アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第六章 思想
現代思想の断層
著者:徳永 恂 
 2009年の最後の読書は、久し振りの家族との休暇を過ごしたマレーシアのリゾートでの休暇中に読了した、これまた久々の思想書である。著者は、私が学生時代からフランクフルト学派の解説書で親しんできた研究者で、最近では、彼の「ヴェニスからアウシュヴィッツへ」という、近代ユダヤ史の刺激的な作品を、読書会の素材にも使ったことがある。今回の作品は、彼の現代ユダヤ思想研究の、ある意味で原点に帰った作品で、ウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノという、ドイツ圏の思想的巨人4人の原点を、副題の「『神なき時代』の模索」のとおり、それぞれの個人的な宗教や支配的な哲学との対峙の中から、彼なりに総括しようという試みである。

 しかし、かつてのフランクフルト学派の解説のように文章は滑らかではなく、他方「ヴェニスから・・」のような物語性もないことから、思索的な世界に深く入り込み、相当難解な内容である。あるいは、それは私が、こうした世界を離れて既に久しく、哲学をとことん読み解こうとする能力も意欲も衰えているからそう感じるのかもしれない。しかし、フランクフルト学派とその周辺の思想を理解した後、自分自身の世界を形成していった著者の世界は、深さは違うとはいえ、途中までは私と同じレールの先を走っていたと言えなくもないのである。大戦間のニヒリズムの時代を生きた批判的思考が、現代にどのようなアクチャリティを与えるのか。こうした私が30年以上も心に留めながら、進めることの出来なかった思索を、著者はこの作品で行っていると考えると、それは確かに刺激的であることから、必死で食らいついてみた。しかし、結果はやや無残であった、と言わざるを得ない。

 その思索を、著者がまずM.ウェーバーから始めたというのは面白い。というのも、ウェーバーは、この本で取り上げられている他の思想家とは異なる、いわば「近代合理主義」の権化ともいえるからである。そしてそこには様々な専門的な議論はあるとはいえ、彼の「社会科学の価値中立性」という概念は、その後アドルノらのフランクフルト学派が最も嫌ったポパーらの「批判的合理主義」の原点とも考えられるのである。そのウェーバーを、著者の近代合理主義批判の原像の一人として取り上げたというのが、まずこの作品を読み始めた際の違和感であった。

 著者は、「プロテスタンティズム・・・」を中心とした彼の宗教社会学を基に、彼の思想遍歴を分析していく。その際、著者が特に注目しているのは、彼が「プロテスタンティズム・・・」の執筆中の1904年、病気療養中に訪れたアメリカ旅行が、彼の思想に与えた影響である。

 「資本主義の精神」の権化とも言えるアメリカに到着するや否や、彼は興奮を抑えきれず、「アメリカの異質性に新鮮な興味を示し」、その中に飛び込んで行ったという。セントルイスでの学会発表を済ませた後に南部まで足を伸ばし、清教徒やクエーカーといったキリスト教関係の施設や人々だけではなく、インディアンや黒人に関する情報も積極的に吸収していった。そして著者は、その過程で彼の脳裏には「人類史の運命的なプロセスを、つまり文明による野生=自然の征服のドラマ」が映ったと見るのである。そして著者の関心は、ウェーバーのユダヤ人街訪問に向かう。ウェーバーはそこで、「移民してきた貧しい東欧ユダヤ人たちが、彼らの父祖の神と生業とに、同時に仕えている独特の世界」を見るのである。

 ウェーバーのこの著作は、著者によれば、彼の「資本主義の起源」論における立場が、そもそもドイツの学会でゾンバルト等に見られた「歴史主義」から離れ、「経済史から文化史へ、そしてさらに『普遍史』へと独自の変貌」を遂げていることを示しているという。特に米国で、多くのキリスト教の教派(ゼクテ)を調査し、その中に、既に欧州では失われていた「プロテスタンティズムの原型とも初心とも言うべき清新な活力が、今なお生きている」のを感じたことが、その変貌の一つの契機であった。更にそれに加え、ユダヤ教を含めたキリスト教以外の文化に接したことにより、ウェーバーの世界は、「空間的にはグローバルな他の宗教との比較に、そして時間的には「人類史を貫く普遍的過程としての合理化」と「ユダヤ・キリスト教を貫くヘブライズム」との関連という「大きな物語」へと姿を変えた」という。ユダヤ教とキリスト教の関係に関する著者の議論は、私の理解力を超えているが、ここでの「普遍史」というのは、ウェーバーの歴史観における「人類史の運命」としての「世界の脱呪術化=合理化」であり、その先にあるのは「神の死」と「価値の多神教」が支配する「ニヒル」な世界である。しかし、著者は、ウェーバーにおいては、それは「無感動な冷たい表情や逆に無軌道な暴発的行動といったニュアンス」にはならず、むしろ「歴史における責任を神にではなく人間自ら負おうとする責任の論理と、『知性を犠牲にする』ことなく現状を見ようとする冷徹な眼と、一義的な形式合理化過程の果てに開けてくる『価値の多神教』という運命的過程に耐え、世界から隠遁・退却しようとしない積極性がある」という。それは、これから起こる「啓蒙の弁証法」に向けた19世紀知性の最後の堰と位置付けられるのである。しかし、そこには既に「異教の神々の遊ぶオリュンポスの山」が見え隠れしている。ここから、このオリュンポスを極めようとする3人の知性が続くことになる。

