アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第六章 思想
ハ−バ−マス(現代思想の冒険者たち) 
著者:中岡 成文 
 夏休みのオ−ストラリアで、まとまった時間が取れることから読み始めたものの、結局半分くらいしか進むことができず、その後読了までに3ヶ月以上かかってしまった。こうした社会哲学は、どうしても頭の切り替えを、ある程度持続的にできないと、日常生活の中では、なかなか集中することができない。しかし、こうした思想に接していないと、やはり生の活力を維持するのが難しいのも事実である。

 ハ−バ−マスは、言うまでもなく20代の私が最も強い影響を受けた哲学者で、ドイツ滞在時代は、特に、フランクフルト大学教授として、物理的にも近くに存在していたこともあり、時折彼の作品に帰っていった。その際に触れたように、ドイツ統一が、言わばコ−ル保守政権の思惑通り進んだこともあり、彼を始めとする左翼系知識人は、次第に社会的影響力は失っていったものの、彼の社会哲学は、依然私の心の中では生き続けている。ドイツ帰国時に、買ってきた彼の何冊かのドイツ語原書を読むことができるのがいつになるかは分からないが、彼とはこれからも長い付き合いをしていきたいと思うのである。

 そうした彼の思想と活動を、90年代半ばまで、「現代思想の冒険者」シリ−ズの一冊としてまとめたのが本書である。解説書であるので、その全編を追いかけるのは余り意味がないが、ここでは、復習の意味も兼ね、彼の思想的歩みの主要なものを再確認しておこうと思う。

 言うまでもなく、ハ−バ−マスの理論は、一口で言うと、第一世代フランクフルト学派の理論の「コミュニケ−ション的転回」と位置付けられる。それは近代社会を特徴付けている様々な「差異」−それは第一世代のマルクス主義者の場合は「疎外」や「物象化」といった「生産主義的」概念であったが−の存在を引継ぎながら、それを人間相互間の「コミュニケ−ション行為」の中で新たな次元に統合していこう、というものであった。その結果、第一世代が運命的な両義性を見ていた「啓蒙的理性」の意志を引継ぎながら、「近代」という「未完のプロジェクト」を完成させることを、自らの課題とするのである。

 著者は、1929年生まれのハ−バ−マスが体験したであろう敗戦時の原風景を、1930年生まれと同世代であるコ−ルの自伝を引いて浮かびあがらせながら、青年期の彼に影響を与えた思想家たちを跡つける。それは最初のまとまった著作である「理論と実践」で取り上げられている者たちが多いが、そうしたシェリング、ルカ−チ、そしてアドルノ、ベンヤミン、ア−レント、ショ−レムといったユダヤ系思想家たちの思索を、「歴史的瞬間のアクチャリティ−」の中で捉えている、という著者の指摘は重要である。また24歳のハ−バ−マスが、新聞紙上でハイデガ−のナチス荷担を批判した有名な一件も、彼に対するハイデガ−の両義的な関係性の故である、という指摘も重要である。何故なら、ハ−バ−マスは、従来の「意識哲学」を「間主観性」の方向で克服したハイデガ−の方法を受継いだ、と意識しているからである。

 27歳の時にハ−バ−マスは、アドルノの助手としてフランクフルトに着任し、以降名実共に、この学派の理論的後継者に成長していく。1962年刊行の「公共性の構造転換」は、19世紀初頭に「小さいが、批判的に討議をおこなう(市民的)公共圏」が成立し、「政府当局に統制される公共圏」と対抗していたにもかかわらず、次第に、「文化を論議する公衆」から「文化を消費する公衆」に変貌したことを論証したものであるが、この議論は学生時代の私にも強い印象を残したものである。

 批判的合理主義者との実証主義論争を経て、70年代には彼は「言語論的転回」を果たし、「コミュニケ−ション論」への傾倒を明らかにしていく。「現実のコミュニケ−ションを歪曲する諸要素を監視し、支配なき討論を目指す」という彼の生涯の課題が示されるのである。

 著者は、この時期、ハ−バ−マスを一時ハイデルベルグ大学に呼び寄せた解釈学の重鎮ガダマ−の影響を受け、それが実証主義論争でも、弁証法と並ぶ武器になったことを指摘している。特に、「批判は、科学的に細分化され、精緻化された論証と、生活世界に生きる人間の基本態度という、この両極の間を往来して仲介するとともに、包括的合理性を仕上げなければならない」というハ−バ−マスの基本姿勢は、解釈学から取られ、そして更にそれを超えようとする彼の意志を表現している。続いて、彼は、コミュニケ−ションを歪曲する社会・経済的条件を抉り出す作業に入るが、これは「晩期資本主義の正統性の諸問題」という、我々も仲間内の議論の課題として大いに盛り上がった作品で分析されることになる。当時議論したように、この時期のハ−バ−マスは、社会システム論のル−マンとの論争に際し、「システムや自己制御」に対し「生活世界と間主観性」を対置すること(=およそ人間的なものすべてを、言語と対人的コミュニケ−ションの埒内に囲い込むこと)により立ち向かいながら、自分の晩期資本主義論を築こうと模索している。

 60年代の「反乱の季節」を経て、彼の理論は「コミュニケ−ション行為の理論」としてまとめられる。コミュニケ−ション的合理性の基本理念を整理するため、社会を「生活世界」と「システム」の二つからなる複合体と捉え、近代のパラドックスを批判的に分析していく、という彼の中心的思想が形成されるのである。「真理の一致説」から、「真理の合意説」叉は「真理の討議説」へ、「客観的世界」、「社会的世界」、「個人の内部世界」夫々に対応する妥当性要求基準、そしてその中での「コミュニケ−ション的行為」の意味合いの明確化(「普遍的討議の実現」)により、究極的には「生活世界の(植民地化に対抗する)合理化」を達成すること。ハ−バ−マス思想の本質が、ここで略完成されることになる。

 その後、80年代の彼は、フランス構造主義やポストモダンとの批判的対峙や現代倫理学における法や道徳の考察、そして戦後史の位置付けを巡る歴史化論争への参加と、ドイツ戦後知識人の第一人者として論陣を張っていく。90年代のドイツ統一により、ドイツの戦後が大きな転機を越えたこと、そして恐らくは年齢的な問題もあろうが、最近は彼を巡る知的論争が惹起されたという話は聞こえてこないが、少なくとも現在に至るまでに彼が欧州思想界で果たした役割は、その意味を失うことはないであろう。やや復習的であるものの、こうして自分の原点を、もう一度確認できる作品に帰っていくのは、気分的にも爽快なものがある。次に彼のドイツ語原書を読むときにも、何とか同じ思いを持ちたいと思うのである。

読了:2002年11月5日