アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第六章 思想
日本とドイツ 二つの戦後思想  
著者:仲正 昌樹 
 日本とドイツの戦後比較。またか、という気持も抱きつつ、しかしこの種の本は一応抑えておかねばならないと考え読み始めたが、どうしてなかなか読み応えのある両国の戦後思想比較になっている。著者は、1964年生まれのドイツ戦後思想史家。40代始めと、私よりも一世代若い分、やや突き放して戦後思想を検証できると共に、指導的な潮流が失われて久しい現代の思想潮流の中で、こうした分野に携わらざるを得ないアカデミシャンが、テレビやインタ−ネット等のマスメディアの動きも考慮しながら、どのように現代を捉えようとしているか、という観点からも読むことができる作品である。

 日本とドイツの戦後清算についての左右両派の議論を整理するところから著者の議論は始まる。徹底的な非ナチ化の戦後教育と近隣への「謝罪」外交を支持するリベラル派の議論に対し、西尾幹二ら右派による、ドイツの戦後政策は政治的現実主義による「狡猾」さから読み解くべき、と言う反論。著者は、前者の立場に近いと言いつつも、後者の議論を切り捨てるべきでないという視点から両国の歩みの相違を、戦後思想を比較する中から浮き出そうとする。

 両国の戦後の出発点である戦争裁判の結果を、著者は、「人道に関する罪」とそれを巡る戦後の外交や補償を念頭に置き、「大犯罪を犯したために明確な善悪の基準を持たざるを得なかったドイツと、中途半端な悪事を働いたために中途半端な善悪の基準しか持てなかった日本」と比喩的に表現している。右派の議論の根拠にもなっているこの論理は、大犯罪と中犯罪の基準を「人道に対する罪」に置いている訳だが、戦後の外交や近隣諸国との関係において、結局こうした敗戦国としての負い目を如何にプラスの政策に反映させて行ったかということを考えると、まさに中規模の負い目を現実政策に上手く利用できなかったという点で、日本にはドイツの戦後政策を参考すべき点が多く残っていることは間違いないように思われる。また著者も指摘しているように、「法的・政治的罪に対する解決と、罪をめぐる個人的内省を分けて考えるヤスパース=ヴァイツゼッカ−の戦略」は、少なくとも道徳的な真摯さをアピールした、という点で日本の指導者達も見習うべきであることも確かである。

 日本の戦争責任論が、対外的な責任論とならなかった理由を、著者は戦後日本の特徴的な政治環境の中に求めている。まず、大きな問題として、日本の「一億総懺悔」が、「敗戦責任」を曖昧にするという国内に向けられた側面が強かった、ということが指摘される。また丸山真男の「日本ファシズム」論でも、日本の対外責任論にはほとんど触れられていないことも、日本の戦後思想の出発点での問題として注目される。
この理由については、著者は小熊英二を引用しつつ、天皇を除く為政者の責任を追及するために被害者としての国民の立場を強調したことから、一般国民と超国家主義との間の共犯関係が曖昧になった、と指摘している。更に広島、長崎の強烈な被害者意識が、反核運動への左翼系のかかわりを通じ、アジア諸国に対する加害者意識を弱めることになってしまった。その結果「アジア諸国に対する加害性を、‘戦争責任’論の焦点から外してしまうという傾向について、国家としての戦争責任をそもそも認めたくない保守派と、一般国民の責任をあまり強調したくない革新派が密かに協働する図式が成立してしまった」ということになる。

 しかし、ドイツにおいても、一般人の戦争責任を巡る議論は簡単ではない。1996年、米国人ゴールドハーゲンにより提起された、「ホロコ−ストの原因としての一般人の反ユダヤ主義」という単純な議論は、アカデミズムからは多くの批判を浴びることになる。言わば、一般国民の道徳的・宗教的な意味での責任を認めるということと、彼らが実際にどのように振舞ったのかを歴史的に解明し、史実として確定するのは別問題であった。しかし、日本では、「一般人のメンタリティに浸透していた一般的な反ユダヤ主義と『最終解決』の関係」と同じレベルで議論できるような論点がないことから、「一般人の戦争責任」がきちんとした論争になることもなく、その結果曖昧なままに残されることになったのである。

