アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第六章 思想
過ぎ去ろうとしない過去
著者:J.ハ−パ−マス他 
1987年、ドイツで「歴史家論争」と呼ばれる一連の議論が繰り広げられた。当時ロンドンにいたにもかかわらす、私は残念ながらこの一連の論争を欧州で同時代的に体験することはできず、むしろ1991年になり、ドイツヘの赴任が決まった頃にようやくその概要を第二章で取り上げた三島憲一の書物で知ることになったのである。

この論争が80年代後半に行われたことが、ある種の時代変化を物語っている。私がロンドンで体験していたサッチャ−時代の英国は、一言で言えば、英国流保守革命が着々と進行していた時期であった。フォ−クランド戦争という対外危機の創出により、最気後退に伴う政治危機を乗り切ったサッチャ−が、財政再建という名目での組合潰しとビクトリアン・ヴァ−チュ−ヘの回帰という旗印の下での労働倫理の革新を進めていた。同じ頃日本では中曽根政権が米国レ−ガン政権に密着しながら、戦後の総括を唱え、そしてドイツでは、ブラント、シュミットと続いた社民党政権が崩壊し、コ−ルの保守政権が誕生していた。先進資本主義国の戦後の高度成長の歪みと、冷戦の中での地域代埋戦争の激化が、青年層の反乱となって顕在化した60、70年代は過ぎ去り、2回のオイルショックを経て、これらの国家が自信を回復した80年代。それは結局、80年代末のバブルエコノミ−と90年代に人ってからの慢性的不況の前奏曲であったのであるが、それでもこれらの国家の戦後の出発点が問い直される絶好の機会を提供したのである。

こうした現代史の文脈で見ると、この歴史家論争は象徴的な意味合いを持っている。即ち、ドイツの戦後の出発点てあるナチ体験を、現代史の複眼的視点がら見直そうという所謂「修正主義者」の議論ば70年代から80年代にかけて発生した西欧資本主義国の全体としてのエ−トスを表現していたのである。そして彼らに対するハ−パ−マスを中心とした批判者たちは、逆にそうした戦後の風化を阻止しようとする、その意味では時代の変化に保守的に対峙していたのである。

それではまずこの歴史家論争の議論を要約しておこう。この論争の発端になった歴史家E.ノルテの議論は、歴史が現在の視点から解釈された事実評価であるとすれば、ナチの歴史も戦後40年の現在から再度見直されても良いのではないか。そしてそうだとすればナチ体制の成立はスタ−リン独裁の帰結であったという可能性や、ナチによるホロコ−ストは反ユダヤ主義から生じたというよりも、スタ−リンの大量粛清に対する不安から生まれた反動であり、その後もポル・ボトによる大量殺戮等で繰り返された後進的独裁国家における事件の一つに過ぎない、という主張も歴史的事実の検討の中から、タブ−にとらわれることなく検討されるべきである、というものである。

これに対し、ハ−パ−マスは、ますノルテを直接批判するのではなく、より学問的な実証歴史家であるヒルグル−パ−やヒルデブラントの作品を取り上げる。ハ−バ−マスによれば、ヒルグル−パ−は第二次大戦を取り上げた著作で、終戦直前、迫り来る野蛮な赤軍の脅威に直面したドイツ国防軍が、東部戦線においていかに悲劇的、英雄的に苦闘したか、そしてその反面でドイツのユダヤ人社会がヒトラ−の人種政策を受け如何に(「抹殺された」のではなく)「終焉」していったかを淡々と描いているが、これは「事実に対する道徳判断を下すことを歴史家の専門領域から除外し、ほとんと何も言ったことにもならない表現で普遍的な人類の次元へ押しやっている」ものである。更に同じ歴史家のヒルデブラントが、ノルテの著作を「第三帝国の歴史には独自のものはなく、その世界観と政体の殲滅能力を全体主義の歴史の中に歴史的に整理して組み入れたという功績をもつ」と評価していることを疑問視し、これらの修正主義者の議論は「伝統的なアイデンティティを国民の歴E史を軸として修復する」という意図的なもの−「代用宗教としての歴史意識」−であり、ナチの経験を唯一無二のものとして反省することによって戦後初めてドイツが獲得した西欧政治文化への開放を無にするものである、と論ずるのである。

