイツ、それに連銀という3つの大きな当事者を有する交渉であることが分かる。苦難の歴史を経てきた連銀は、また新たな挑戦を受けているのは間違いない。
こうしてマ−シュの連銀論を一通り読み進めてみると、最初に書いたとおり、ドイツ国内の見方としてのバルクハウゼンの連銀論と基本的な相違があることが分かる。即ち、バルクハウゼンの見方の中には、政治の優位の下で、連銀は敗北し、そしてドイツの政治的な力も弱まるであろう、との悲観論が垣間見られるのに対し、マ−シュの議論の中では、依然、「国家内国家」としての連銀への幻想が見られるのである。もちろん、外国人として、連銀の現在の行動様式を理解するために、その過去に遡り、苦難の歴史にその手掛かりを見出していくという手法を採っていることから、マ−シュの議論には歴史の連続性が大きく刻印されている。国内の人間が、その歴史の終焉を見るのに対し、外国人が、より歴史による特殊性の持続を強調する傾向があるのは、比較文化論などにも往々に見られるものである。しかし、そうした歴史過程の認識に基づいた、外部の人間の客観的な見方が、より真実を語っていることも多い。おそらくは、今後の政治の季節の中で、ティ−トマイヤ−に率いられた連銀は、政治家の意向に、より注意を払いつつも、原則的には、過去の連銀の栄光を維持するべく意思決定を行っていくのであろう。その際、おそらくは、旧東独統合問題については、より伝統的な対応を、そして欧州通貨統合についてはより柔軟な対応をすることになるのではないだろうか。何故ならば、前者は、まさに現在の現実であり、後者は、依然時間を要する未来の可能性に留まっているからである。この未来の可能性はまだ連銀の現在の組織を残しながらの再編が可能であるが、旧東独再編の経済問題は、ただちに連銀の信任を葬ってしまう危険性を有しているのである。その意味で、私が連銀と付き合わざるを得ないこの数年は、連銀にとってとてつもなく重要な時期であることは間違いない。そして、この書物は、その間の連銀の行動様式を認識する上での、歴史的視点を十分に与えてくれたといえる。
読了:1994年3月8日