戦後ドイツを生きて
編・訳:三島憲一
ドイツ観念論から弁証法、そして唯物論から戦後の批判理論といった近代の思想的成果や、ワイマ−ルのモダニズムに結実した数々の芸術面でのアパンギャルド的運動は、戦後ドイツの歴史の中でも、社会現象に時として肯定的に、時として否定的に多くの影響を与えていった。そしてハ−パ−マスを始めとする所謂ドイツ戦後知識人の活動は、欧州の歴史と現実の複雑性を体現するドイツ民族が、哲学・思想・芸術で生み出してきた歴史的成果の延長線上に生じたものであった。しかし、彼らは日本の同様の人々と同様に、戦時体制に対する反省と戦後の新たな価値を擁護・発展させるべく多くの試練を経た後、冷戦後の国際関係の転換を前にして、彼ら自身の転換を迫られる状態になっている。この書物の編者は、かつてこの戦後ドイツ知識人の心象風景を刺激的な小冊子にまとめた(第二章第一節参照)が、この書物はその続編として、テレビの企画として行った取材を基に、現代のドイツ知識人の現状をインタビュ−形式でまとめたものである。ここまで紹介してさたハ−バ−マスの議論を思い浮かべつつも、彼とは立場を異にする人々の様々な論点も含め、現在のドイツの知的状況を知る上で非常に刺激的な書物であった。
インタピュ−に応じた知識人数は22人に及ぴ、論点も多岐にわたる。それらを一定の枠に押し込めるのは容易ではないが、頭の整理をする上で、まずこれらの人々の立場や主要な関心及び活動の場を基に範疇分けをしておこうと思う。
1、旧西独のリベラル派戦後知識人3人:マリオン・デ−ンホフ伯爵婦人(ツァイト紙発行人)、ジ−クフリ−ト・ウンゼルト(ズ−ルカンプ書店社長)及ぴヘルマン・グラ−ザ−(ドイツ工作連盟会長)。尚、産業人としての限界はあるものの、エックアルト・ロイタ−(ダイムラ−ベンツ社長)も戦後リベラル派の経営者であると言える。
2、歴史家論争を巡る論客達4人:まずハ−バ−マスを基本的に支持する左派3人、ヴォルフガング・モムゼン(歴史家)、イェ−リング・フェッチャ−(政治学者)、オスカ−・ネ−クト(社会学者)。他方ノルテを支持する新保守主義のミヒャェル・シュティルマ−(歴史家)。
3、68年世代の政治家/作家4人:オット−・シリ−(社会民主党議員)、ヨシュカ・フィッシャ−(ヘッセン環境大臣−その後、1998年より連邦外務大臣)、フリ−ドリッヒ・デリウス(作家・詩人)、ペ−タ−・シュナイダ−(作家)
4、47年グル−プの作家3人:マルティン・バルザ−(作家)、ギュンタ−・グラス(作家)、ハンス・マイヤ−(文芸評論家)
5、旧東独知識人4人:シュテファン・ハィム(作家)、シュテファン・ヘルムリ−ン(作家)、ユルゲン・クチンスキ−(経済学者)、ハイナ−・ミュ−ラ−(劇作家)
6、女性作家2人:エルフリ−デ・イェリネック(オ−ストリ−)及ぴクリスタ・ボルフ(旧東独)
7、その他:ヘルマン・ウェバ−(歴史家/旧東独の研究者)
もちろん、このインタピュ−リストが戦後ドイツあるいは現代ドイツの知識人の全体を捉えている訳ではないのを承知の上であえて言うと、このカテゴリ−分けから以下の知的状況が浮き上がってくる。ます戦後ドイツを担った反共リペラルとより急進的な47年グル−ブの作家たちは、現在に至るまでなおドイツの知的社会の重鎮である。そうした戦後知識人に対する批判として発生した60年代末の学生運動の中から巣立った人々は、68年世代として「制度の中の長征」を行うが、他方80年代の保守化の中で新たに盛り上がってきた、戦後の超克という新保守主義の埋念が、アカデミズムの世界で歴史家論争として示されることになった。
しかし、ドイツ統一はこうした旧西独的知識人運動に主題の転換をもたらした。今や主要テ−マは反ナチの民主国家ではなく、旧東独を統合した新たなドイツ国家とその欧州における位置の問題に移行しているのである。それは言葉を変えれば、オッシ−とウェッシ−の違和感、あるいは旧東独知識人のコンプレックスの問題であり、あるいはこうしてアイデンティティの統一性を欠いたまま、欧州統合の中核に立たざるを得ない国民の責務の問題になるのである。かつて戦後ドイツの知的運動が共通に持っていた理念は今や多極化あるいは分散し、他方で東西ドイツ知識人の精神的格差は依然開いたままになってしまっている。また時として勝利者である旧西独は、政治・経済のみならず、知的分野においてもある意味では構暴に振る舞い、他方旧東独側は劣等感からくる違和感を拡大させている。そうした中で、統一ドイツの知的課題はまだ明確にその形を示されていない。
