アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第五章 都市
現代史ベルリン
著者:永井清彦 
ドイツの都市に焦点を当てようとする時にまず取り上げられなければならないのは分断された戦後ドイツを象徴する町、ベルリンである。「緊張がビルトインされた市」「現代史のディズニ−ランド」「ポンは、ベッセリングとバート・ゴーテスベルグという2つの郊外にはさまれているにすぎないが、ベルリンはワシントンとモスクワの中間にある。」多くの形容が、戦後の冷戦を象徴したこの町について語られてきた。確かに欧州現代史の多くの部分が、ベルリンの姿に直接間接に影響を及ぼしてきた。1983年に著者がこのベルリン戦後史をまとめた際には、そうした事態は少なくとも20世紀の間は変化がないように思えたのは当然である。しかしそれが1989年−ヒトラ−生誕100周年、第二次大戦勃発50周年、そして東西分裂から40年−11月9日を境に大きく転換した。誰も予想だにしていなかった事態を前にした増補版での著者はしがきが、この驚きを端的に示している。しかし、同時に1990年の統一の興奮が、負担の大きさに対する諦観に変わった今、我々はより冷静にこの町の現代史とその意味を考えることができる。「1870年に始まるヨ−ロッパ史は、(中略)ドイツの経済的資源と生産力とをヨーロッパの政治体系の内部に全面的に包容することに失敗した歴史」(ジョル)であったとすれば、今また我々は、ドイツ現代史が集約されたこの町の苦難の認識を通じて、将来の欧州秩序に思いをはせることができるのである。

1945年4月30日、冬の最後の日、ハルツ地方の山で繰り広げられる魔女、妖怪たちの「無礼講の、乱痴気騒ぎ」を描いたファウストの「バルプルギスの夜」に、ヒトラーがエバ・ブラウンと共に自殺し、戦後ドイツのストゥンデ・ヌルが訪れた。これを象徴するのは、ベルリン最高峰の120メ−トルの丘、トイフェルス・ベルグ−「悪魔の山」−である。この人口の丘は、ヒトラーの焦土戦の結果廃虚となったベルリンの町のレンガ、ガラス、石材その他粗大不燃ゴミを積み上げ、土盛り、植林を行ったもので、かつての「帝国の首都」−ヒトラ−が「バビロン、ローマに匹敵する」都市ゲルマニアを構想さえした町−の瓦礫の3分の1以上が埋まっているという。

一瞬の静寂の後、ソ運軍が進駐。ナチに対する憎しみと激しい戦闘直後の興奮から理性のかけらも失ったソ連兵による略奪、強姦がベルリン市民を震え上がらせる。ナチのソ連内での同様の行為とソ連の全体としての被害を考えればしょうがない、という同情論から、反ソ宣伝に利用するものまで、この評価は分かれるが、少なくとも一足遅れて進駐した西側連合軍の対応との比較で、これがベルリン市民の反ソ感情を強めたことは間違いない。

こうした個人的な非公式行為に加え、デモンタージュと呼ばれる工場・施設の解体・撤収が合法措置として行われる。ベルリンを含む自らの占領地域の工場数で見ると、米国は1946年春までに183、フランスと英国は1951年4月までに夫々103、411であったのに対し、ソ連は1950年までに2000近くの工場施設の解体・撤収に及んだといわれ、その中には西側進駐前にそれらの地域で行われたデモンタ−ジュも含まれていた。

戦後の混乱のもう一つは、国外在住のドイツ人の追放である。戦後の国境変更に伴い、これら旧ドイツ領内に996万人、それ以外に769万人のドイツ人が残されたが、この内約1383万人が追放され、ドイツにたどり着いたのが1173万人であるから、210万人が終戦後に命を失ったことになる。著者は、この強制移住を命令するポ−ランド政府の布告の例を引用しているが、「3時間以内に(荷物の重さは)20キロまでで、輸送手段を使用しない」といった冷酷な指示には驚くばかりである。しかしそれが戦争であり、敗戦の実態であった。そしてこの難民たちがまず殺到したのがベルリンであった。こうした状況の中、分断に至るベルリンの戦後政治史が始まる。

