都市フランクフルトの歴史
著者:小倉欣一/大澤武男
1994年、フランクフルトは都市誕生200年記念祭を行い、町の至る所で、講演会や演劇、その他の催しが行われていた。3世紀にフランク王国メロビング朝の創始者クロ−トピッヒ1世が、マイン川の浅瀬を越え、先住民のアレマン族を駆逐した「フランク族の渡渉点」を意味するこの地名が初めて文書資料に現れたのは794年のことであったと言う。こうして初めて歴史に登場してから、都市フランクフルトは、1948年のパウルズ教会における制憲議会の開催を含め、幾多のドイツ史の舞台となってきた。自分が住み慣れたこの都市の歴史を、地理的に離れた地点からもう一度見直してみよう。
とは言いつつも、日本在住の大学教授による中世前期の記述は、余りにアカデミックで無味乾燥なものである。そして都市文化の形成と大市(メッセ)の発達、神聖ローマ皇帝の戴冠式の開始やユダヤ人ゲットーの建設と金融業の成長等についても既に私が慣れ親しんだ歴史記載の域を出るものではなかった。
しかし、フランクフルト日本人学校事務長としてこの地に生活する大澤の担当する近代に至ると、記述は俄然面自くなる。私自身が居住者として肌で感じた歴史が、同じく居住者である筆者の感情と共に生々しく蘇ってくるのである。
まずはゲ−テの時代。この時代の特筆すべき出来事として、5度にわたるフランスによるフランクフルト占領が挙げられる。占領軍の要人としてゲ−テ家に滞在した、高潔な教養人トラン伯との交流とフランス文化との接触がゲーテに与えた影響は、当時のユーロ型文化交流の一例として興味深い。幼児殺しで処刑されるス−ザンナ、25才の処女作にしてゲ−テを世界的詩人にした「若きヴェルテルの悩み」の執筆経緯、5年間にわたるナポレオンによる支配とユダヤ人解放を含めた市政の大改革(ナポレオン自身も6度町に滞在。ゲーテとはエアフルトで1回だけ体面したが、ナポレオンは「ヴェルテル」の大ファンであったと言う)はゲ−テ時代のフランクフルトの特筆すべき出来事である。更にウィ−ン会議後も維持された自由都市のステイタス、1833年のハウプトバッへ襲撃事件はこの都市の近代に向けての序章となっている。
ゲ−テと並ぷフランクフルトの有名人はロスチャイルドである。このユダヤ人家族はへッセン伯の宮廷銀行家・御用商人となった後、アメリカ独立戦争におけるイギリスヘの資金提供及び傭兵供給による蓄財を経て、時の二大覇権国家であったプロイセンとオ−ストリア双方の資金調達源を握ることになる。「私の息子たちがお金を出さない限り戦争は起こりませんよ」という5人兄弟の母グードラの言葉がこの帝国の力を表現している。
1848年の制憲議会失敗の後の反動期、後の宰相ビスマルクが1951年から8年にわたり、プロイセンの大使としてフランクフルトに滞在し、その夜間乗馬の習慣で人目をひくと共に、自身の外交手腕を身に付けることになったと言う。そしてプロイセンは1866年オーストリアを破り、実質的にオ−ストリア派であったこの都市を占領、自由都市の地位を剥奪することになる。
しかし、プロイセンもこの都市の経済的価値を認識し、商業・金融を発展させたことから自由主義的気風は維持され、ユダヤ人ゾンネマンの「新フランクフルト新聞」の様に、ビスマルクに批判的論陣を張り、彼を終生悩ませ続けた新間もこの町から登場したのであった。またプロイセン支配下で一時的に低迷した産業も、19世紀末に向け、ヘキストやデグサ等の企業が成長していく。またユダヤ人が握る金融もプライベートバンクの隆盛という形で発展し、後にヒトラーのフランクフルト嫌いの主因となる。1914年にはドイツ初の寄付金(国家の経済的支援のない)大学としてフランクフルト大学が設立される。
