アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第六章 思想
アーレント=ハイデガー往復書簡
編者:ウルズラ・ルッツ 
 こちらは、前者以上に時間をかけ斜め読みした図書館からの借入本である。50年の間恋愛関係にあったと言われる二人の哲学者・政治哲学者の往復書簡集であるが、これに5800円も払うのは彼らの研究者で公費を使用できる者を除けば、日本にはほとんどいないだろう。その意味で、こうした作品を出版したみすず書房には頭が下がる思いである。個人的には、この両者の作品は残念ながらまだ一冊もしっかりと読んだことはない。ハイデガーの主著「存在と時間」は、今からじっくり読むには余りに「哲学的」であり、アーレントについては、その全体主義論やアイヒマン裁判分析など、より自分の関心に近い作品は多いが、その量にやや圧倒されて読む機会を失ってしまった感がある。それに加え、両者ともあまりに多くの解説本で接してきたこともあり、どうしても「いまさら」という感じを持ってしまうのである。しかし、それでもこの二人の哲学者・政治哲学者が、サルトル=ボーボワールではないが、恋愛関係の中でどのような個人的対話を交わしていたのか、というのはたいへん興味深い。しかも、片やナチスを支持したため、戦後は大学から放逐され実質的に蟄居を余儀なくされたのに対し、もう一人はユダヤ人でナチスから逃れアメリカに亡命し、戦後は反ユダヤ主義の研究にも没頭する等、思想的に対極にあったのである。こうした二人の関係はどのようなものであったのか?そして彼らは50年にわたる関係の中の夫々の時代にどのような対話を交わしていたのか、こうした興味から読み始めたのであった。

 掲載されている書簡は、特にその関係の初期には圧倒的にハイデガーからアーレント宛てに送られたものが多いが、これはアーレントがこの17歳年上の、既に大器の片鱗を見せていた指導教官からの手紙を意図的に残したのに対し、既に妻子のあったハイデガーは相当部分を処分してしまったからと考えられる。その意味で、この時期のアーレントの返信はハイデガーの手紙から想像するしかない。

 往復書簡は、1925年2月から始まる。ハイデガー35歳、アーレント18歳。この恋愛の初期は、ハイデガーの感情的な高ぶりが随所に見られ、また秘密の逢瀬を示唆するような下りがあったりして、若い女子学生との不倫に溺れる大学教師の信条が露呈されている。しかし、そうした下世話な関心以外に、やはり随所に見られる知的会話と現在の関心の所在についてのコメントは興味深い。ゲオルゲ、アウグスティヌスへの言及。マンの「魔の山」についての感想。レーヴィットやフッサールとの交友関係等。しかし1930年に向け、次第に交信数は減少し、この時期は1932−33年頃の手紙―ハイデガーが自分に向けられた反ユダヤ主義者という非難について弁解しているーで終わることになる。1933年、ナチス政権の成立と共に、ハイデガーはフライブルグ大学学長に就任し、有名なその就任演説で親ナチスの姿勢を明らかにし、他方ユダヤ人アーレントはその年パリに亡命し、そして1941年には米国にわたることになる。

 1950年2月、当初の出会いから25年後、ハイデガーの「われわれのかつての出会いを、いまこのとき、永続的なものとして人生の晩年への迎えいれる機会のきたことを、うれしく思います」という言葉と共に、二人の交友が再開する。しかし、その再開にあたっては、ハイデガーの妻エリフリーデから過去の二人の関係について激しい非難があったことが伺われる。しかし二人を隔てる「3000マイル」が最終的にエリフリーデを納得させたのであろう。そしてこの時期以降は、アーレントからハイデガー宛の手紙も多く残ることになる。ハイデガーの手紙の中には、日常的な思索やヤスパースらとの交友に加え、アーレント宛ての詩などが見られる。公職を失い、時折のゼミナールや講演を除けば、蟄居して思索にふけるハイデガーにとって、既に政治哲学者として名を成しているかつての愛人アーレントとの交信が大きな心の支えになっていたことが伺われる。H.ブロッホについての強い関心が語られるのも興味深い。

 1960年に向け、次第に交信は減っていくが、1966年10月、アーレントの60歳の誕生日を契機に再び交信が頻繁になっていく。すでに70台後半にさしかかっていたハイデガー老年の関心が語られる。ベンヤミンのマラルメ論へのコメント。アーレントが送ったカフカの手書きやコジューブのヘーゲル論についての感謝、1969年ヤスパース葬儀の話等。1969年9月のハイデガー80歳の誕生日に際しては、アーレントが、バイエルンのラジオを通じ、ハイデガーの功績を称える講演を行い、ハイデガーから感謝の意が伝えられている。また晩年の手紙には、ハイデガーの著書の出版を巡る、書店との契約交渉などの世間的な話も出ていて面白い。ガダマーのヘーゲル研究やメルロ=ポンティの早すぎる死へのコメント。なぜかコンラッドの「ビリーバッド」(大学の教養課程の課題であった)を読もうとしている、とのくだりもある。アーレントの手紙にはヨヒアム・フェストの「第三帝国の顔」についての賛辞が見られる。そして1975年7月、アーレントからハイデガーへの最後の手紙と、それに対するハイデガーの返信。しかし同年12月4日、アーレントは自宅で二度目の心臓発作に襲われ逝去。翌1976年5月26日、ハイデガーも86年の生涯を閉じることになる。17歳差の二人は、奇しくもほとんど同じくして鬼籍に入ったのであった。

 解説で木田元が書いているところによると、すでに1926年夏頃から、ハイデガーとヤスパースの親交にアーレントが加わり3人の緊密で複雑な関係が成立していたという。こうした経緯は、エリザベス・ヤング=ブルーエルの「ハンナ・アーレント伝」(晶文社)や幾つかのハイデガー伝、あるいはハイデガーとヤスパースの往復書簡等に書かれているというので、また機会があれば読んでみたいと思う。ボーボアールの一連の回想録が、戦中戦後を巡るフランス知識人の生態についての記録であるとすれば、これは同じ時期のドイツ知識人の記録として読まれるべきものであろう。先般読んだこの時期のフランス知識人の動きや、ドイツ戦前・戦後思想史とも重ねあわせると、危機の時代のドイツ知識人の日常的な思索と行動についてはまだまだ多くの未知の領域がある。文化の興隆を巡る世界の奥は深く、人生でやるべきことは多く残っていると感じさせてくれる作品であった。

読了:2008年2月3日