未来としての過去−ハ−バ−マスは語る
著者:J.ハ−バ−マス
フランクフルトへの赴任が決まった時、それが何よりも私を興奮させたのは、ついにフランクフルト学派の根拠地で、この学派の生の姿を垣間見ることができるかもしれない、という期待だった。ドイツの戦前・戦後の哲学・知識人運動を担ってきたアドルノ、ホルクハイマ−を筆頭とするこの力強い流れは、ドイツと日本の戦後史の類似性とも相俟って日本でも大きな影響力を持った。そして私自身にとっても、哲学的原点というものがあるとすれば、彼らが常に格闘してきた現代の道具的理性との戦いにあった。実社会の中で、時として現実のうねりに押し流されるこどがあっても、少なくともこの規範意識だけは失うことがなかったと自負しているし、また日々の生活の中でも、彼らの発想を些細なことであっても適用するべく努力してきたつもりである。
しがしながら、他方でこの思想自体が、近年の世界の政治・経済変動の中で、次第に現実から遊離し、影響力を失ってきているのも事実であった。先進諸国においては、生活水準の向上が、彼らが批判しできた道具的理件の貫徹を容易にし、且つそのことが決して現実的な危機感に繋がらないという状態をもたらしている。権威主義国家への批判は、ドイツにおいてはナチの記憶が薄れ、そしてドイツ統一の大合唱が起こる中で、また社会主義圏においては言うまでもなくスタ−リン体制が崩壊し、デタントヘの期待が高まる中で、人々の意識から消えていった。こうした状況の中で、フランクフルト学派の最良の部分を受継ぐと共に、ドイツ知識人の中でも最もこの現代と格闘してさたハ−バ−マスが、ここ2年の世界とドイツの大変革を如何に見ているかを、生の声で語ったのが本書である。手紙によるインタビュ−という形で、具体的には、湾岸戦争、ドイツ統一、ドイツ戦後史、社会主義の崩壊と世界の新秩序、そして最後に現代における理論の意味について論じているが、彼の方法は全て、規範意識として状況を解釈し、評価していくやり方である。その結果として、既に幾つかのドイツ統一に関する書物で取り上げられていたように、彼の規範意識は現実から遊離し、人々の実感から見ると奇妙なものになってしまっている。しかしその反面彼が一貫して主張してきた合理的コンセンサス形成が依然規範的には重要であることは変わりない。否、その必要は以前にも増して強まっているのである。以下、そうした観点から、彼の現実評価の問題点と、それにもかかわらず依然魅力的な彼の議論のポイントを見ていこう。
湾岸戦争に対するハ−パ−マスの評価は、伝統的な権力批判という観点から見ると非常な驚きである。即ち、彼は「戦争計画の合理性の誇示とメディアの前例のないほどの介在」を受け「演出された戦争」も、「倫理的、法的な観点から見て、警察的な、つまり正当な手段により国際社会の決定を遵守させるという型の行動である限り」は正当である、と主張する。もちろん、「国連による正当性の多くは口実として便われた。」しかしそういう形で「国連による正当性」を使用せざるを得なかったことが、「世界内政 (Welt Innenpolitik)」の成立の可能性を示唆している、と考えるのである。ハ−パ−マスが想起するのは、カント的な「永久平和」の理念であり、「冷戦が終結した後、我々は国連を拡大し、憲章上は存在している可能性を効果的に活用し得る執行権力を創出すべきだった」という、国際法執行にかかわるユ−トピア的理念なのである。
確かに、国連による正当性確立が必要とされることにより、大国が引さ合いに出した規範についての議論は可能になろう。そしてそうした形で「公正で、平和的な世界市民的な秩序」の実現のための努力が行われていくことの重要さは疑いない。またヒトラ−とアウシュビッツの後で、ドイツ人は「普遍主義、つまり国際的に承認された人権の不可侵性」と「諸民族相互間の民間交流」に特に留意しなければならない、というのもアドルノから受継いだフランクフルト学派の良き現範意識を示していると言える。
しかし、その規範意識は現実の事象に適用されるや否や、奇妙な変貌をとける。湾岸戦争でアメリカが依拠した、国際協調という論理の下においてであれば戦争行為は許されるのか。またハ−パ−マスが、イスラエルとの連帯という時、イスラ工ルの占領政策とパレスチナ人に対する抑圧については不問に伏すのか。湾庁戦争における演出された善悪構造や、ヒトラ−の教副が、ここでは現実の政策評価の過程で、既成の支配的政治の論理を肯定する方向に転換されてしまっている。これは、従来のハ−パ−マスの論理からするとありえなかった議論である、と考えるのは私だけではないであろう。