著者はこの戦後ベルリン史を一人の男に託して語っていく。その名は、ウィリ−・ブラント。リューベック生まれの私生児で、20才を前にした1933年ヒトラ−のドイツを去り、一時的には非合法活動のためベルリンに潜入するが、その後12年余の亡命を余儀なくされる。このブラントが、ノルウェ−軍将校として祖国の土を踏んだのが1945年11月。そして1947年に彼が再度ノルウェー軍駐在プレス・アタッシェとしてドイツに戻った地がベルリンであった。到着直後に、1922年迄の共産党員であり、トルコでの亡命生活から戻ったばかりのE.ロイタ−(後のベルリン市長)と出会うことになる。

著者はドイツを巡る東西対立の激化の過程を詳しく追うことはしていない(因みにこの間の政治史は、既に第一章第一節で紹介したW.マーザ−の「現代ドイツ史入門」で詳しく触れられている)。ここでは1947年6月のマーシャル・プラン発表及び1948年6月の通貨改革が対立を決定的にしたことだけ押さえておこう。そして後者をきっかけに、翌年5月まで続くベルリン封鎖が開始され、その封鎖が終了するのを待ったかのように、同月西ドイツの建国が宣言されるのである。

この第三次大戦勃発の危機に、大空輸作戦の実行によりベルリンを救ったのが、米軍司令官のクレイと市長のロイタ−、そしてロイターの片腕となって親西欧、反ソ強硬路線の先頭に立ったプラントであった。ナチの反ソ・反共プロパガンダ、戦争、ソ連兵の暴行・略奪、デモンダージュにこの封鎖がとどめを刺し、ベルリン市民はロイターら指導者の政策を支持すると共に、この政策により「それまで西側連合軍からは不信の目で見られていたドイツが、共産主義の犠牲、反共の闘士へと、軍国プロイセンの、ヒトラーのベルリンが、自由の前哨ベルリンヘと変わった。」プラントは後に、封鎖が「ベルリン市民と連合国との間に本当の協力感情をもたらした」と語ったという。

西独建国の翌年勃発した朝鮮戦争が、同じ分裂国家としてのドイツ、そしてその分裂の象徴であるベルリンの戦後を決める大きな政治的役割を果たした。それは「ドイツの再軍備への心理的地ならしであり、反共コンフォーミズムの地盤を固める」ことになる。冷戦が激化する中、市長のロイター(そしてブラントも)はアデナウアーの外交路線−親西欧・反中立−を支持し、社民党党首シューマッハ−やベルリンの社民党支部長ノイマンと対立する。また同時期ベルリンは、反共政治家の誘拐・失踪事件を始めとする、スパイ達が暗躍する「小説以上に奇な町」となっていく。そして東側では1953年6月のベルリン暴動が勃発する。これが偶発的な自然発生であったのか、ClAを始めとする西側スパイの仕組んだ事件であったかは議論があろう。面白いのは次章で紹介する三島憲一編集のドイツ戦後知識人との対話集にも登場した旧束独反体制派のS.ハイムの小説が、この事件の背景となる東独政権の官僚主義とClA陰謀説を組み合わせたため、東西双方で出版が不可能になった、という事実。真実はそれぞれが事実の一部を構成しているが要因の全てではない、といったところだろうが、ハイムのケ−スは体制の双方から見放される個人の受難として興味深い。またベルリン暴動の当日ウィ−ンにいたロイターは、この情勢を知り帰国を決意するが飛行機は満席、軍用機による移送の依頼はアメリカに拒絶され結局事件がソ連の戦車により圧殺された18日にようやくベルリンに帰国した。これは「ロイターの力強い声がポヤを大火事に煽り立ててしまう」ことを米国が恐れた結果である、と言われる。そしてこれは後の壁建設、更には56年のハンガリ−や68年のチェコで繰り返される、ヤル夕協定の領域外への干渉に消極的なアメリカに対する、ベルリン市民の不信感拡大の第一歩となるのである。著者はハンガリー事件に際してのベルリン市民の反ソ感情の高まりと、それがベルリンにおける衝突事件に発展する一歩手前で止めたプラントの大衆掌握力に言及している。この事件を契機にブラントは党内での地位を固め、翌57年ベルリン市長に就任したという。

