ドイツ近代科学を支えた官僚−影の文部大臣アルトホ−フ
著者:潮本守一
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ビスマルクの統一を受けたドイツでは、工業生産力の急上昇が見られたことは良く知られているが、その背景には自然科学特に物理学や化学といった基礎科学の急速な進歩があった。こうした観点でまずこの書に述べられている興味深い事実を列記すると以下の通りである。
@19世紀最後の25年間に世界の生理学の領域で行われた独創的研究の60%はドイツで行われた。
A同時期、熱、光、電気、磁気の領域での発見の数は、フランス(797件)、英国(751件)に対し、ドイツでは1886件と最多。
G第一回のノ−ベル賞が授与された1901年から、ナチス政権の成立する1933年までの間、物理学、化学、生理学、医学部門のノーベル賞の内3分の1がドイツ人学者に授与。
こうしたドイツにおける基礎科学の発展の陰には、学問ないしは大学の変質があった。特に自然科学における成果が、個人の学問的インスピレ−ションから、巨額の実験装置を始めとする資本投下を必要とする巨大企業に依存する方向ヘ、研究活動自体が変質していったのである。こうした環境下、ドイツ基礎科学の発展に太きく貢献すると共に、他方では「大学世界のビスマルク」と呼ばれ、目的のためには手段を選ばない独裁体制を作ったことから種々の批判にも曝された一人の文部宮僚、フリ−ドリッヒ・アルトホ−フの活動を中心に、勃興期のドイツの学問と大学、あるいは研究機関の姿を浮き彫りにしたのが本書である。
この「大学世界のビスマルク」の異名をとったアルトホ−フの文部省内でのポストは、主要な活動の時期で「大学人事担当審議官」という、省内に33名もいる審議官の一人であり、既に名声を確立した1897年から1907年まで、ようやく「第一教育局長」という4局ある内の一つの局長に昇格したに過ぎなかった。官僚としての最高ポストである次官に就任することもなかったこの人間が、実際には大学と研究機関を巡る予算の配分と人事に強大な権限を行使し、その後多くの毀誉褒貶の標的になったのである。
この理由は、彼の個人的影響力の大きさと彼の用いた行政手法にある。即ち、大学行政の責任者として彼は、まず優秀な人材を見つけるために、自分自身で張り巡らせた情報網を使い、ある個人の詳細な評価を作りあげ、これをもとに大蔵省に対しては予算獲得交渉を行い、また大学に対しては、時として大学の推薦を無視する人事を強引に行っていったのである。前者は、官僚としての強力な交渉力として彼の評価を高めるものであったが、後者は、中世以来のドイツの大学自治の伝統を標傍する大学側からは、ウェ−バ−やゾンバルトを筆頭とする激しい批判に曝されることになる。しかし、それにもかかわらず、彼の判断は、自然科学の分野においては前述のような、ドイツ基礎科学の黄金時代を作り出していくことになる。幾つか具体例を挙げよう。
「免疫に関する研究」によってノ−ベル賞を受賞したP.エ−リッヒ、「血清療法の研究」で同様にノ−ベル賞を受賞したE.フォン・ベ−リングらは、当時の大学制度の下で、しかるべきポストと研究施設、予算を与えられていなかったという。アルトホ−フが、周囲からは必ずしも評判の良くなかった彼らを強引に引き上げたことで彼らの才能が開花したと言われている。
また彼は、当時の「一領域一教授体制」の下、ポストが不足すると共に、正教授自身が講義と雑用で自分の研究活動に専念することが出来ない、という問題に対し、専門の研究機関を設立することにも尽力し、次々に実現していった。1910年、ベルリン大学創立100周年記念式典で、当時の皇帝ビルヘルム2世が、「大学の枠を超え、もっぱら研究だけを目的とする機関を作るべき」と演説し、この大学の創立者フンポルトの主張した「教育と研究の統一」ではなく、その「分離」が必要と訴えたが、このアイデアを皇帝に与えた(あるいは「言わせた」)のはこのアルトホ−フであった、と言われている。
この皇帝の演説がきっかけとなり、後世に名高いカイザ−・ヴィルヘルム協会が発足。1911年以降ここから数々のカイザ−・ヴィルヘルム研究所が設立され、これらの研究所からは、ナチス政権下ユダヤ人の研究者を失うまでに、多くの俊英が育っていく。ノ−ベル賞受賞者だけ列挙しても、次の通りリストは長いものになる。R.ビルシュテッタ−(1915・化学賞)、F.ハ−バー(1918・化学賞)、マイヤ−ホフ(1922・生理学・医学賞)、アインシュタイン(1921・物理学賞)、シュペ−マン(1935・生理学・医学賞)、フランク(1925・物理学賞)、オット−・バ−ルブルク(1931・生理学・医学賞)等々。同時に、こうした研究所は、M.ブランクら、講義下手の天才達には絶好の研究場所を与えることになったと言われている。
興味深いのは、「モダニズムの時代」と言われた同時代のアメリカでは、ロックフェラ−やスタンフォ−ドといった実業界での成功者が、次々と大学や研究所の設立といった社会事業を進め、アメリカの科学の発展に寄与していたのに対し、ドイツでは「教育は国家の独占企業」という雰囲気が支配していた点である。しかし、ドイツの遅れた産業化の下でも、ヘキスト、バイエルン、BASF、アグファといった有力企業が徐々に成長しつつあり、こうした企業が、研究所の設立に資金協力すると共に、これらの協会に評議員を送る形で行政的にも関与し、研究成果を利用、それが更なる企業発展を促していった。カイザ−の帝国の19世紀末から20世紀初頭の急成長の陰には、こうした産官複合体の形成があったのである。そしてその意味において、アルトホ−フは時代の必要性を敏感に感じ取り、その波に乗ったと言え、結果的にはそれが官僚としての彼の権力の源泉となったのである。
以上、アルトホ−フの行政手法は、19世紀から20世紀初頭の特殊ドイツ的状況の中での手法と位置付けられるが、より現代的な観点で見ると色々な議論をすることができよう。そこで最後に、今後の自分自身への問題提起としていくつかの論点のみ提示しておきたいと思う。
@著者の専門領域である、大学論のレベルの問題。当時のドイツと同様、あるいはそれ以上に科学が巨大な装置産業になっている状況下での研究機関のあり方。
A自然科学vs社会科学の研究のあり方。特にアルトホ−フに対するウェ−バ−やゾンバルト等の社会科学者の批判と、ワルトプルクという個人の寄付により設立されたアメリカ型研究機関であるフランクフルト社会研究所の成果。この書物では、こうした社会科学の研究機関のあり方についての議論は全く関心を払われていない。
Bサラリーマンや官僚/組織人のあり方。専門知識に裏付けられた組織力と交渉力。しかし、方法については状況を見極め、慎重に決定する必要がある。時代差はあるにしろ、組織の下部から大きな組織を動かすことは可能という一つの例証。
読了:1994年4月29日