それではこの書物に登場したドイツ知識人達は具体的にどのような考えを持っているのか。備忘録として抽出した各知識人の紹介と主要な発言等を先ほどのカテゴリ−毎に整理しておこう。
〈 旧西独のリペラル派戦後知識人;3人 〉
・マリオン・デ−ンホフ伯爵婦人(ツァイト紙発行人):東部からの引揚げ者・常識的リベラル、統一に当たってのシュミット発言(「今こそ首相はチャ−チルのように血と汗と涙の演説−耐久生活への協力依頼−をすべきだ」の評価。
・ジ−クフリ−ト・ウンゼルト(ズ−ルカンプ書店社長):ヘッセからの出発、「ナチスが排除しようとしたドイツ系ユダヤ知識人の刺激的思考力のアクチャリティ−でドイツ人の本棚を満たした」、常識的リベラル−ドイツの岩波文化。
・ヘルマン・グラ−ザ−(ドイツ工作連盟会長、ニュ−ルンベルグ市教育文化局長(64〜90):リベラル知識人地方官僚、学生運動との対峙とナチ歴史の保存(ユダヤ人ゲット−であった中央市場、旧A.ヒトラ−広場)、東独統合の性急さへの批判と統合の減速の勧め。左右両翼とのパランサ−的存在。
・エックアルト・ロイタ−(ダイムラ−ベンツ社長):リベラル経営者、シュミットの評価と68年運動への批判的視線、自然の重要性と「高コストの社会で、世界で競争に耐えうる製品につき構想する必要」−ハンス・ヨ−ナス(次世代への責任論)の評価。
〈 歴史家論争を巡る論客達:4人 〉
・ヴォルフガンク・モムゼン(歴史家):歴史家論争の左派からの目撃者。ハ−パ−マスによるノルテ等新保守主義者に対する批判の正当性を基本的には支持。但し憲法パトリオティズムというハ−パ−マスの概念については「ドイツ人の新しいナショナル・アイデンティティを作ろうとすることはむしろ危険」との立場。
・イェ−リング・フェッチャ−(政治学者):マルクス研究者、批判理論の評価。iファシズム的社会」という学生の概念の一面性。他方「テロリズムの原因はフランクフルト学派」(B.ヴュルッテンブルグ州首相フィルビンガ−)という保守の議論を批判−ドイツにおけるリベラリズムの発育不足。68年からの4つの道−@社民党への参加、A環境保護運勤、女性運動、B共産主義的政党の建設、Cテロリズム。
・オスカ−・ネ−クト(社会学者):ハ−パ−マスの助手。「実践に程遠い批判埋論がなぜ実際に効果を発揮したのか。」ハ−パ−マスと学生の対立。「テロリズムの危険への警告と学生運動を反抗的思春期の運動と心理学的に捉え、その政治的内容を無視。」ブラント時代の「過激派条例」は治安当局の権カを強め、知識人の政治からの断絶をもたらす。市民的民主主義は社会福祉国家を通し受容されたが、市民的かつ批判的な、そして政治的役割を果たす公共圏は常に脅かされた(シュピ−ゲル事件、1962年)。東独地域での移民排斥も、市民的な文明化を経なかった経験の爆発。東独が、ドイツにとって巨大な救貧院になる危険−ワイマ−ル崩壊の契機。「憲法パトリオティズム」は国民的基盤を欠いているが、観念としては依然重要。中心的問題は国家の統一ではなく、人権と正義の実現という要求、社会的・民主的な法治国家の擁護。
・ミヒャェル・シュティルマ−(歴史家):歴史家論争における新保守主義側の論客。「歴史家論争は、歴史家同士の論争ではなく、歴史家に対する非難。」「世界史の大きな転機の前のエピソ−ド。冷戦終結とドイツ統合により左派の影響カが弱くなっていることからの自信。ドイツ現代史、国連派遣軍等について、戦後の総決算を行いたいとの基本姿勢。
〈 68年世代の政治家/作家4人 〉
・オット−・シリ−(社会民主党議員):緑の党の歴史的背景としての急進民主主義とエコロジ−もしくは自然哲学的思潮(フィヒテ、シェリング、ノパ−リス)。「NATOの二重決議と平和運動が相互に補完しあい欧州における緊張緩和に貢献」=緑の党から社民党に鞍替えした彼の立場が、緑の党の主張の既住政党への吸収過程を象徴。
