アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第六章 思想
日本とドイツ 二つの全体主義
著者:仲正 昌樹 
 丁度2年前、2005年9月に、同じ著者の「日本とドイツ 二つの戦後思想」を読んだが、これは、戦後思想史における日本とドイツの比較であり、戦争責任論から戦後マルクス主義の影響を経て、ポストモダンに至る日独比較を、ドイツにおけるポストモダンの議論など、私が全く知らなかった動きも含めて非常にうまくまとめていた。この作品の続編(あるいは前編)として、同じ著者が、日独両国の「戦前思想」の整理に挑戦した。著者が指摘している通り、何を持って「戦前」と捉えるかは難しいが、日独両国とも1870年頃に西欧的近代国家を形成したということを考えると、この近代国家形成の試みの中での、両国の思想的な格闘を整理することは、確かに面白い試みであると言える。もちろん、例えば第一次大戦を受けて成立したワイマール体制と日本の大正デモクラシーは、政治的枠組みで見れば決定的に相っているが、近代国家形成の似たような段階にあった両国での民主主義的な思想的営為の比較という観点で意味がある。他方、確かに著者が指摘している通り、すでにこの時代から、少なくとも哲学・思想的には「先進国」であったドイツから、日本の思想界は大きな影響を受けている。従って、ドイツ思想と比較される日本の思想史研究は、いわば「日本におけるドイツ思想の受容史」となってしまう恐れもある。これを避けながら、「単なる影響関係」ということではない形で見ていこうというのが著者の基本スタンスである。具体的な考察の時代は、@1870年代から20世紀初頭にかけての近代化と国民化の同時進行、A労働運動と結び付いた社会主義・アナーキズム思想の動向、B第一次大戦後(1920年代以降)のリベラルな政治文化、C第二次大戦前夜における「近代の超克」思想の台頭、という4つに区分されている。

 第一期に入る前に、著者はまず両国における国民国家形成の特徴を整理している。ドイツが、分割された領邦国家の統合を、ドイツ語を中心とする文化概念から展開させていったのに対し、日本では、明確に意識されていたかはともかく、統一国家は既に確固として存在していた。他方で、英仏に遅れたとはいえ、ドイツは市民層からの「自由主義」と「ナショナリズム」の高揚を受け統一国家の形成が促されたのに対し、日本は外圧に伴う支配層内部での「クーデター」により近代国家がスタートしたという相違がある。これが、近代国家創世記の思想状況、なかんずくナショナリズムの形態にどのような影響を与えたのかが、第一期のテーマとなる。

 ドイツの場合は、既に西欧に組み込まれていたため、ナショナリズムの高揚は、知識人の間で、特にフランス文化へのコンプレックスを内包しながら、特殊ドイツ的な「内面的優位」、即ち「人格の陶冶=教養」を求める方向で顕在化していくことになる。これに対し、日本の場合は、そもそも「西欧文明」との接触が近代国家建設の契機であったことから、まずはこれに追いつくことが問題であり、「どのように自己の独自性をアピールするかは、当面俎上に載り得なかった。」そして西欧に対しては「卑屈に媚びるような態度を取りながら、近隣のアジア諸国に対しては(中略)優越感を示そうとする傾向」が当初の段階でセットされてしまった。
 こうした傾向を思想的なレベルで示すために、著者は、両国における第一期の特徴的な思想家及びその作品として、いずれも1870年代に発表されたニーチェの「悲劇の誕生」と福沢諭吉の「文明論之概略」を取り上げる。「悲劇の誕生」は「アポロン的=ラテン的」フランス文化に対する、「デュオニソス的=反ラテン的」ドイツ文化の宣言と解釈され、もちろんそれは元々政治的な意味合いを持っていた訳ではないが、「西欧と異なるドイツ」というナショナリズムを鼓舞する効果を持ったと見るのである。他方、福沢の主著は「驚くほどストレートに西欧志向」である。福沢が主張するのは、「日本の国として独立を保っていくには、まずは西洋文明の精神を吸収して、これまで政治とはほとんど関係のなかった人民を、自らの思考に基づいて国作りに参加する『国民』へと改造しなければならない」という「啓蒙主義」と「進歩史観」であり、1885年「脱亜(入欧)論」でもより強く主張されることになる。