 ウェーバーのアメリカ旅行と同じ1904年、ウィーンのフロイトはイタリアを訪れ、美術館や教会を回りながら、そこで古代の土偶や神像などの骨董品を買い集めていた。著者は、この頃からフロイトの関心は、「言語コミュニケーションを通じた他者分析」から「図像解釈学を通じた自己分析」に移っており、彼のイタリア旅行は、彼の精神分析を「自己分析として展開する主体的・学問的営為」に転換させる契機になったと考える。それはいわば、「異教的無意識」、すなわち「偶像崇拝」の無意識からの発生根拠を探す作業であり、それは「呪術からの解放」を旨とする「啓蒙の子」たるフロイトとって、後半生の逃げることのできない課題となったというのである。

 彼の「解放」の対象は、ユダヤ教の神の「具象的代弁者」であるモーゼであったという(「モーゼ・コンプレックス」からの解放)。そしてフロイドは、イタリアで魅せられたミケランジェロのモーゼ像に「人間世界を超えた超絶性」を持った「超越神」を認め、ユダヤ人としての自分が、そのモーゼの拘束から逃れる道を探ることになるのである。

 著者のそうした「フロイト自身の無意識にも立ち入ろうとする『空白の解釈学』」は、しかし、相当難解な議論となる。著者は、ユダヤ教とキリスト教の偶像に対する彼の姿勢を、後に述べるベンヤミンの分析方法と比較しながら、彼は「具象化」の中にこそ、精神病からの解放の契機があると見たとする。しかし、同時にフロイトは、モーゼ像の中に、「処罰者としてのモーゼではなく、許容者としてのモーゼ」を見出し、そこに自己を「同一化」させていったというのである。そして「強力な『リピドー』というエネルギーを持った『エス』と、きびしい『超自我』の間にあるか弱い存在」の「自我」が「欲動のエネルギーをコントロールして、それを精神的な力へ『昇華』することができるならば、そこには『精神性の進歩』が現出する」と考える。それは「強大な超自我がもたらす『自己処罰』要求(モーゼ・コンプレックス)からの解放」をもたらすというのである。こうした観点から、フロイトは最晩年の著作「モーゼと一神教」で、ユダヤ、キリスト、イスラムという三つの宗教の根源を探る旅に出発し、そこで「モーゼを脱ユダヤ化」することにより、「宗教としてのユダヤ教と政治イデオロギーとしてのシオニズムに一線を画した。」それはユダヤ人としての彼の、ユダヤ教という「超自我」から逃れ、同時に、外に向かうと破壊衝動に転化する「タナトス」衝動を内に向かわせ「母体回帰」させることを目指す、精一杯の「啓蒙」への道であったのではないか、と著者は言っているように思える。しかし、ここでのフロイトの位置付けは、正直私には、やや難解であった。

 続くベンヤミンの読み込みも、これまた難解である。そもそもベンヤミンの思想の背景にあるのが「ユダヤ神秘主義的な時間論」と「半異教的な占星術の視点」であり、そこからキルケゴール的な「反ヘーゲル的、反体系的姿勢」をベースに、新カント派的な「自然科学的概念構成の限界」を踏まえ「文化科学の新しい方法」を模索していったことは知られているとおりである。彼の哲学用語の鍵となる「中断」や「コンステラチオン(星座の配置)」といった概念を解釈しながら、著者は、ベンヤミンの場合もフロイトと同様に「空白の解釈学」に向かっていると考える。そしてこの空白は、歴史哲学においては、マルクス主義とユダヤ神学の「空白」を埋めるものとして構想される。それは「史的唯物論」を神学の助けを借りて、歴史観として再生させようという試みとなるのである。そこに現れたのが、クレーの「新しい天使」であり、それが、彼が「歴史を振り返って見る場合の彼の視座」となるのである。彼の時間論の中で「瞬間とアクチャリティ」が結合し、「同時にこの現在が、耐え難い現在が、けっして永続するものではないことを保証する。」そしてそこから「『絶望の非現実性』を透視することで、そこから身を翻す実践的なバネになりうる。」と言うのである。彼がユダヤ神秘主義的な言葉で「未来の各瞬間は、そこを通ってメシアが現れてくるかもしれない小さな門なのだ」と言う時、そこには「未来の脱魔術化」を見ているのである。しかし、ベンヤミンは、ピレネーで自らの生を「中断」させ、彼自身が空白となることにより「脱魔術化」への道を残された人々に託すことになるのである。

