アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第六章 思想
テロルの時代と哲学の使命
著者:J.ハバ-マス/J.デリダ/J.ボッラドリ 
 さて、重たい課題である。昨年死亡記事が伝えられたフランス脱構築の哲学者デリダと、おなじみハーバーマス。この二人へ、9.11直後にアメリカの女性哲学者が行ったインタビューと、それについて、そのアメリカ人が論評・解説した論文をまとめたのが本書である。
 昨年読んだ、藤原帰一編集の新書の書評にも書いたが、9.11は、分析対象としては余りに政治的な事件である。この事件を契機に、米国支配層は、「カウボーイ資本主義」的直情型の報復主義に大きく舵を切り、ネオコン戦力の拡大と、アフガン・イラクへの積極介入を招くことになる。他方、これに対抗する勢力は、藤原らの論調に典型的に示されているように「テロ一般により抑圧され、殺される側」に立ち、米国のユニラテラリズムを批判しようとする。9.11は大きな悲劇であったとしても、同様の悲劇は、アフリカで、中南米で、あるいは中近東で米国の支援の下、繰返されている。それを批判せずして、9.11のテロリストだけ批判できるのか。そうした構図は、かつてベトナムで、あるいはソ連が侵攻したハンガリー、チェコ、そしてアフガンの時も繰返されてきた。問題は、9.11が、それまで議論になった事件と何か質的に異なる事件であるのか。かつてハーバーマスは、歴史家論争において、ノルテら保守派が、ナチスの行為をスタ−リンやポル・ポトの行為と同じものと見なし相対化しようとしたことに対し猛然と反論したのと同様、この9.11は逆の立場から、それまでのテロと質的に異なったものとして位置付けられるのか。

 確かにこの事件が、日付で呼ばれること−それが鮮明に多くの一般民衆に染み付いていること−は、この事件の新しい側面である。それまでの同様の事件は、このように日付で呼ばれることはなかった。その意味では、この事件は前代未聞の出来事であった。
しかし、その記憶は、事件の現場−WTCに突入する旅客機と燃えあがるビルとそこでの人々の惨状、そして最終的な倒壊の一部始終がマスメデイアを通じてさながらパニック映画のように全世界に中継されたと言う、視覚的影響に加え、近代史の中で米国本土が外からの攻撃によりこれほどまでの被害を受けたことはなかった、というショックの故であり、必ずしも思想的な意味であった訳ではない。否、そうした議論は、最初に述べたように、余りに政治的事件となったが故に、どうしても対極の側からの政治的議論に陥りがちである。そもそもの事件の本質は何なのか。かつて吉本隆明が、「浮き上がっては消えるアブクのような運動」に一線を画して、日本の古層に切り込んでいったような行為が、この事件での議論にも必要とされるのではないか。この書物に対しては、こうした期待感を抱きながら向かい合ったのである。

 その結果はどうであったのか。結論を先に述べれば、ハーバーマスは、彼の従来からの立場を維持しつつ、苦渋に満ちた想像力でこの事件を論評しているのに対し、私が今まで余り接してこなかったデリダは、全く予想もしない角度から議論を展開する。正直のところ、彼の議論は、1回読了した限りでは、私にとっては全く捉えどころがないままである。従って、ここでは、アメリカ人哲学者の解説も参考にしながら、二人の議論をもう一度書きながら整理することから始めたい。

 9.11をNYで体験した、編者であるアメリカ人哲学者。彼女は、たまたま米国に来ることが予定され、結果的にこの事件の直後に渡米することになったハーバーマス、デリダとのインタビュ−を実現する。その際に彼女の決意は、「恐怖とテロリズムに係わるもっとも切迫した問題群を、哲学の分析に付託すること」であった。テロリストのイデオロギーが、「近代性と脱宗教化の拒絶」であり、この概念が「啓蒙の哲学者によって最初に打ち出された」限り、「哲学が戦闘に呼集されている」のであった。