こうして1961年の壁建設に至る。この「自らの国民を閉じ込めるための壁」はよく言われるように「人類史上はじめて」ではなかった、として著者はベルリンの中世史を遡る。時は18世紀フリ−ドリッヒ・ヴィルヘルム1世の治世。放漫財政を放置した父と正反対の緊縮財政がとられたことから、その「公共投資」に寄生していた手工業者たちが町を去り始める。更に王の軍備拡張、厳しい徴兵と重税からベルリンは「北のスパルタ」と異名をとる兵営都市となったが、一時はベルリンの人口の3割以上を占めた軍人からも多くの脱走者が出た。こうした中で1735年、王は徴税と兵の逃亡を防ぐ目的で「内に対しての壁」を市の回りに張り巡らしたという。1961年のあまり知られていない前史である。

ドイツの50年代は「大多数の西独市民は、政治的・イデオロギー的問題よりも生活向上のほうにより関心を示していた」(ジョル)と引用されているが、冷戦の激化と西独の奇跡の経済成長による東独との格差拡大が、壁建設の直接の誘因であったのは明らかである。
政治的には壁に至る道は、1958年11月の「フルシチョフの最後通帳」(ベルリンの武装解除と自由都市化を前提とした統一案)から始まる。アデナウア−の否定的反応とブラントの拒否声明。アイゼンハウア−=フルシチョフ会談に続く東西首脳会談がU2事件で延期されるなどした後、アイゼンハウア−の後を継いだケネディによるソ連提案の最終的な拒否を受け、1961年8月13日の突然の壁の建設となる。著者はホ−ネッカ−やブラントの回想録を軸にこの建設前後の状況を跡付けているが、決定的な事実は、この壁の建設は、ケネディが示した3原則、西ベルリンの地位の維持、連合軍の駐留の継続、そして西ドイツと西ベルリンの交通の確保を犯すものではなく、またその限りでアメリカも干渉する意向はなかったということである。ベルリン群衆の抗議に対して、西独政府あるいは米国は何ら有効な対抗策をとる意思がない、という冷酷な事実を前にしたブラントの苦悩が示される。「市民たちの憤激の気持ちを正確に表現し、しかも彼らが自制するようにもっていく」というのがブラントの役割であった。57年と同じ状況が繰り返され、ブラントはその危機を乗りきったものの、壁の存在という現実を前にこの指導者は大きな無力感に捉えられることになるのである。

しかし同時に「西向きの政策によって平和で自由なドイツ再統一ヘ」というアデナウアーの「力の政策」が綻びているという認識が、後のブラントの「東方外交」を生む直接の契機になったのである。その意味でもやはりこの壁の建設が、戦後ドイツの決定的な政治的転換点であったことは間違いない。西側での、東独国家の現存という事実認識と、アデナウア−政権と「守護者」アメリカヘの信任の決定的低下。そして東側の相対的安定化。時代はまさに壁と共に60年代の転換を迎えたのだった。