・ヨシュカ・フィッシャ−(ヘッセン州環境大臣):外人排斥問題を契機とする外国人流入問題というタブ−はずしへの批判。「フランクフルトは人口のl/4が外国人であるが、郡市の共同生活は機能。」「ドイツの緑の運動は基本的には自然への憧れ等のロマンチックな伝統的要素とは無縁の、大都会の住民の運動。」左翼ラディカリスムヘの決別。
・フリ−ドリッヒ・デリウス(作家・詩人):47年グル−プヘの共感。リッベントロッブの下の外務省で働いていた元ナチ、キ−ジンガ−と手を組んだ社民党への幻滅と過激派条例による決別。壁の解放による安堵感と統一のもたらす問題が次第にずらされてさたことに対する文学的批判。
・ペ−タ−・シュナイダ−(作家):マルク−ゼの抑圧的寛容、エロスの解放への共感と現在から見た批判。ハ−パ−マスの左翼ファシズム批判の受人れ。再統一は右翼の問題、という68年世代の見方への反省。ナショナルな感情を無視してきた左翼知識人への反省。「自分の民族の生み出した文化や歴史に対しポジティプな感情を持てなくては真のインタ−ナショナリズムも不可能。」歴史家論争の評価。外国人への暴力行為への闘い。移民法改正支持。
〈 47年グル−プの作家:3人 〉
・マルティン・バルザ−(作家):47年グル−プ(ハンス・ベルナ−・リヒタ−主導)。統一に際してのコ−ルの手腕評価と社民党批判。逃亡者が相次いでいる時に連合国家論を唱えることの非現実性。ベトナム反戦運動から憲法パトリオティズムの非現実性批判への転換。
・ギュンタ−・グラス(作家):ナチに破壊されたモダニズムの美的伝統の回復。ハイデガ−批判からの出発。地域主義者からナショナリストに変貌したパルザ−、急進主義からエレガントなヨ−ロッパ中心主義的シニシズムに帰着したエンツェンスベルガ−らへの批判−かつての急進左翼知識人の分裂。「ドイツの強さは統一の中にではなく、地方分権的な連合にある。ドイツの文化的な豊かさもその多様性にある。」ゴ−デスベルグ綱領=ペルンシュタイン修正主義の支持。右翼転向や非政治的シニシズムに陥った68年世代への批判。シュブリンガ−系新聞(右)と左翼テロヘの危惧。「外国人への暴力事件は、80年代の新保守主義的政策(社会のl/3が経済的悲惨に追い込まれる)の結果」というシャ−ピングの議論への支持。パクス・アメリカ−ナへの盲従ではない、人道的領域での貢献−戦勝国とは異なった発想の必要。「このままいけば、共産主義の崩壊は資本主義をも墓場に引きずり込み、残るはナショナリズムとアルカイックで残忍な部族本位的な行動様式やエゴイズムのみ。」 17世紀の30年戦争時以来のマイン川を境とする文化的相違に似て、東西の壁による境界線。特に今回は社会階層的格差は、統一政策の失敗により長期化する懸念。
・ハンス・マイヤ−(文芸評論家):哲学・国家論を経てドイツ文学・歴史へ到達。カ−ル・シュミット批判とケルゼンからの影響。社会研究所でのホルクハイマ−との共同研究。ピュヒ+(市民社会の限界を越えた思索)、ワグナ−(モデルネや近代芸術、近代社会の解体)、マン(ブルジョア的・民主的文学の最後の担い手)という3入に象徴される、ドイツ史の決定的な転換点の理解と分析。日本人であることに苦しんだ三島由紀夫への共感。「私たちの世代の人間は西側では、あるいは統一されたドイツではもはや望まれていない存在。現在必要なのはト−ク・ショウで面白いことを言うことであり、笑わせてくれる人間。ドイツ人とユダヤ人の文化的協力関係がどうして失敗したがの分析が次のテ−マ。
〈 旧東独知識人:4人 〉
・シュテファン・ハィム(作家):ドイツからアメリカに亡命した後、マッカ−シ−旋風から逃れ東独に帰還。アメリカの植民地(西独)ヘ戻ることの忌避。東独への幻滅と理想の保持。壁への個人的反応−@社会主義への幻滅、A大量脱出を阻止することにより、壁を不要とする社会体制の完成が可能になる、との期待。ベルリンの壁−「それに賛同しなかった人たちの間にさえ、何か決定的に重要なことをしなければ、この国(東独)は消滅してしまうことは明らかであった。そして私はこの国が消滅することには賛成ではありませんでした。89年にも私が望んでいたのは国家連合で、その後にドイツの将来にとって何が良いかが決定されるべき、と考えていた。」東独の存在が、西独に与えていた緊張感は今や失われ、「今選択肢はなくなり、彼らは労働者を好きなようにできます。」
