アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第六章 思想
フランクフルト学派
著者:細見和之 
 正月休みの日本帰国時に近所の本屋を覗いてみたところ、この懐かしいタイトルが新書コーナーに並んでいるのを見つけ、直ちに購入、新年の最初の作品としてシンガポールへの帰国後読了した。言うまでもなく、私の青春とその後の思考様式に大きな影響を与えた思潮であるが、ここのところは関連作品に接する機会はめったになかった。6年前、この地に最初に赴任した際に、それまで書架にあったが、読む機会がなかったいくつかの関連著作―その一冊は、この新書でも一章を割いて解説されている「啓蒙の弁証法」であり、他はハーバーマスのいくつかの著作であるーをこちらに持ってきてはいたが、今まで手にすることはなかった。やはりその最大の要因は、オリジナルの文章の難解さであろう。昨年末読んだ、「想像の共同体」でもそうであったが、こうした思想書の邦訳は特に読み難く、こうした作品の細部を丹念に理解していこうという根気は既になくなっている。ほとんど引退した状態で、時間を持て余している時は、それでもまだ立ち向かおうという気になるかもしれないが、現在まだ時間の制約がある状態では、そうした気持ちが湧き起こらない。しかし、「想像の共同体」でもそうであったが、新書による解説本であれば、それは気楽である。そんな訳で、復習も兼ね、さらっと読み流したのである。

 著者は1962年生まれであるので、私よりも8歳下である。もともとヘーゲルを研究していたが、私も若い頃多くの作品に接した徳永恂に師事したことでフランクフルト学派研究に転じたということである。こうした年代の学者で、彼らへの関心が引継がれているというのは、なんとも嬉しい限りである。ただ当然ながら、社会が変化する中で、戦後直後にアドルノやホルクハイマーが抱いた問題意識や、また「晩期資本主義」期にコミュニケーション理論を模索したハーバーマスの理論は、いまや一般社会からの関心を集める対象ではなくなっている。そして彼らの後継者たちは、それなりに彼らの問題関心を、現代のアクチャルな問題と関連付けようとしているのではあろうが、存在感は必ずしも大きくない。それはまさに知識人と哲学が現在において持っている意味合いを再度問いかけるものであろう。この問題意識は、この著者も共有しているのは間違いないが、それも念頭に置きながら、この思想系譜をここでもう一度検証しておこう。

 研究所創設期の主要な哲学的契機として取り上げられるのは、シュペングラーの「西欧の没落」とルカーチの「歴史と階級意識」である。この二つの作品が取り上げているのは、この時代に欧州が直面していた社会的、哲学的問題で、同様の問題への対応が初期社会研究所の研究対象となる。前者は、第一次大戦後の欧州で拡大した「文明の発展」への危機感を、そして後者はマルクス主義の「疎外論」という哲学的含意への注目によるその危機感への対応、と位置付けることができよう。そして、そのルカーチの「疎外論」と「主体論」の延長線上に、フランクフルト学派によるマルクスとフロイトの融合という理論枠組みが次第に構築されていくが、その立役者が、その後この学派の主流とは袂を分かつことになるE.フロムであったことがまず説明されている。そして批判理論の成立。しかし、ナチの勢力拡大と共に、研究所はフランクフルトからのディアスポラを余儀なくされる。ここでは特にこの過程でのベンヤミンの業績が細かく紹介されている。そして、アメリカ亡命中の業績としての「啓蒙の弁証法」と、戦後ドイツに帰国して以降のアドルノの足跡―特に「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という有名な句を巡るエンツェンスベルガーらとの関係、更に「第二世代」のリーダーとしてのハーバーマスの詳細な解説。まさに、ここまでは私が青春時代を中心に追いかけてきた、この潮流の主要な歩みの解説である。その上で、最終章で、著者は「ハーバーマス以降」のこの思潮の現在までの歩み(「第三世代」)を紹介しているが、ここが私にとっては最も新鮮であったことから、以下やや詳細に見ておこう。