「反共の盾」としてのベルリン市民の熱狂がピクに達したのが、壁建設から2年後の1963年6月のケネディ訪問時であったとしても、一方で「ブラントが耳を澄ませて聞いたのは、『妥協・和解』をすすめるケネディの"合いの手"だっただろう」と著者は推測する。壁の不法性を声高に主張するよりも現実的な妥協の道を探る政治家の冷静な打算がそこには垣間見られる。打算、という言葉は決して否定的な表現ではない。むしろそれはウェ−バ−の言う「責任倫理」に近い意味合いを持っている。声高なスローガンよりも、確実な成果を目指す。我々が日常性の中でも多く遭遇するこうした事態が、冷戦の最中のこの対東独政策の中でようやく認識され、実践に向かって進み始めたのである。ブラントと共に東方外交を進めたE.バールは、外交政策におけるこの方針を「接近による変化」と「小股政策」という2つの言葉で表現したが、これが60年代の大きな変化を象徴していた。

しかしこうした外交政策面での現実主義への移行は、他方で西独の市民意識一般の、冷戦から豊かな日常性への変化をも物語っていた。よく言われるように、冷戦構造はミクロで見ればそれなりの安定期であり、冷戦の終結に伴い地域紛争が頻発する現在の状況は同じ観点では緊張期なのである。ベルリンを中心にして見ると、西独全体の安定は、結果的にベルリンに対するドイツ国民の関心を希薄化させていくことになる。他方1965年には、欧州では冷戦構造が固定化したのに対し、ベトナムではアメリカの北爆開始により、これが代理戦争という形での「熱い戦争」と化していた。当時キージンガ−政権の外相になっていたブラントの息子達を含む青年層にとっては、戦後の反共の守護神アメリカは、いまや侵略者以外の何物でもなかった。「東の暴挙」を黙殺したアメリカに対する失望と諦観が、こうした学生の動きの背後にあったことは疑いない。同時に反共/親米を唱えるシュプリンガ−系新聞に典型的に現れた左翼学生に対する非難も高まり、世相の焦点は東独との緊張から西独国内の対立に移っていく。特に1967年6月、イランのパ−レビ国王の西ベルリン訪問反対デモの最中に、オーネゾルクという学生が警官に射殺された事件を契機に、この緊張がいっきに高まったことはよく知られている。学生運動は暴力化し、太衆から遊離し沈静化する、という日本を含めた先進資本主義国共通の歴史を辿っていくが、著者が「反共コンフォ−ミズムのほころび」と表現するこの60年代の変化は、もちろん多くの遺産を将来に残すことになる。そしてこの変化と混乱の60年代末、ブラントは自民党との連立の形ではあるものの社民党政権の首相として全西独を率いる地位に立つのである。

ブラントが70年代に推進した東方外交は、アデナウアーの「力の政策」から、「和解外交」ヘの転換と位置付けられ、具体的には、「ソ連・ポ−ランドとの間で国境の不可侵性を約束し合い、また東ドイツとの間では『同権を原則として、相互の正常な善隣関係を推進する』ことを約束するもの」であった。この精神に基づき実務的には西独とソ連の間の「モスクワ条約」、ポーランドとの間の「ワルシャワ条約」、占領国による「4ヵ国協定」、そして東西ドイツによる「基本条約」等が1970年から71年にかけて締結される。特に「4ヵ国協定」では、東ベルリンの法的に微妙な地位には言及せず、西ベルリンの地位の安定化を試みたと言われるが、「ベルリンの命運にかかわる決定は、まず四大国の間の協定があり、この枠内でドイツ人が細目を決める」という仕組みは、この協定にも示されている。主権を制限された東西ドイツ、「西独の構成部分ではない」西ベルリンと、ベルリン西側地区に「隣接する地域」にすぎない「DDRの首都」ベルリン。こうした宙ぷらりんの状態にある当事者が、懸命に関係修復を試みたのがこの時代の東方外交であったと言える(「孤島の孤島」シュタインシュトッケンヘの交通権の確保は一つの面白い挿話であった)。

