劇場政治を超えて
著者:原田武夫
1971年生まれであるので、私よりも17歳ほど下の30代始めの外務省官僚による日独比較政治・社会論である。1994年から1998年にかけて、前半は外務省の在外留学生(べルリンとテュ−ビンゲン)として、後半は在外公館勤務としてドイツに滞在していたということであるが、その期間は私のドイツ滞在期間に重なっており、また帰国も略同じ98年の初夏ということもあり、書店で手に取った時、この歳の若い官僚が、ドイツ経験をどのように昇華してこの作品を仕上げたかに興味を覚えた。
著者も最初に書いているように、98年の帰国というのは、象徴的である。日本は、バブル崩壊後約7年。まだ上昇した生活水準に対する疑念はなく、構造改革への切迫感がない反面、前年秋に発生した山一証券や拓銀の破綻が、何かが変わりつつあるという予感を感じさせた。そしてそこから5年、まさに日本の経済・金融秩序は、デフレ・スパイラルの深化と共に雪崩をうったように変化し、市場競争の激化と共に勝ち組/負け組の二極化が侵攻しつつある。しかし反面、政治構造においては、55年体制の崩壊から10年を経て、再び連立という形ではあるが、自民党政権が存続し、改革という旗印は掲げているものの、二世政治家による旧態依然たる支配構造が変わらず残存し、また官僚の世界においても、98年以降、幾つかの不祥事により、各省が順繰りに官憲の手にかかり、それを契機とした再編も行われたものの、基本的にはそれ以前の組織と論理が変化せず残存している。
こうした変化と継続を、ドイツ滞在から帰国した者が、どう捉えているのか。基本的に「現代ドイツ・ウォッチャ−」として日独比較の延長線上に自らの作業を位置付けている著者は、ドイツを軸にした視点から現代日本を照射する。そこで基本となるのは、@中長期的な政治指導力の存在、A意識的な「世論」形成、特に政治ジャ−ナリズムの質、B市民意識における「異質なもの」への寛容と「統合」、そしてC市民における「政治的思考」とそれを促す仕組み、という4つの視角である。そして夫々の視角において「落とし穴」に陥っている日本の状況を抉り出すために彼は、かつてのドイツで危機の時代を思索したC.シュミットという古典を一つの足掛かりとしようとする。
シュミット理論からの切り口として示されるのは、次の5点である。
@「決断主義」「友敵論理」:現代日本に見られる「決断主義」的要素。
A「独裁」論:権力の集中に対する感覚の麻痺
B「代表制」、「直接民主主義」:「喝采の政治」と「世論」を巡る状況
C「制度的保障」論:「抵抗勢力」問題
D「普通法」概念:国内外との「統合」
それぞれについて簡単に著者の主張と私の感想を記しておこう。
@については、閉塞状況の中で「決断」を下してくれる者に対する羨望が高まり、マスコミにより表現される特定の「世論」がこれを促すが、その「決断」が私的・個人的直感に基づいて行われる構図についての懸念が示される。著者はシュミットの「決断主義」が決して単純な「バトル・ロワイヤル」的なものではなく、責任を伴った公的な「価値選択」であり、現代日本のそれが私的な領域での意思決定に基づく、責任の伴わないものであることを危惧している。
ここで著者が念頭に置いているのは、小泉による「世論」の支持を受けた「決断主義」であると感じるのは私のみであろうか。彼の、抵抗勢力批判により「敵」を措定する政治手法は、シュミットを多少でも知る人間から見れば、「ポピュリスト」によるデマゴ−グ型「決断主義」政治の性格を有しているのは明らかである。