ドイツ統一についてのハ−バ−マスの議論も、同様にドイツ統一の過程を規範的に捉えようとするものである。まず、旧東独の解放は、「一望監視体制からの解放」と評価されるが、その体制の転換は、決して当初考えられたほど良心的な市民運動によって担われたわけではなかった。統一に際し、唯一政治的に重要な決定は通貨同盟の期限設定とその方法だけであったが、これは「経済的要請に従った行政という道具的性格」の中での議論に限定され、西の連邦政府により決定された。そもそも旧束独には、古い政権にとって代われるような対抗エリ−トや対抗組織は存在しておらず、また西の民衆は、既に実行済みの連邦加入を事後承認する選挙に参加できただけであった。その過程では「民主的な公民性や憲法論議」は排除され、冷徹に計算されたナシュナリズムヘの訴えが支配的となった。そして、性急だった統一の後、現在生じている様々な問題の検討に際して、こうした規範性を再度想起すべき、と指摘する。
よく言われるとおり、ドイツ統一は、コ−ル政権の勝利であり、ドイツ左翼知識人たちは、その週程で全く民意から浮き上がってしまった。それは、ハ−バ−マスも十分意識している。統一の熱狂の中で、その規範性の欠如を指摘しても、それに耳を傾ける者はいない。その熱狂が冷め、性急な政治決断の歪みが生じてきている今、初めてそうした指摘が意味を持ってくるはずなのだ。それでは現在の問題とは何か。
「西ドイツ経済にとって通貨同盟は、これまでのところ借入金で賄われる、国家による巨大な景気対策」として機能している。それは西独の巨大企業に市場と生産の拡大の機会を与えているが、他方東においては、急激な構造転換が行われる中で、失業は増大し、それに伴う社会的不均衡も拡大している。そうした状況下、高度資本主義国家の中で次第に公共の意識に上るようになってきた、「ポスト物質的」価値−それは例えば、資本主義の社会的且つエコロジ−的抑制や、社会国家的な妥協と言う行政形態を越える戦略−は背景に押し退けられてしまう。「経済的、社会政策的、そしてエコロジ−的に後進的な旧東独の民衆には、テレビを介して見た旧連邦共和国の体制の良いところしか写っていない。」その生活水準の早期同一化が今後前面に出されることにより、ようやく定着してきた「ポスト物質的」価値が再び政治・社会の主題ではなくなってしまうのである。ハ−バ−マスは言及していないが、それをもたらすのは、旧東独の人々の意識の中においてだけてはない。公共部門赤字、1500億マルクという、統一ドイツの財政赤字が、旧西独の人々の生活水準をも今後厳しいものにしていく可能性も、社会意識の退行をもたらす要因になりうるのである。
こうして、ハ−パ−マスが提示する2つの課題、即ち@民主主義の安定と発展をともに決定する政治的・文化的背景と、A民族と公民国家との関係が、如何に今後の政治・社会過程の中で議論されていくかは予断を許さない問題となる。前者に対しては、ハ−ハ−マスは、「ドイツ史の経験に根ざした憲法への忠誠についてのコンセンサス」を、後者に対しては「ドイツの将来的な役割、そしてドイツがヨ−ロッパ共同体での経済的な機関車として東ヨ−ロッパの平和的で社会的な経済発展のためになさねばならぬ援助のありかたについてのコンセンサス」を規範理念として提案する。今や「世界は軍事力によって権力手段と影響力を分かち合う国家群からなる世界である。緑の党の最大の功績が、「政治を故治を感情としてではなく、討議(ヂィスクルス)として行ったことにある」とするハ−バ−マスが期待するのは、こうした成熟した社会とその中での「市民による合理的コンセンサスの形成なのである。こうした議論のため「遇去のモデルを将来の解釈の規範として選ぶこと」は決して無意味なことてはない。
最初に触れたように、こうした規範意識は∃−ロッパ左翼知識人の全般的退潮の中で、ユ−トピ了的な呟きに聞こえるのは事実である。そしてハ−パ−マスもこの議論を立てて全面的に闘う現実的な対象を捜しあぐねているように恩える。しかし、問題は、例えばF.フクシマが言っているような「歴史の終わり」としての現代の中ではなく、依然週去への退行の可能件を秘めた現代という認識の中にある。そこでは、単純な社会発展論に依拠するような未来はもはや消失したかもしれないが、過去の歴史的教訓は依然未来への指針として生きているのである。その意味で「歴史主義」はまだ死んでいない。そしてハ−パ−マスが継続して主張してきた、こうした歴史意識に裏付けられた規範意識は、社会が新たな問題に直面し、危機が発生した時にその有効性を発揮するものなのである。そうした時期が来ることを期待するわけではないが、こと統一に関する限りでも、近い将来そうした状況が来ないとは誰にも断言できないのである。
読了:1992年3月22日