 ドイツでは、帝国の成長に伴い、「民族至上主義」的傾向も既にこの時期から現れてくる。ベルリン大学教授のトライチュケは扇情的なナショナリズムの唱道者として有名であるが、もう一つの傾向としての民族的排外主義の扇動者として既にこの時期に、オリエント学者・政治哲学者のパウル・ド・ラガルドと美術史家のユリスル・ラングベーン、あるいはゲオルゲ・サークルのメンバーであった文学史家ベルトラムのように反ユダヤ主義を鮮明に主張する思想が現れていたことは注目すべきであろう。これに対し、日本のナショナリズムの深化は、国内的な異民族排除ではなく、対外拡張的ナショナリズムの形を取り、既に述べたとおり「近隣のアジア諸国に対する優越感」の顕在化という形をとることになる。特に、元々自由民権運動から出発した徳富蘇峰のような言論人でさえ、積極的な海外植民を主張したというのは特徴的である。同時に政府の欧化政策に反対する立場の政教社グループの三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南なども国粋主義の観点からナショナリズムの強化を煽動することになる。

 日独での近代国家形成にあたってのもう一つの相違として著者が挙げているのは、宗教の役割である。ビスマルクは文化闘争を通じてカトリック教会の政治的・社会的権威を弱体化させ、統一ドイツを文化的に均一化しようとしたが、結局失敗し、またプロテスタンティズム側にも皇帝の支配を宗教的あるいは血統的に正当化するということがなかった。言わば、「ドイツのナショナリズムは、宗教的な権威を帯びた王権を、絶対的な中心とする思想体系は備えていなかった」のである。これに対し、日本は「神道/記紀神話」という宗教としては曖昧な権威を核として「天皇神話」を構成し、この上で国民国家の建設を進めた。この結果、「共同幻想の結果である『神話』と客観的な史料に基づく『歴史』を明確に分離することが難しくなった」と見る。この日独の宗教と科学との関係を、著者は森鴎外の短編小説「かのように」を素材として説明しているが、まさに明治中期の日独の発想の相違を、身をもって体験した鴎外による観察は興味深い(新カント派ハンス・ファイヒンガーのカント解釈。霊魂や自由や義務を「虚構」と認識しつつ「事実」として通用させる)。こうして日本は近代国家建設にあたって「天皇制」という重石を得たが、他方でそれがある種の「タブー」として現代まで持続してしまったのに対し、ドイツはそうした核を持たなかったが故に、その後もナショナリズムのアイデンティティを絶えず自問せざるを得なかったのである。

 第二のテーマは社会主義の受容と展開である。ドイツに社会主義が体系的に紹介されたのは、国法学者・国民経済学者ローレンツ・フォン・シュタインが1842年に発表した「今日のフランスの社会主義と共産主義」とされ、マルクスらもこの本を通じてプロレタリアート等の概念を知ったという。そして政治的には1863年に最初の社会主義的な労働者党として全ドイツ労働者協会(ラサール派)が、そしてそれに対抗する形で1869年にベーベルやリープクネヒトらによる第一インターに参加する社会民主労働者党(アイゼナッハ派)が立ち上がり、ビスマルクによる弾圧の中1875年に統合するが、以降この両派が対抗・対立しながらドイツの社会主義運動が展開することになる。他方、日本では所謂「工場労働者」の政治的形成が遅れたこともあり、むしろ知識人による学問的紹介が「異様なまでに先行」したと指摘される。1897年に、アメリカ留学帰りの高野房太郎や片山潜らにより労働組合期成会が形成され、また翌1898年に同じ片山潜や幸徳秋水らによる理論集団としての「社会主義研究会」が発足したが、本格的な活動は1910−1920年代まで待たざるを得なかったという。しかし、ドイツの社会主義運動が統一国家の成立前から発展し、統一後もしかるべき政治的勢力となり、帝国の政策決定に一定の影響力を及ぼしていったのに対し、日本の社会主義運動はそうした力を有していなかったことから、1910年の大逆事件を含め、一方的な弾圧に晒されることになったと言う。