しかし、問題は、著者が「私的・個人的」としている彼の「価値」判断の、政治的妥当性の問題である。特定の「世論」の操作を経ているとは言え、彼の「改革」意志は、明らかに既存の政策決定に不満を有する民衆の支持を受けているものであり、またその支持を受けた「改革」に向け政治責任を取るという意志も明らかである。そしてこの閉塞状況を変革するのに、一定の変革が必要であるとすれば、こうした小泉の手法は「政治的有効性」を有し、反面これに対する「抵抗勢力」は、バランサ−としての意味合いはあるにしても、結局は閉塞状況を深化させる「反動勢力」以外の何者でもなくなってしまう。こうして考えると、結局、著者がここで主張しているのは、小泉に攻め込まれて混乱する外務官僚の利益保護を図る「保身の論理」ではないか、と思わざるを得なくなってしまう。我々が日独の比較から期待しているのは、変革の契機ではあっても、「保身の論理」ではない。
Aについては、シュミットの「主権的独裁」と「委任的独裁」がキーワードとして利用される。両者を分けるのは、後者が理論的に「委任範囲」の限界を有しており、そうであれば、その限界を超えないように監視する組織的枠組みが必須となることである。日本の政治枠組みでは、そもそも非常大権は認められておらず、それ故に、独裁権が万一成立すると、それをコントロ−ル術が全くないという問題である。しかし、この議論も、ポピュリスト政治家の小泉(あるいは場合によっては石原)をタ−ゲットにした、短期的には政治改革阻止の議論である。
Bについては、危機を打ち破る最も効率的な対応としての「独裁」が成立したとして、それが「市民の全体意思」と合致しているかどうかを判定する「世論」とは何か?という問題提起である。
これについては、企業不祥事によるバッシングを例にとり、「マスコミ」「喝采の政治」と「世論」を巡る状況を想起している。それはバッシングという社会的行為が、批判される側の論理は無視された、マスコミにより市民を煽るために操作されたものであるとすれば、そもそも「世論」の合理性はどのように担保されるのか、という問題になる。
ここで著者が引き合いに出すのは、シュミットの「平等性」という概念である。それは特定の集団が、内部での「敵」「味方」に分裂しながらも、それが「特定の国民に帰属している」ことにより同質性が確保され、その意味で「平等」となる。この「同質性=平等」により、統治者と被統治者が一致する、ということになる。しかし、もちろんこの「同質性」は理論的な可能性である限りにおいて、問題はこの場合に「国民」がどのようにして自らの意志を表現できるのか、という点に存することになる。そして著者によれば、ワイマ−ルの混乱期の中で、シュミットは、代表民主主義の限界を認識し、替わりに「国民(あるいは市民)の全体意志が持つ直接性に重きを置く」直接民主主義に危機打開の道を見出すのである。こうして代表制民主主義が否定されると、ましてや投票といった正統性プロセスを経ないマスコミには「全体意志」である「世論」を語る資格はない、ということになる。
こうして著者は「自らが選択した情報の伝達」を行う事業体であるマスコミが、「自分達が報じることのみが真実である」と思い込むことの危険性を指摘するという、またしても官僚として優等生の結論を導き出すことになる。特に「意思決定権者が公職の遂行機能を果たしていないことに市民が気付きはじめているが、マスコミがこの意思決定権者を支持することが『世論』と認定した意地から支持を継続する」危険に言及する時、それは明らかに現在の小泉政権に対する守旧派官僚勢力からの防衛論となる。
確かに「エスタブリッシュメント」の側から見れば、現在のマスコミが「いっこうに実効性の上がらない構造改革」を囃しているのは不愉快であろう。金融界という別の「エスタブリッシュメント」に属する私から見ても、現在のマスコミの、民衆ルサンチマンにおもねるような一方的報道は気持の良いものではない。しかし、これを政治論として展開するとすれば、いったん自分の立場を捨象し、異なる権力間の権力闘争と考え、現代の正統性の拠って立つ根拠を分析すべきであろう。残念ながら、著者の立論は、それこそ自分のよって立つ私的利益が見え隠れしてしまうのである。