 さて、こうしたイントロを経て、テーマは本論である戦後思想史に入るが、まず議論されるのは、戦後の両国の「新たな国家像」を巡る議論である。
 言うまでもなく、議論の中心は、西ドイツがナチ体制の全面否定に基づき新たな国家に生まれ変わったのに対し、日本では天皇制が存続したことにより、体制の転換が理論的に中途半端なまま戦後に突入したことをどう考えるか、という点にある。著者は、宮沢俊義の8月革命説や佐々木惣一と和辻哲郎の国体論争等を振り返っているが、ここでも問題は、中悪人である日本の問題意識の欠如に集約される。

 その意味で、ゼロから出発せざるを得なかった西ドイツでは、社会思想化の営為も先鋭化せざるを得なかったことは容易に想像される。ナチをもたらした「ドイツ的」なるものの評価やホロコーストを経た後のユダヤ知識人の思考は、まさにこうした「ドイツ的特性」故の結晶である。言わば、ドイツの戦後知識人は、「ドイツ(人)のアイデンティティ」を、過去の反省に基づきゼロから創っていかざるを得なかったのである。

 こうした観点から続けてT.マンのドイツ論やグラスのドイツ統一論、そして私が知らなかったところでは、「第一次大戦からドイツの覇権主義は始まっていた」とする歴史家F.フィッシャ−の「特有の道(Sonderweg)」論や、それを発展させ「伝統的なエリ−ト層による旧来の支配体制が温存され、下からの改革運動を抑圧し続けた」という議論(野田宣雄の「教養市民層」論もこの影響下にあるのであろう)を展開したH=U.ヴェ−ラ−らの議論が紹介されている。またこの「特有の道」論が、80年代後半以降、「脱西欧化」や「中欧への復帰」という形で新保守主義の議論に展開されていったという指摘も面白い。
 これに対し、日本のナショナリズム批判は、政治思想としては硬直的な正統派マルクス主義や、丸山真男や大塚久雄による、「市民社会」の未成熟が戦前の体制を招いたが故に、それを定着させることが必要であるとする理想主義的な「近代化」論が支配的であったが、それぞれが、実際に政策を遂行した政治家や国民の実感からは乖離していた故に、政治過程には全く「日本的」な風土が温存されることになったと言える。

 憲法に関連する論争の位相の相違も、ドイツと日本ではやや様相を異にする。80年代半ばの歴史家論争で、ハーバーマスが提示した「憲法愛国主義」は、日本の野党による「護憲平和主義」に類似しているように見えるが、ハーバーマスのそれは、ホロコ−ストを相対化しようという動きに対抗する道徳的・倫理的抵抗を政治次元に高める目的を持っているのに対し、日本の場合は、天皇制もあわせて規定されている憲法のうち、あくまで「九条」維持という観点での「護憲」であった。即ち、日本では九条を維持するため、天皇制を含め憲法改正には手をつけないという野党と、それにより天皇制を護持し、また米国の傘のもとでの経済成長を維持させようとする与党が暗黙の合意により維持してきたのが現行憲法であった。しかし、もちろん、日本でもまさにこの憲法改正案が与党より提示された現在、これが日本の今後の国家の形を議論する格好の機会になることは疑いない。問題は、ドイツで発生したような、広範な議論が発生するかどうかであろう。ドイツでも、ハーバーマスは、1990年の統一が、新たな憲法を国民が制定するという146条ではなく、新しい州の連邦加盟規定である23条に基づいて行われたことに違和感を示したが、政治的にはこの議論は有効性をもたず、むしろ90年代以降は、ドイツ独自の伝統と地政学的な位置を考慮しながら新たな国民国家アイデンティティを作っていこうという比較的若い(「89年世代」と呼ばれる)論客も登場しているという。また日本側では(私は知らなかったが)、95年以降、私と同じくらいの世代の哲学者、高橋哲也と文芸評論家、加藤典洋の間で行われた「敗戦後論争又は戦後責任論争」が、日本人の「歴史と国民のアイデンティティ」論争として一定の問題提起を行ったと評価されている。

 ドイツと日本での戦後思想に関して、最も相違があるとすれば、マルクス主義の受容に関してであろう。西独の場合は、横に政治的現実としての東独があったことから、単純な階級闘争史観と政治的実践としてのマルクス主義は当初から思想としての価値はなく、フランクフルト学派に見られるように、言わばその批判理論としての側面を深化させていくという方法を取らざるを得なかった。