1876年に建設されたフランクフルターホフ(日本人観光客の定宿である)は、第一次太戦後キールで決起した水兵たちがフランクフルトに進出した際宿泊した場所として知られていると言う。そしてワイマールの不安的期、フランクフルトは決して右翼運動の中心ではなかったものの、その交通の要衝としての位置故に、右翼グループが移動する際の中継地となった。時のフランクフルト市長ランドマンがアウトバ−ン計画の中心人物(フランクフルタークロイツ計画等)であったこと、更に彼が空港建設も行ったことが、この交通の要所としてのフランクフルトの地位を高めることになる。しかしナチ勢力の拡大と共に、こうしたフランクフルトの自由主義も次第に消滅し、1930年にはフェスト・ハレ(現在ではコンサ−ト等大規模な催しの中心となっている)での初めてのヒトラー演説を、多くの
市民が熱狂的に支援するという事態となった。1933年3月の市議会議員選挙でナチはフランクフルトの市政を握り、レーマー広場にはハ−ケンクロイツが高々と掲げられることになる。
しかし、全ドイツの支配権を掌握したヒトラーは5回にわたりフェスト・ハレで同様の演説を行うが、「ユダヤ人の町」フランクフルトを嫌い、どれほど演説が夜遅く終了しようと、この町に宿泊することはなかった、と言う。そして1941年からはフランクフルトからユダヤ人の移送が開始され、ここに在住していた13、836人のユダヤ人の内、ほぼ1万人が収容所等で命を奪われることになったのである(マイン川に面した旧ロスチャイルド邸が現在はユダヤ博物館となっているが、そこに飾られている金属製の板に、この町から強制移送させられ、死亡あるいは行方不明となったユダヤ人の名前が一人一人刻まれている)。しかし連合軍による攻勢の開始と共にこの都市にも97回に及ぶ空爆が行われ、徹底的に破壊された後、1945年米軍により解放される。
連合国最高司令官アイゼンハウアーのフランクフルト進駐とIGファルベン・ビルの接収、制憲議会100周年に合わせたパウルズ教会並びに生誕200周年に合わせたゲ−テハウスの再建、ポンとの首都争奪戦(200票対176票での敗北)といった戦後直後の動きを経て、その後は町の本格的再建に移っていく。商業・文化都市として順調に拡大したものの、その過程ではウエストエンド運動といった乱開発に対する抵抗運動も内在させていた。そして最近時は欧州中銀の招聘にも成功し、欧州大陸の主要都市としての内実を充実させつつ、前述の1200年祭を祝うに至ったのである。
ドイツの都市が、伝統的町並みを維持するために、多くの建設規制を設けているのに対し、現在のフランクフルトは、金融機関の超高層ビルが立ち並ぶ、一見アメリカ的外見を呈している。特にマイン川南岸から見る景観はニュ−ヨ−クを思い起こさせ(「マインハッタン」という一部誇りを、一部蔑みを込めた呼称がある)、またアウトバ−ンで北から町に近づくと、それまでのドイツ的風景と異なる高層ビルの一団が突然畑の彼方に姿を現すのはやや異様に思える。これは第二次大戦後、この町にドイツ連銀と三大商業銀行の本店が設置され、ここを金融都市として位置付けた際、機能面から外見に対する規制を緩めざるを得なかったからであると思われるが、合わせて歴史的にここが神聖ロ−マ帝国の自由都市として、そもそもリベラリズムの伝統が強かったことも一因であっただろう。都市計画以外でも、例えば本文でも触れられているドイツ初の民間寄付金大学であるフランクフルト大学は、ベルリン自由大学と並びリベラルな校風で知られており、ここを中心にフランクフルト学派の面々が活躍していくことになる。その指導者の一人アドルノは、多方面にわたる研究活動に加え、ワイマ−ル期にこの町でドイツ初の音楽専門ラジオ放送を開始したと言われるが、戦後の米軍の進駐に伴い、今度はドイツでジャズの最も盛んな町になっているのである。
