鉄道のドイツ史
著者:鴋澤 歩
「帝国の形成からナチス時代、そして東西統一へ」との副題がついた、鉄道の歴史を核にした19世紀半ば以降のドイツ史。出版は20202年3月で、著者は1966年生まれのドイツ経済史専門の大阪大学大学院経済学研究科教授(出版時)。ベルリン総領事館に専門調査員(当時)として駐在した経歴もある。
ドイツ語圏での鉄道が開通したのは、フランス革命の影響から統一への動きが胎動していた1835年のこと(バイエルン王国のニュールンベルグとフリュト間。英国製蒸気機関車)であった(因みに、英国の鉄道開通は1825年、欧州大陸ではフランスで1832年、日本は明治維新後の1872年)。言うまでもなく産業革命による工業化を象徴するこの新しい輸送手段がこの時期急速に欧州大陸にも広がり、ドイツでも計画が進められ、当初は英国やベルギーからの資材提供や人材支援を受け、そして1850年代には国産車両の建造を含め、輸入代替が完了したとされる。ただ当時ドイツは、39の領邦国家に分裂した状態であったことから、こうした鉄道建設の動きもやはり地域毎に分散し、その後の鉄道再編の歴史もまさにドイツ統一の動きと関連しながら進むことになる。1871年までの鉄道史は、その様子の詳細な記述となっている。
このドイツ鉄道創世記の特記事項としては、まず19世紀初頭の経済学者で政治家・事業家でもあった(しかしそれぞれの分野では「失敗者」であり、最期は自殺した)フリードリッヒ・リストが、国民経済上の鉄道の重要性について「全ドイツ」に跨る壮大な計画を提示していたこと、及びニュールンベルグとフリュト間を含め、各地域での初期の鉄道事業が、ほとんどその地域の商工業者による、商工業都市間を結ぶ私的な「ベンチャー」企業として設立された(そしてその投資家も「ビーダ―マイヤー的教養市民層」であった)ことである。そしてそれぞれがそれなりの高配当を実現し、ベルリン取引所での鉄道関連の上場株も、1841年の3社から、1847年には30社(50種類の株式)に増加したという。これは、まさに産業革命下での民間資本と投資家の最初の台頭として位置付けることができると共に、ドイツの鉄道も、国の実情を反映した地域ごとに分散された動きであったことを物語っている。そしてこうした鉄道熱が、「レールや機関車、駅資材などの多大な関連需要をもたらし、未発達であったドイツ語圏の製鉄業や機械工業に決定的な影響をもたらした」というのは、この時期の先進国共通の「経済史の常識」であるとされ、夫々の分野での影響が詳細に説明されている。そして当初は分散していた鉄道網も次第に統合され、1860年代には「ドイツ語圏を覆う鉄道網」がほぼ形成されたようである。
こうした鉄道網の発展は、夫々の領邦国家でこれに関わる法制整備を含めた「国有」化の動きをもたらしていく。1850年のプロイセン国鉄での職員の雇用関係を含めた鉄道法が、そうした「官僚制的組織形態やルール・慣行」の鉄道事業への浸透の典型例であるという。こうした様子を、著者は「ドイツ的な、あまりにドイツ的な」と題した一章で、そしてそうした中で生まれてきた鉄道技師の一団について、続く別の一章で詳細に説明しているが、それは省略する。また「失敗した」1848年・49年革命が、VDEV(ドイツ鉄道管理体協会)などを通じて、鉄道事業でのドイツ語圏全域での統一規格の導入などの影響をもたらしたことも特記しておこう。
そして1871年のビスマルクによるドイツ統一。彼は直ちに、その時点で7つに分裂していた「邦有鉄道」の国有化(「ライヒ化」)に乗り出すが、それは失敗したとされる。この「国有化失敗」について、当時の日本で後藤新平が正確な情報を持っており、それをその後の満鉄を含めた日本の鉄道の国有化に生かしたという逸話が挿入されているが、当然ながらそれが領邦国家の歴史を持つドイツと、明治維新でいち早く中央集権を実現した日本の違いである。また統一後ドイツの鉄道業が、植民地政策の一環として中国、ナミビア、トルコといった国への国際的な進出を進め、それがその他の通商や植民地問題とも重なり、その後の大戦への道となっていったことも語られる。