 それに対し日本の左翼は、言わば第二革命のための理論としてのマルクス主義が思想的にも大きな思潮を作ることになった。著者に言わせれば、地政学的な緊張感がない状況で、免疫のないまま思想的自由がもたらされたこと及びマルクス主義の政治的現実性が低かったことが、各種の理想主義的マルクス主義理論の花盛りをもたらすことになった、ということになる。著者は、日本の戦後マルクス主義知識人とその思想の整理を行っているが、どちらかと言うとドイツ(または欧州)一辺倒で戦後思想を眺めてきた私にとっては、久々の日本戦後思想の整理の観点から、ここで改めて簡単にその流れをフォロ−しておく意味があると思われる。
 
 まず労農派では、社会主義協会の山川均、大内兵衛、向坂一郎、そしてそこから出発した宇野弘蔵が、そして他方の講座派では、山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎が挙げられる。狭義の「マルクス主義哲学」では、共産党系の「民主主義科学者協会」の中心であった古在由重や、そこを舞台に「主体性論争」を繰り広げた松村一人と梅本克己らの名前が挙げられている。また正統派からやや距離を置いたところで、西田哲学と疎外論を融合しようとした梯明秀や、フォイエルバッハをベースにした人間学的唯物論の船山信一が紹介されている。またマルクス主義から距離をおいた所謂リベラル左派では、前述の丸山や大塚の他に、法理論の川島武宣、「思想の科学」の鶴見俊介、経済思想家の高島善或や内田義彦、そして60年代になるとトリアッチの影響を受けた構造改革派の江田三郎、石堂清倫、長洲一二らが戦後派左派思想家ということになる。著者に言わせれば、西欧の思想家にとっては、マルクスの想定している「市民社会」と現実の「市民社会」がズレていることが明白であったことから、それが充分意識化されたのに対し、それらの思想を輸入した日本では、逆にそのズレが認識されず、「社会を分析している自分たちの立場自体を分析するメタ理論を欠いたまま」マルクス主義輸入思想のデパ−トを作るだけに終った、と言うことになる。

 こうした日本の戦後マルクス主義の展開と比較しながら、続けて著者は、フランクフルト学派が、むしろ社会の根底で権威主義的体制をさせている諸要素を分析していった様子を示しているが、確かに「遅れてきた青年」の私としても、やはり日本の戦後思想はあまりに硬直的・政治的であるが故に、フランクフルト学派と比較して、思想的魅力が弱かったことを、今さらのように思い返すことができる。そしてこうした戦後思想が、67−68年の学生運動の中で批判に曝された時、日本の思想が「インテリ」の思想としての拠り所さえも失っていったのに対し、ドイツではフランクフルト学派の第二世代であるハーバーマスに受継がれる形で、影響力を維持し続けることになったのである。

 ハーバーマスについては、著者は、第一世代のアドルノ、ホルクハイマ−と比較して、彼が「市民社会」が持っている現実政治を変えていくポテンシャルに楽観的であったことから、学生運動が終息した後もSPDに流れ込んだ左派学生の一つの拠り所となり、そして前の本で見たとおり、その後のドイツ社会変革の源泉となったのである。これに対し、日本では、戦後思想は、学生運動に指示された吉本隆明や広松渉による否定を経て、思想的な継続性を失い、また吉本や広松も、言わばポストモダンに繋がる近代合理性に対する疑問を提示したものの、ポジティブな現実的選択肢を提示できなかったことから、ハーバーマスのような継続的な社会的影響力持つことなく現在に至ることになってしまったのである。

 こうして、80年代以降の社会哲学は、レヴィ=ストロース、フーコー、ドゥル−ズ、デリダ、ガダリといった、フランスから発信されてきたポストモダン思想に席巻されることになる。しかし、そこでもハーバーマスに見られるドイツ側の抵抗は、日本の思想界に比べれば持ちこたえたというのが著者の評価である。ドイツでこうしたポストモダンを担ったのは、ポーラー、M.フランク、J.ヘーリッシュといった、私は初めて名前を聞く、私と同世代の人々であるが、彼らは文芸批評を皮切りに「(初期)ドイツ・ロマン主義」の復権を主張したという。しかし、それが文芸批評の分野を超えて実践哲学や政治思想にまで波及するようになるとハーバーマスらの合理主義者からの強い批判に曝されることになった。しかし、ハーバーマスのコミュニケ−ション理論に対しては、マクルーハンとルーマンに依拠する0.N.ボルツからの説得力ある批判が提示されている、というのも新しい知識であった。また、ドイツのポスト・モダンが、初期フランクフルト学派のメンバ−であるベンヤミン(特に彼のパサ−ジュ論)の復権をもたらし、それが三島憲一や今村仁司らを通じて日本にも影響を及ぼしているというのも面白い現象である。