 戦後、それを引き受けたのがアドルノであった。著者は、アドルノをハイデガーと対置して議論を進めるが、それは「存在論」対「弁証法」とか、「ナチスに加担した既往歴を持つ伝統的大物哲学者」と「ネオ・マルクス主義の理論的リーダー」といった通俗的な比較ではなく、双方が強い影響を受けたキルケゴールから出発しつつ、それぞれが異なる方向に進んでいったという哲学的な議論の地平においてである。

 しかし、アドルノの思想は、私も以前に読もうとした彼の作品で往生したように、なかなか一筋縄での理解を許さない。若きアドルノの思想的原点について、著者は、「キルケゴールと同じく具体的な実存者の主体性、実存論の側に立って、そこから抽象的な存在の体系論、基礎的存在論を批判した」のではなく、「存在論的傾向と同時に実存論的傾向をも批判」した、とか、彼の「美的なもの」の概念が「倫理的に対する美的というより、論理的・理性的に対する感性的を指し」、更に「感性とは、人間学的な性質というよりは、客体との通路、媒介機能と考えられる」と論じる時、そこにフロイト的な「過剰な『超自我』の命令に対する『エス』の反発力」への期待を見ることができるくらいである。それは、60年代のマルクーゼに見られたような、「第二の自然」である「社会」に対しての「本来的な自然」の反逆である。しかし、それはいわば「啓蒙の弁証法」に対する一時的な逆襲に過ぎず、次の次元への飛躍の契機を持っていない。

 こうして著者は、後年のアドルノ、即ち彼のユダヤ人女性との結婚とその結果としての米国亡命、そして米国での体験の影響という、より分かり易い議論に移っていく。通算11年過ごしたアドルノのアメリカに対する姿勢は「違和感や不適応というよりは、拒絶・反発に近い激しい嫌悪と疎外感であった」と著者は見る。亡命者として、彼は慎重に振る舞い、公の場では決してアメリカに対する過激な批判を行うことはなかったが、私的な通信では、彼はアメリカに「ヨーロッパ文化の中心であった『啓蒙』の姿」、「かつて権威と迷信からの解放であった『啓蒙』が、ここでは『大衆欺瞞』の手段に変質している」姿を痛烈に批判することになる。言うまでもなく、これが「啓蒙の弁証法」執筆の最大の動機となる。著者は、その「啓蒙の弁証法」でのオデッセウスの帰郷を象徴とする、(ハイデガーと異なる)故郷概念の再構築の解釈を続けていくが、ここでは結論として、「内なる自然の反乱」という「啓蒙の弁証法」の局面の「攻撃性が荒れ狂う悲惨な現状を直視し、そこから内在的に、批判的活力を見出すこと」=「フロイトのペシミズム」への回帰が、「アクチャリティ」を確保するという、著者のアドルノ解釈を確認しておけば十分だろう。そしてハイデガーの近代文明批判が、「どこか隠棲して技術化した俗世を見下す賢者の他者批判」であるのに対し、アドルノのそれは「近代の導入に自ら参加した一人としての主体的責任と自己批判が感じられる」ものとなるのである。

 著者は、最後にこうした近代批判の流れを、更にニーチェやヘルダーリンまで言及しながら、「故郷への帰還」という観点から、宗教と哲学という「大きな物語」との格闘を総括している。一言で言えば、それは「哲学とは真理への郷愁」であり、著者がここで取り上げた4人のドイツ圏の哲学者・思想家の軌跡は、近代との格闘を経て、この「哲学的故郷」を目指したが、ついにそこにたどり着けず、旅を「中断」せざるを得なかった人々の姿であったと言える。著者が、こうした格闘を行いながら、果たせずに果てた彼らに深い個人的な共感を覚えていることは確かである。そして同時にこうした思索が、現在誰にも引き継がれていないことに対して、著者が強い危機感を持っていることを感じさせる作品である。しかし、それにしても、ここでの著者の思索を私自身、著者が意図したとおりに理解できたかどうかは、全く自信がない。そして、既に述べたように、こうした思索は、私もかつて感覚的な親近感を持ちそれなりに勉強してきたし、またその気持ちは現在も基本的に変わってはいないとは言え、これだけ理解に苦労すると、それ以上に一般社会がこうした議論を理解し、受け入れられる余地は極めて限られていると考えざるを得なかったのである。
                           
読了:2009年12月29日