言うまでもなく、こうした修正主義者の議論は現代史において特にイテオロギ−が政治で大きな機能を果たすことになったロシア革命以隆、反共理論の中で手を変え、品を変え登場するものである。まさに第二次大戦前の日独伊のファシズム国家は、ソ連社会主義の脅威を自国の全体主義化の最大の理由として利用したし、大戦後は冷戦の激化と共に社会主義の脅威は、米国におけるマッカ−シ−旋風のような国内清風運動をもたらしたのみならず、ペトナム戦争のような植民地解放運動への介入の口実に使われてきた。その意味で論証の巧拙の差はあるにしても、この種の議論は決して新しいものではない。他方、こうした修正主義者を批判したハ−パ−マスの論法も、歴史的には「社会主義を批判するものは全てファシストである」という教条左翼の政治的議論と論理的には同種のものであると言える。しかし、その歴史的に繰り返されてきた論争の現代版は、論争がアカデミズムとジャ−ナリズムの域を出なかったことから、政治党派のいすれかに組みするものではなかったと言える。

この当初の応酬に多くの言論人が参加し、時に感情的非難も含めた論争が展開された訳であるが、興味深いのはノルテに組みするグル−プの多くが、ハ−バ−マスの批判は彼らの作品で描かれている事実について何ら言及することなく行われている、という議論に依拠していることである。例えば終戦直前の東部戦線での国民軍の英雄的苦闘についての事実認識に誤りがあるのか。資料の読み込みやその解釈に甘さや間違いがあれば、その批判をプロとして甘受しよう。しかしその事実表現についての道徳的判断については返答に値しないと批判する。

しかし、ハ−パ−マスがあえて歴史家に問いただしたのは、まさにそうした歴史家の表現が負うべき社会的責任と歴史家個人のモラルであったのである。その意味でハ−パ−マスは門外漢として、終戦直前の国防軍の活動を記載した資料には興味がない。しかし、ナチと緊張関係を保持しながらも、基本的にはナチのお先棒を担いた国防軍の戦争責任を軽滅する議論を展開し、部分的ではあるが、その国防軍の活動を称賛する研究を行うよりも、ホロコ−ストの意味合いを謙虚に反省することの方が倫理的である、というのがハ−パ−マスの最終的な主張である。こう考えると、この歴史家論争に意味があったとすれは、それはまさに修正主義者が主張したような、戦後40年を経た時点でナチとホロコ−ストの意味を見直すという議論−それはそれまでは倫理的にタブ−であった−が、これほどまでに公共の場で公然と議論できる状態が80年代後半に訪れたということであり、それ故にハ−パ−マスら戦後の戦闘的民主主義者にとっては、この事態は、戦後初めてドイツが欧州に受け入れられるに至った原罪を再ぴ忘却し、悪しき「ドイツ問題」を再び呼ぴ覚ます危険を秘めたものに映ったのである。

ドイツの国民的観点から見れば、ドイツ国防軍の英雄的奮闘のみならす、戦後ドイツの難民の苦難は事実として、確かにそのとおりの点があるのは間違いない。それは、終戦直後の満洲残留者の味わった苦難とも、規模は異なるかもしれないが、性格は同じである。その際、双方の問題につき、攻撃者としてのスタ−りン・ソ連にその責任を課し、非難することは論理的には可能であるし、そのための事実収集を行うこともさして難しくないであろう。しかし、そうした議論を行うかどうかは個人の倫理的判断によって決定される。そして次にそうした議論が一般的社会意識の中で受け入れられるかどうかが問題となる。「アウシュビッツの嘘」が刑事罰を構成する80年代末のドイツで、歴史家たちがこうした議論を行うという倫理判断を行い、且つそれが一笑にふされるのではなくこれだけの論争になったこと自体、少なくとも戦後ドイツの倫理を作ってきた人間たちにとっては見過ごすことがでさないものであったことは疑いのないところである。それから10年、少なくともドイツ人一般の意識の中では、こうした論争があったこと自体が風化している印象があるが、ハ−バ−マスらが期待したドイツ人の倫理意識だけは、少なくとも着実に社会に根付いてきているように感ずるのは私だけであろうか。

読了:1996年8月11日