 その日本でのポスト・モダンの攻勢を象徴するのが「スキゾ・キッド」浅田彰や蓮見重彦、栗本慎一郎、中沢新一といった新世代であるが、ニュ―アカデミズムと呼ばれる彼らの作品や活動は、言わば従来の狭義の思想領域から広がる伝播力を有していたものの、思想としての重みは喪失してしまう。90年代に入り、宮台真司による「援助交際」の社会学といったような「新しい知の在り方」が日本で主流となっている姿は、依然知識人は、しかるべき媒体により民衆に語りかけるべきであるという暗黙の了解が生きているドイツとは大きく異なってきている。しかし、著者に言わせれば、ポストモダン自体は、「生産中心モ−ドから消費中心モ−ドへシフトした後期資本主義の若者のアイデンティティ不安に焦点を当てている」ために、そもそも政治的な議論とは噛み合う余地がなかったということになる。しかし本家のフランス・ポストモダンは、その後むしろその批判精神を先鋭化する形で、「脱構築的フェミニズム」や「ポストコロニアル・スタディ−ズ」「カルチャル・スタディ−ズ」といった反権威的思想に繋がっていったこと(「ポストモダンの左転回」)を鑑みると、やはり日本の思想的軽薄さのみが目立つような気がする。著者はデリダの影響のもとで、インタ−ネット環境の拡大も含めたメディア論的アプロ−チで独自の著作を発表している東浩紀とドイツで同様の議論を展開するP.スローターダイクを紹介している。活字文化による情報伝達により支えられてきた啓蒙的理性による「人間」概念が、ポスト近代的なコミュニケ−ション状況の中で変容を促されている、という彼らの議論が果たして、哲学の終焉を意味するのか、というと私にはやや疑問であるが、正直のところここまで私がキャッチアップするにはやや時間を要する感じがする。しかし、そのスロ−タダイクは、1999年にハーバーマスと、「活字という古いメディアによる人間性管理の終焉」という論点での論争を行っているというのは面白い。言わば、ポストモダンの新鋭に、「普遍的人間性を擁護する人文主義的教養知識人」の権化である大御所が議論を挑むという構図であるが、こうした状況は日本では望むことはできないものであろう。

 但し、そのハーバーマスについては、同じ時期、彼がコソボ空爆を支持したことを巡って、フランクフルト学派第三世代のA.デミロビッチも含め、若手の左派知識人からも、その西欧中心主義を批判する声が高まったという。またフランクフルト大学でハーバーマスの後を継いだA.ホ−ネットは、ハーバーマス流の「理想的なコミュニケ−ション」が成り立つための前提条件としての人格の相互「承認」の問題に議論を移している、というが、これは言わば異文化間コミュニケ-ションの条件を求めるという、ポスト西欧中心主義的議論であると言える。但し著者は、この承認の究極的な母体として民族共同体を復活させることにより、この議論が右旋回の危険性を持っていることを指摘している。言わば、この議論が普遍的コミュニケ−ションの場の創造に失敗すると、それが旧来のナショナルなものへの退行を促してしまう、という危険を内在しているということである。日本においても、コロニアリズム系の知識人として姜尚中による丸山真男のエスニシティ無視批判の議論がこれに類似しているが、この議論も、ドイツと同様に、知識人が最終的に拠って立つ「批判」のための理論的基盤を喪失し、そもそも近代西欧的な概念である左右の区別が曖昧になる危険を有している、と言う。新保守主義を標榜する西部や小林よしのりがアメリカ追随政策を批判し、左派と思われていた宮台が親アジア主義に移行し、両者の境界が見えにくくなるという状況が起こっている。「西欧近代」の終焉は、言わばそれに起因する左翼・右翼という評価軸自体を無意味にしてしまう。それが果たして社会の安定と発展、そしてその中に生きる人間にとって本当に良いことであるのかどうか。ポストモダンの時代の哲学は、日本でもドイツでも、そのテ−マに真摯に向かい合うものでなければならないことは確かであろう。

読了:2005年9月23日