 問題群は次のように設定される。まず、@テロはどのような土台に立脚し政治内容を要求するのか、A通常の犯罪行為と区別されるのか、B国家テロリズムはありうるのか、Cテロリズムと戦争と明確に区別できるのか、そしてD国家ないし国家連合は政治的存在以外の何ものかに対して宣戦を布告できるのか、といった諸点である。

 これらの問題に対し、ハーバーマスは、まず「9.11には政治的内容はない。従って、それに対する宣戦布告は、それに政治的正当性を与えてしまうが故に、大きな危機感を抱く」。更にこの過剰反応が「日常生活の軍事化が立憲国家の運営を蝕み、民主的参加の可能性を制限し、更に国際的には軍事手段の使用が結局は不均衡ないし無意味なものになる」ことを懸念する。他方デリダは、「テロリズム概念の脱構築が、政治的に責任のある唯一の活動方向である」、即ち「テロリズムという観念を自明のように使用することでテロリストの大義名分を助けるのではなく、テロリズムが安定した意味やアジェンダや政治的内容を有することを否定する」、即ちテロリズムという言葉一般で表現される内容はなく、個別のテロリズムがあるだけだと主張する。こうした議論を、もう少し細かく見ていこう。

 テロが立脚するもの、それは言うまでもなく原理主義的な宗教性であり、9.11はたまたまそれがイスラムであった。ハーバーマスによれば、こうした原理主義は「近代を好機としてではなくむしろ脅威として解した、近代へのパニック的な応答である。」グローバリゼーションの中で「伝統的な生活様式の暴力的な拒絶」と「勝者と敗者への分断」が発生し、そこで二極化した世界観(西洋の没−道徳性と宗教的原理主義)が形成される。問題は、その勝者の世界観が、単なる消費主義では、宗教的原理主義に対する権威的影響力を全く欠如することになる、という点にある。その意味で、ここでハーバーマスが指摘しているのは、「ホリエモン的拝金主義」の持つ道徳性の欠如とそれ故の反発といった世俗的現象の究極の姿が、9.11の中に垣間見られるということである。グロ−バリズムの内的価値こそが今問われているのである。それが「歪曲されたコミュニケ−ションの連鎖」に陥ると、そこにはテロという暴力が介在し、それがコミュニケ−ションを益々崩壊させていく。それを回避するには「操作的でない透明なコミュニケ−ションの可能性」が必要な条件ということになるが、しかしそこで問われているのはコミュニケ−ションの中身そのものである(結局、ハーバーマスのメタ言語空間を保証する、という発想は必要条件ではあっても充分条件ではない)。9.11が衝撃的なのは、これほどまでに切実に、啓蒙や近代、そして現代のグローバリズムの内容そのものが問われた契機はなかった、という点にあるのだろう。
ハーバーマスの個別インタビュ−でも強調されているのはまさにそうしたグローバリズムの持つ価値観の問題であり、それがまた現在のブッシュ政権批判にも直結する。国際刑事裁判所設立への抵抗、生物兵器禁止条約の署名拒否、その他、所謂ネオコンのユニラテラリズムは、米国の道徳性を弱めこそすれ、強化することはない。

 他方ハーバーマスは、9.11のテロリズムそのものも、現実的な政治目標を欠いているために、それが「複雑なシステムの脆弱性をシニカルに利用する」という新たな側面は有しているにしても、それが「理解可能な政治行為にするであろうコンテクストを想像することはできません」と考える。局地的なテロと異なり、グロ−バルテロリズムは、交渉を通じた問題解決という政治行為としての意味を持ち得ないのである。彼によれば、結局この行為自体は、「ナショナリスティックな権威主義体制への失望が、古い政治的志向に、宗教と言う新しい言語を与えた」のみで、本質的に新しいものではない。