 ドイツでは、カウツキーら正統マルクス主義者とベルンシュタインら修正主義者が対立しつつ第一次大戦を迎えるが、ここで主流派が戦争支持に転換すると、ローザ・ルクセンブルグらの左派が分裂し、戦後の蜂起を含めた直接革命運動を強めることになる。しかし、この社民党と共産党との対立が、その後のワイマール期にも尾を引くことになり、両党を合わせると議会での多数派を形成できたにもかかわらず、連携できずナチスの台頭を許すことになっていったのは周知の事実である。他方日本は、大逆事件への連座を免れた堺利彦、大杉栄、荒畑寒村、山川均らにより社会主義運動が継続される。1920年にはマルクス主義者、国家社会主義者、学生団体等が大同団結し「日本社会主義同盟」が形成されるが、直後にロシア革命後のソ連情勢の評価について、大杉らアナルコ・サンディアリストと山川らボルシェビキ派との間で論争が勃発する。しかし、1923年大杉が虐殺されると論争は自然消滅、ボルシェビキ派も当局の激しい弾圧を経て政治的影響力を喪失していったのである。

 第三のテーマとしては、「市民的自由と文化的共同性」という表題で、ワイマール体制と大正デモクラシーという戦間期の自由主義思想の展開が比較される。
 ワイマール文化を飾る象徴的人物として最初に挙げられているのは、ドイツ側がT.マン、B.ブレヒト、グロピウス、カンディンスキー等、日本側代表者としては武者小路実篤、有島武郎らの白樺派や平塚らいてうの青鞜社らの人々であるが、本書の議論で取り上げられるのはそれ以外の人々である。

 まず両国における民族研究の展開が語られるが、ここの特徴は、ドイツでのH.オバンらの研究がヴェルサイユへの抵抗と「中欧」をドイツの民族的生存圏として主張するような「外向き」の民族研究であったのに対し、日本側は柳田國男に見られるとおり閉じられた日本の空間の中での「常民=民衆」の生き方を明らかにすることを通して、「日本人の均一のアイデンティティを再確認する」「内向き」の研究であったとされていることである。 

 政治理論ではドイツ側では、M.ウェーバーやケルゼンによる「指導者の役割と議会制民主主義を何とか両立させよう」という発想から、ワイマールの大衆民主主義の混乱の中で、C.シュミットによる「政治指導者による決断」を重視する議論への展開があったのに対し、日本では、そもそも不徹底な議会制民主主義の下、むしろ大衆民主主義の限界を示した議論として吉野作造の民本主義論と美濃部達吉の天皇機関説が対比されている。しかし、ここでは著者も、ドイツと比較して日本のそれは「本格的な民主主義ではなかった、というきわめて平凡な評価」をせざるを得ないと結論づけている。

 哲学・思想面では、ドイツではまず「自立した人格観を最大限に利用して、理性中心的な世界観を作り上げた」新カント派の興隆が取り上げられるが、既に20年代から影響力を弱めていったとされている。要因としては、ワイマールの混乱の中で「非合理」なもの、あるいは「無意識的」なものを取り込むことが出来なかったことであったとされている。それを埋めたのが「屈折したナショナリズム」を内包するシュペングラーの「西欧の没落」や、ヤスパースやハイデガーの「伝統哲学の主体/客体図式を根本から批判」する「脱近代」の哲学としての実存主義であったという。これに対し、日本側では漱石門下の阿部次郎、小宮豊隆、安倍能成らの「『人格』の陶冶を主題とする教養主義」が若い知識人の間でのブームとなったというが、日本では教養の名の下にショウペンハウアーやニーチェのような「反教養主義・反理性中心主義」的哲学も全て一緒くたに括られて輸入されたところに、「日本的教養観の雑然さ」が現れている。そして著者によると西田哲学も和辻風土論もそうした「雑然さ」の一例ということになる。そしてこの流れが京都学派として田辺元や九鬼周造らに受け継がれる。この流れは、中には三木清のようにマルクス主義に傾倒した者もいたが、概して、「理性の普遍性という西欧的な発想から逸脱し、共同体的なものへの回帰志向を鮮明にした」ことにより、体制の枠内での思考であったと言える。