しかし「占領下にあることで自由、安全が保てる」変則状態自体を変えようとする動きも時析発生していた。一方は東ドイツの地位を固めようという東からの動きであるが、より発展的なものは、80年代になってからの「アルタナティブ・リステ」(ブラントの息子、ぺ−タ−らが参加する、緑の党のベルリン版)の登場であった。「引き裂かれたドイツ人の自意識の回復を求めるには、東西ヨ−ロッパの分裂を克服しなければならない」という「大きな展望をもった『中立主義』」というのは、壁の存続が永遠不変のものに見えた時代の危機意識が必然的にたどり着いた地点でもある。そしてペーターの父も壁ができて20年目の81年にこう述べたという。「『壁』の問題については、これだけを切り離した解決策はありません。ベルリンの分裂はドイツの分裂の副産物であり、これはまたヨ−ロッパの分裂の副産物なのですから。」「『壁』がなくなるのは、ドイツとヨ−ロッパの情勢が根本的に変わるときです。」そしてまさにこのプラントの発言から18年後、ゴルバチョフのイニシアティブにより、欧州に決定的な情勢変化がもたれされた時、ベルリン問題はいっきに解決に向かうことになるのである。

こうした戦後ベルリンの苦難の歴史を追いかけてくると、「壁」の崩壊を受けて書かれた、改定版の補章はより感動的である。読者の私にとってそうであれば、著者にとっては、そしてプラントを始めとする当事者にとってはその感動はもっと測り知れないものであったことは想像するにかたくない。「壁」の崩壊に至るドラマをここでもう一度繰り返す必要はないが、一つ面白かったのは、89年10月に東独の経済危機が発生した際、日本の新間がいち早く「壁の撤去の可能性」を大見出しで報じていたことである。現地で、「壁の撤去」がいかに難しいかを知り抜いている人々にとって、その要求が出たこと位では記事には値しない。そうであるだけに、この予想がいっきに現実になった、という驚きは想像を絶するものであっただろう。しかし歴史は尚も進んでいく。過去のベルリンを巡る緊張は過去のものとなり、現在のベルリンは、建設現場の視察が観光ルートに組み込まれる、という程の建設ラッシュに沸き返っている。しかしかつて数々の冒険や悲劇を生んだ検問所チェックポイント・チャーリーは今やただの寂れた街角である。ポンからベルリンヘの首都の移転が決定されたものの、現在までのところは大統領府が移転したのみで、実質的な議会機能は依然としてポンに残っている。旧東独経済とそれを統合したドイツ経済全般の再生には少なくとも21世紀を待たざるを得ない、という実態は、同時にベルリンについても言える。

しかし、都市の物理的再建に要する時間はかかるとしても、重要なのは、この再生するベルリンは、ヒトラーが夢想した千年王国の首都としてではなく、戦争と分割の悲劇を身をもって経験した都市として、平和と共存への理念を体現するものでなければならない、という点である。ブラントの時代の閉塞したベルリンには、確かに反共の砦としての激しいイヂオロギ−があったとしても、同時に武力に訴えるのではなくその政治環境を払拭しようという強い意思があった。ぴとつの都市がこうした強烈な理念を体現した、という意味においては、ベルリンの戦後経験は世界の都市の歴史の中でも希有な例であったと言わねぱならない。統一による西独経済圏への統合が旧東独地域全体にもたらした消費生活への渇望という新たなイデオロギ−に侵犯されることなく、ベルリンが都市としてのエネルギ−を21世紀に向けての新たな理念の模索に捧げる場合にのみ、ベルリンはその戦後の苦難の歴史に報いることができるのではないか。その意味で今後のベルリンについては、建設ラッシュに見られる表面的な発展以上に、その精神的な進化こそが注目されねばならない。新しい時代のベルリンの指導者は、かつてロイタ−やブラントが示したような和解と平和の理念を打ち出すことができるのか。それに成功した時に、初めてベルリンは真の意味での統一ドイツの首都として、世界の威信を勝ち得ることになるのであろう。

読了:1996年9月27日