 しかし、それでもこの暴力行為が、ハーバーマスが発展させてきた「コミュニケーション的行為」の概念を危機に曝すことはないのか?インタビュ−ア−は「そもそも対話モデルが間文化的な交流に適合するのか?」という問いを発する。これについてのハーバーマスの解答は分かり難いが、結局対話モデルは暴力を内在しつつもそれに終止符を打つ批判力である、という「あるべき」議論になってしまう。恐らく、「モデル」という範疇で、今回のテロを考えると、それはあくまで異常値であり、むしろ蓋然性の議論として捉えることになるのであろうが、それで本当に良いのか、という疑問は残る。それでも、彼の指摘する「普遍主義」の究極としての「平等主義的個人主義」=「連帯と無差別的な包括、各人の個別性と他者性の保護に関する平等な権利」という指摘は示唆に富んでいる。

 以上がハーバーマスの議論であり、書物ではインタビューアーが、もう一度これを総括している。主要な論点整理は、「テロリズムはコミュニケ−ションの欠損である」という一言に尽きる。そしてハーバーマスの全ての議論は、こうした欠損を修復できるような「公共圏を如何に作り出すか、」という論点に向かっているのである。「制約のない資本主義と国際社会の厳格な階層化が対話の崩壊の根底にある。」「コミュニケーションの病理としてのグロ−バリズムの原因は、文化的なものではなく経済的なものである。」そしてその病理は、結局彼が追いかけて来た「啓蒙が未完のまま残した言説=討議」の公共圏の確立においてのみ治癒されると考えるのである。

 続いて、第二部はデリダとの議論とインタビュ−ア−による総括に移るが、ここでのデリダの議論は更に難解である。残念ながら、今の私にはデリダの議論を追う余裕はないことから、ここでは以下の点を指摘するだけに留めたい。即ち、デリダは、彼の言う「自己免疫的プロセス」を統制するように働く「ある奇妙な作用」を哲学的に表現することで、テロリズムの背後にある不気味なモティベ−ションを示そうとしていると考えられる、ということである。

 彼は、その自己免疫的危機を三つの局面に分ける。第一の局面は、冷戦期であり、これは「陸や空よりもむしろ、『頭のなかで』戦われた戦争」。第二の局面は「テロリズムと均衡を確立することが不可能」というトラウマ。そして第三は、彼が「抑圧の悪循環」と呼ぶ、もっとも自殺的な局面。そこでは、「対テロリズム戦争を宣言することで、西欧の結託が自分自身に対する戦争を生み出す」ことになる、と言う。そしてその「倒錯的力学を打ち破ることは困難である」、何故ならテロリズムについて西欧が語れば語るほど、「その大義名分に地位や可視性、そして目的があるという印象を与えてしまうからである」と考えるのである。

 こうして9.11に対する、二人の屈折しているが故に難解な議論を見ていくと、まず言えるのは、特にハーバーマスにおいては、テロリズムが提起している問題により、彼が生涯を貫いて求めてきた「明快なコミュニケーション」が、20世紀半ばに啓蒙が直面した問題よりもより複雑な力学の中で危機に曝されている、しかし、それを包含する理論的枠組みを提示できないことに対する苛立ちが垣間見られるということである。しかし、この苛立ちは、単にテロリズムを、単なる「政治的野蛮」として一刀両断するよりも、圧倒的に真摯な対応であると言える。冒頭に言及した藤原帰一編集本のように、それを米国等による政治的失敗に帰する議論は、それはそれで分かり易いが、しかし、それもこの二人の議論の位相から見ると、余りに単純である。哲学と言うのが、結局「明晰を求めながらも明晰に到達できないこと」への苛立ちの産物であると言う私の人生観から見れば、どちらがより根源的な説得力を持っているかは、一目瞭然であろう。9.11という極度に政治的な事件に対し、同じ政治レベルではなく、しかしそれが故により重たい対峙の仕方がある、ということをこの書物は教えてくれるのである。

読了:2005年4月8日