 まず現在、フランクフルト大学で、社会哲学の教授を務めると共に、社会研究所の所長を兼務しているアクセル・ホネット(1949年生まれ)は、私が初めて聞く名前であった。彼は、批判理論、なかんずくハーバーマスの「コミュニケーション的行為の理論」とフーコーの権力論を踏まえた上で、「承認をめぐる闘争」という概念を中核に設定、「親密な関係における『愛』、市民社会における『法(権利)』、さらには社会的な『連帯』という三つの構造」により、この社会的な承認関係を説明しているという(「権力の批判」(1985年刊)と「承認をめぐる闘争」(1992年))。イメージとしては、むしろ私も仲間たちと細かく読み込んだハーバーマスの「晩期資本主義の正統化の諸問題」に近い問題意識のように思えるが、双方とも、私の欧州滞在時代に発表された作品であることは印象的である。

 ホネットの前任として研究所所長を務めたアルフレート・シュミット(1931年生まれ)は、以前に名前だけは聞いていたが、「マルクスのブロッホ的解釈」ということで、やや哲学色が強い感じ。他方、ハーバーマスの助手であったアルブレヒト・ヴェルマー(1933年生まれ)は、「ドイツ観念論から音楽論をふくむ美学論まで」論じるという点で、「アドルノ的知性」を引き継いでいる。また私の学生時代から名前は聞いていたが、著作に接したことのなかったクラウス・オッフェは、ルーマン理論を踏まえた上で、「現在の資本制社会の様々な矛盾や葛藤(コンフリクト)、そのダイナミズムを分析しようとしている」(「後期資本制社会システム」)、ということで、私の関心に近いように感じる。更に私と同じ世代では、フランクフルト学派の歴史を掘り起こしたアレックス・デミトロヴィッチ(1952生まれ。「非体制順応的知識人―批判理論のフランクフル学派への発展」(1999年刊))―これは私が学生時代に感銘を受けたM.ジェイの業績(「弁証法的想像力」(1973年刊))の、ドイツ側からの補完であるように思われるーや、美学論のマルティン・ゼール(1954年生まれ)、メディア論のノルベルト・ボルツ(1953年生まれ)が紹介されている。またそのM.ジェイや、ドイツ帰国前までの学派の思想史的総括に留まった彼の作業を、その後まで広げたロルフ・ヴィーガースハウスの大著「フランクフルト学派」(1986年)、そしてトーマス・マッカーシー、ナンシー・フレイザーといった「アメリカ・フランクフルト学派」の人々を紹介した上で、著者は、この学派の精神が、一般的にはこの学派と関係ないと見做されている人々に批判的に受継がれた例としてE.サイードを引用し、この新書を締めくくっている。

 さて、この新書を読了した後に感じるのは、年初早々、新たな課題を突き付けられた格好になったな、という感覚である。それはまず、前述のとおり、6年前この地に赴任した際に、この私の学生時代以来の関心を引続き追いかけるために、それまで読めなかった「啓蒙の弁証法」などいくつかの作品を持参しながら、現在に至るまで依然として手を付けることが出来ないでいることへの強い反省である。公私とも大きな変化があった昨年は、確かにそれどころではなかったが、今年はもうそんなことは言っていられないだろう、という内面の声が囁いているのを感じざるを得ない。それに加えて、この新書で登場した新たな名前と作品。これらは、もはや「思想がはやらなくなった」時代に、どのように現在の政治・社会の問題を、総体として批判的に認識し、その克服の道を示していくか、という観点で、引続き重要であることは言うまでもない。現在、「資本主義の下での格差」を分析したフランス人トマ・ピケティ著の「21世紀の資本」が、経済書・思想書としては久々の世界的ベストセラーになっているが、「思想なき時代」の中でも、言わば「全体としての明晰性を求める衝動」は、決してなくなることがない。この新書は、私の中にあるこうした衝動を、新たな年の初めにあたり、再び呼び覚ましてくれたのであった。その衝動が決して満たされることもない、という冷徹な事実も忘れてはならないとしても。

読了:2015年1月9日