こうして、「制度的保障」論という形で「抵抗勢力」問題を扱うCに移る。著者の論点は、「抵抗勢力が依拠しているもの」を、立法府に対する不信感から生まれたシュミットの「制度的保障」論を頼りに示すことにあるが、シュミットがこの保障の制度的要因として考えているのが、職業官僚制、財産権保障、そして表現/出版・言論の自由であることは興味深い。即ち、著者が、「改革」に抵抗する勢力として現在烙印を押されている側にも、「それまでの経緯を踏まえた議論」があり、これを黙殺してしまうことは民主主義のル−ルに反する、と言う時、それは「制度保障」としての官僚の論理と、それを支援する「抵抗勢力」のイデオロギ−を、シュミットの議論を利用しながら保持しようとする意図が見えてしまうのである。確かに官僚制は「不偏不党」の立場から制度の流動化を防止する機能を果たす。しかし、変革が必要とされる時に、その「不偏不党」性が「抵抗勢力」となるとすれば、それはやはり「不偏不党」性を喪失し、政治的機能を負っているということであり、政治分析を課題とする著者であれば、むしろ個々の局面での「抵抗勢力」の機能を分析し、そこでの権力構造を示すことの方が、意味があるのではないだろうか。「不偏不党であろうとする(報酬面での)インセンティブが与えられているかどうか」を考える前に、やはりこの若者は、自分の利害関係からいったん逃れることを考えた方が良いのであろう。
著者がシュミットを援用する最後の論点として取り上げるDは、立憲民主主義が前提する社会の「同質性」とそれを阻む「異質性」を統合する「普通法」という概念である。ミクロの世界における「引き篭もり」と国際政治の世界での「NGO騒乱」が、インタ−ネットの普及による社会/世界の等質化を促す背後で進んでいるこうした分裂のモ−メンタムを踏まえながら、国内外との「統合」を促す理論的根拠があるのか。
シュミットは「公法と私法」、「国内法と国際法」という「国家」を前提とした二元論を超越する「普通法」=「人権」という概念があり、これが国家により分断された市民を国家の内外で結合し統合するとするが、これが言わば「欧州統合」等で、国家を超える「普遍法」として欧州では徐々に浸透してきたと言える。
こうして欧州で進んできた統合を、著者は「統合志向の異質性」と名づけるが、これは何と言うことはない、他者を異質なものとして認知し、それを前提とした連帯を作るという、日本ではやや異質な、しかし、欧州等の個人関係を認識した者にとっては至極常識的な発想である。日本も今や従来の社会の同質性が失われ、従来のような以心伝心による統合ができなくなっているとすれば、そろそろこの統合理念を欧州型に変えねばならないのであろう。この点においては、著者の提言には率直に共感を覚えるのである。
さて、こうして「同時期にドイツに滞在した、異なる世代」によるドイツ/日本比較論を読み終え、これが当初期待したような理論枠組みを与えてくれなかったことを残念に感じている。ドイツとの比較は、著者にとっては、決して現代ドイツに影響を及ぼしている訳ではないシュミット理論をベ−スに、結局のところ混迷している小泉対抵抗勢力という政治構造の中で、抵抗勢力としての官僚の存立基盤を擁護する結果になってしまっている。比較政治において私が期待しているのは、それを全面的に受入れるのではないにしても、他国の優位性のある制度や思想をもって、我々が生きる社会を批判的に照射することである。その意味では、著者と共に私が滞在した90年代のドイツには、その統合に向けての政治・経済政策のみならず、国内政治における官僚の権限縮小や地方分権等々、日本が変革されるために参考となる課題が数多存在した。しかし著者が、こうして官僚社会の内部批判になることを避けて議論を展開してしまったことで、その立場上の限界は人間として理解できるものの、読み物としての興味は半減してしまったのであった。若き法学部出身の官僚としての意気込みは感じるものの、立場が議論を制約してしまったのが、この作品の限界であったと言えるのである。
読了:2003年5月24日