何面この町には都市文化の否定的側面も現れているが、その最たるものは麻薬取引であろう。中世以来、大陸内での流通のひとつの中心であったため、その流通品目の中には麻薬も加えられることになった。
フランクフルト中央駅から東に向かうカンザ−通り周辺は、この町の風俗街として知られるが、現在ではむしろ麻薬取引が頻繁に行われ、麻薬患者が薬を求めて徘徊する地域になっている(かつての都市城壁を取り壊した後にできたゲ−テ公園は、1993年頃までは昼間から麻薬患者で溢れ、一般人の通行はままならなかった。しかし、欧州中央銀行の招聘運動が広がった時期から警備の強化が行われ、現在は麻薬患者が目立つのはこの風俗街周辺のみに限られている)。予断ではあるが、麻薬取引で悪名高い欧州都市としては、フランクフルト以外にもスイスのチュ−リッヒやオランダのアムステルダムが知られているが、夫々がその国の金融の中心であるという共通性は、たまたま偶然にしても、やや考えさせられるものがある。
こうした特徴は、他の伝統的なドイツの都市と異なっていることから、一般的なドイツ人にとってこの町は「ドイツの町」ではない、と言われる。確かにドイツで人口が百万人を越えるベルリン、ミュンヘン、ハンブルグといった大都市のみならず、フランクフルト(人口約65万人)と同程度のヂュッセルドルフ等と比較しても、フランクフルトの町の雰囲気は独特である。しかし、実際の市民の生活圏は、むしろフランクフルト郊外に広がっている。町の北側に広がるタウナス丘陵地帯の裾野に点在するバ−ト・ホンブルグ、クロ−ンベルグ、ケ−ニヒスタイン等の村落は、高額所得者の邸宅が立ち並ぶ高級住宅街であり、またマイン川南岸のザクセンハウゼンから南東に広がる森に点在するオッフェンバッハ、ノイエ・イセンブルグ等は典型的なドイツ中産階級の居住地域となっている。またフランクフルトが属するヘッセン州の州都はここから約50キロ西にあるヴィ−スバ−デンであるが、人口ではフランクフルトと同じこの町は落ち着いた典型的なドイツ都市である。フランクフルトは、先進国の中心都市としては異例な程、外国人居住者が多い(推定で人口の約25%)と言われるが、実際の居住者はまさにドイツ的環境にこだわりのないフランクフルト大学の学生を中心とした若者層と外国人都市住民として我々のような外国金融機関の従業員とトルコ人を中心とした移民労働者で相当の比率に達していると思われる。そして一般のドイツ人はこの町を「金を稼ぐ町」と割り切っているように思われる。実際、前述の周辺都市からフランクフルトのオフィ−ス街への移動は容易であり、例えば50キロ離れたヴィ−スバ−デンからでもアウトバ−ンを利用すれば30−40分でたいした渋滞にも引っかからずに通勤することが可能である。賃金の高いフランクフルトの金融業界で働き、週末は郊外の家でゆったりと過ごす。フランクフルトで勤務するドイツ人は概ねそんな人生観を持っているのだろう。
ベルリンが分断の歴史を辿ったという点において、世界でも特殊な都市であるとすれば、フランクフルトはその自由の伝統においてドイツの中での特殊性を維持してきたと言える。この特殊性は、この書物で示されているこの町の歴史、なかんずく近代以降辿った歴史の延長線上に位置することは確かである。自分自身が居住者として7年弱の時間を過ごしたこの町は、前述のとおり、1998年6月にこの地に設立された欧州中央銀行と共に、統合欧州金融政策が発信される町として新たな歩みを始めたばかりである。過去の歴史を背負いつつ、新たな時代に向かう非ドイツ的なこの町の今後の展開を、今度は外側から眺めていこうと思う。
読了:1998年9月13日