こうした鉄道網の戦争での役割が次の課題となる。鉄道輸送が国防上重要であるという主張は初期から軍部にもあったが、当初は、民間鉄道会社が政府の財政支援を得るための理屈であったというのが著者の考え方である。しかし、1948年・49年革命で、暴動鎮圧のための軍隊移動にそれなりの効果を発揮してから、それは次第に軍部も含めた共通認識になり、その後の1871年のドイツ統一に至る普墺戦争や普仏戦争等で、モルトケ指揮下で実績を上げることになる。しかし、その成功体験から構想された「シュリーフェン・プラン」は第一次大戦で、塹壕と駅との距離の遠さや、絶えざる敵の施設攻撃で結局効果を発揮することができなかったとされる。唯一、この大戦での大きな実績は、「封印列車」によるレーニン一行のスイスからロシアへの移送くらいであったというのは、その後の第二次大戦に至る歴史を考えると大きな皮肉であるともいえる。そしてワイマール期の鉄道管理会社統一の動きとそれに抵抗するバイエルンの動きなどを経て、ナチ時代に入っていくことになる。
ここではホムベルガーという、プロテスタントに改宗したユダヤ系の有能な鉄道技術者の生涯と重ね合わされながら話が展開していくが、この人物はなかなか印象深い。即ち、彼はまずは独立志向の強いバイエルン鉄道の技術者として頭角を現すが、その後ベルリンに招聘され、そこで戦後の混乱期、統一されたライヒスバーンのドルプミューラー総裁の下で、ドーズ案の鉄道関係での交渉や、人員・設備合理化などに手腕を振るい、財務の責任者まで登り詰めることになる。しかしナチスの政権掌握とそのユダヤ人排斥が強まる中、ホムベルガーは1938年米国に亡命し、戦争中はそこからドイツ鉄道の弱点などを米軍に助言する役割を果たすことになる。他方、ナチスは、自動車や航空機などの新しい輸送手段に目を奪われていたことから、戦争準備の過程で鉄道の優先度は低かったようである。そして戦争初期の西部戦線でのパリ陥落などでは、鉄道輸送はそれなりの貢献をしたが、ロシアへの侵略ではスターリンによる路線破壊と冬場の凍結による輸送の問題に遭遇し、結局その後の戦線転換を迎えることになる。そうした中で西部戦線での連合軍の反抗には、ホムベルガーなども動員され、ドイツ鉄道は国全体の焦土化と運命を共にすることになる。
こうした第二次大戦での鉄道輸送で議論となるのは、ユダヤ人ホロコーストで鉄道が担った役割である。ホロコーストによる死者約600万人中、約300万人が鉄道で輸送された(「デポルタツィオーン」)とされ、そのため鉄道は「ホロコーストの効率的な運営と達成に貢献した」というのが一般的な評価である。こうした「死への特別列車」は、ライヒスバーンで事務的に運営されていたが、他方で一日2万本の運行列車の内、こうしたユダヤ人移送の列車本数は一日10本程度であったことから、鉄道官僚の日常業務の中ではほとんど眼中に入らなかっただろうという点も指摘されている。何よりもこうしたホロコーストは、戦争中はほとんど知る人もなく、戦後に明らかになったこともあり、これをもって鉄道官僚を非難することはできないだろうというのが著者の見方である。もちろん、これをもって「結果責任」が回避されるものではないことも確かであるが。
こうして本書の最後は、戦後の東西分裂下でのそれぞれの地域の鉄道の苦難と再建から、1990年のドイツ統一と東西格差を抱えた状態での鉄道網の統一を経て現在に至るドイツ鉄道の様子が簡単に説明される。前述のホムベルガーは、戦後ドイツ国鉄に招聘され、一時帰国はするが、最終的にアメリカ国籍を捨てることはなかったという。そして統一ドイツ全体を管理する巨大株式会社ブンデス・バーンは、日本のように地域ごとに分社化されることなく、現在に至っているようである。
ドイツ駐在時代、私自身は国内移動にあたっては自家用車を使用することが多かったが、フランクフルトーハンブルグ間やフランクフルトーミュンヘン間でICEと呼ばれる高速鉄道を使った記憶がある。その時の印象は、日本の新幹線と同様、時間もそれなりに正確で、乗り心地も良かったように思われる。しかし、日本のそれと比べると運行本数や乗客数は少なく、やはりドイツでは、無料のアウトバーンを使った車での移動や国内線航空機との競争の中で、鉄道輸送は劣勢に立たされているというという気持ちは抑えることができなかった。それを考えると、この著作は、近代ドイツ史を、鉄道事業を核に復習するには役に立つが、堅牢な戦後のドイツ経済の中で、この鉄道事業がどのような現代的な政治課題に直面しているか、という課題については、あまり深い考察は加えられていない。ただそこで簡単に触れられているように、21世紀に入り、中国とドイツを直接結ぶ鉄道路線が開通し、当時のメルケル首相が手放しで祝ったように、ドイツの持つ地理的な位置が鉄道による連結というグローバリゼーションに直結していることも間違いないし、また環境大国としてのドイツが鉄道の持つ「環境への親和性」に注目していることもその通りであろう。そうした現代ドイツの鉄道を巡る課題は、今後の続稿を待つということになるのであろう。
読了:2025年10月26日