 これに対し、ドイツではワイマール期にネオ・マルクス主義的な思考が鮮明になる。これの先駆けがG.ルカーチとE.ブロッホであり、その流れを引き継いだのがホルクハイマーやアドルノらフランクフルト学派の面々であったことは言うまでもない。これに比較される日本側の「イデオロギー批判」として取り上げられるのは戸坂潤であるが、彼にしても「理性中心主義としてのマルクス主義の限界」までは思い至らなかった。著者は、その理由を、日独におけるマルクス主義受容と研究の歴史の差と考えている。

 こうして最後に第四のテーマである「全体主義と西欧近代の超克」に入る。ドイツでは言うまでもなくニーチェのニヒリズムとハイデガーの実存主義が、脱「自我=理性」中心の思想的土壌となるが、それに所謂「ロマン主義的」思想により、「西欧文明の内的な『精神』だけを否定し、西欧文明が生み出した外的な『テクノロジー』だけ活用する」ことを正当化する方向で展開する。ここで著者が使用しているのはアメリカのドイツ史家であるジェフリー・ハーフの「保守革命とテクノロジー」(1984年)で、この両者を明確に主張した思想家としてシュペングラー、「英雄的リアリズム」の作家E.ユンガー、そして社会学者のW.ゾンバルトについて触れられている。ここでは、特にむしろ左翼の武器であったはずの「テクノロジー」が「新保守主義的な思想革命の影響を介して、ナチスの武器となった」ことが特徴として論じられる。これに対し日本の「近代の超克」はより民族主義的国体論を純化する方向で行われたといえる。著者が取り上げているのは、言うまでもなく北一輝であり大川周明であるが、彼らの発想が軍事力による「アジア支配」に向かったことは、「西欧主義的な傾向の強い非西欧主義」である日本の特徴であったといえる。そして国家総動員体制が確立した状況で、この流れをより体制面で強化したのが「昭和研究会」の後藤隆之助や転向した三木清、蝋山政道であり、哲学者では京都学派の西谷啓治、鈴木茂高、文学者では日本浪漫派の保田興重郎と亀井勝一郎、更には林房雄、小林秀雄、中村光男といった戦後も活躍する面々であった。特にヘルダーリンやシュレーゲルの影響を受けた保田の議論は、「神国日本のイデオロギー」として天皇制が維持された戦後においても継続的な影響力を持ったと指摘されている。

 こうして4つのテーマで、「戦前の日独思想」を見てくると、当然のことながら共通点と相違点が浮かび上がってくる。そしてその相違は著者が何度も指摘している通り、「非西欧的な西欧国ドイツと西欧的な非西欧国日本」ということから発生しているように思える。この論点は、地域統合の議論を行う場合も重要な点である。即ち、ドイツは欧州統合に当たって、まさにこの「非西欧的ドイツ」を徹底的に抑制することにより、地域の信頼を獲得していった。それに対し、日本はその「西欧性」をアジアとの関係において捨て切れていない。しかし、場合によっては、日本以外のアジアの「西欧性」の方が、もはや先に進んでしまっているのかもしれないのである。年末の個人的な事件のことも考え合わせると、この論点は今後少しじっくり考える必要があるのではないかと思えるのである。いずれにしろ、この若いドイツ研究家の戦前・戦後のドイツ・日本の思想史比較は、結構参考になったことは確かである。

読了:2007年10月15日