・シュテファン・ヘルムリ−ン(作家):東独作家。スベイン内乱に義勇兵として参加した後、フランスを経てスイスで終戦を迎える。戦後の転換期は東独社会主義の可能性を信じ、アデナウア−の東独敵視を批判。壁は「反ファシズム防衛砦。」現在の視点から見れば、東独は全て悪。しかし、夫々の瞬間においては評価は異なっていた。確実に存在した社会主義の成果が今失われているとの論理。76年のピ−アマン市民権剥奪に際しての作家グル−ブによる政府批判を組織。
・ユルゲン・クチンスキ−(経済学者):如何に批判的ではあっても、社会主義政権の中で生き延ることにより、次善の貢献ができる、という弁解。政治化された状態での人間の厳しさ。
ハイナ−・ミュ−ラ−(劇作家):ブレヒトの後継者。ブレヒトにとっては東独は支持すべき挑戦、資本主義ドイツに対する別の選択肢、西独には再びファシズム的な構造が根づくのではないかという懸念を有した。壁の建設は賛成、これがどのくらい続くがは全く考えず。「ホ−ネッカ−は本人の能力では無理な課題を引さ受けた連中の一番良い例。」知識層に対する不信感−これは東西を問わず、政治的人間と知識人の対立構造である。「ヒトラ−的伝統は観客にも見てとれる。バイロイトの観客は確かに世界でもっとも反動的な観客です。
〈 女性作家2人 〉
・エルフリ−デ・イェリネック(作家):オストリア人。ハイデガ−の母性的思考、ドイツ的思考の暗さとアレントの政治的実存的思考、応用哲学の明晰な理性の思考の対比。環境運動の生物学的発想批判。マルクス主義とフェミニズムの結合志向。共産党からの転向、EU支持への転換。
・クリスタ・ボルフ(旧東独);東西ドイツの分裂の中での人間模様をテ−マにした小説。53年のポズナン暴動に対しては、国家への脅威と労働者の要求の正当性という引さ裂かれた感情を抱く。チェコ事件で希望が完全に潰され、以降西独をより多面的に眺められるように。ブラントヘの敬意。ドイツ人というのは、すぐにイメ−ジやイデ才ロギ−に逃げ込んで、現実を見ない傾向が。私が望むのはお互いに相手を追い込んで壁際で動けなくするのではなく、もっと冷静さを持つこと。
〈 その他 〉
・ヘルマン・ウェパ−(歴史家):東独の歴史記述に係わる調査委員会で活動。52年の党大会以降、東独の暗い時代が始まったとの評価。シュタ−ジはスタ−リン主義の影響。戦争直後は東独の反ファシズムは西独のそれよりも強かったが、その後変質し、ファシズム批判は政治的言辞となった。「東独に進歩的なものはなにもない。」
こうして仔細に現代ドイツの知識人の発言を見ていくと、既に要約的に論じた短期的課題の変貌がより一層明確になるように思える。戦後ドイツ知識人の最大の課題はナチの遺産との思想的対決であり、この非ナチ化と民主主義を保障するための思想的墓盤は何か、ということであった。そのために、リベラル派は合理主義の啓蒙に努め、47年グル−プは、ドイツ的伝統と人々の内面に潜むナチ的契機を文学的想像力で看破し、そして68年世代はその戦後リベラリズムが実は新たな権威主義と社会の固定化をもたらしていることを批判していったのである。しかし、ます旧西独高度福祉社会の完成と共に政治意識は後退していき、政治の表層ではそもそもの非ナチ化という戦後知識人の中心的テ−マが相対化されていく。1986年にハ−バ−マスにより切って落とされた歴史家論争はそうした戦後知識人の存立根拠を再度問い直すことを意図したものであったと言える。しかし、その後の冷戦の終結は、多くの論争を通じて築かれてきた戦後民主主義の論理を、ファッションとしては過去のものにしてしまった。更に1989年から90年に至る激動の中で、課題は既に完成されたと見倣される旧西独社会と、社会主義の下で後進国家に留まっていた旧東独社会を如何に統合するか、という課題が、それまでの多くの論点を凌駕していったのである。統一に当たりハ−パ−マスやグラス、あるいは東独民主派から提示された連合国家案は、戦後知識人の反省の中から見出されたひとつの論埋的帰結であったが、これが政治的に敗北したことから、統合ドイツの知的テ−マが拡散してしまったのである。
もちろん対外的には、ナチのもたらした大ドイツの脅威が、統一後再ぴ強まったことを考えれば、統一ドイツの最大の課題である「EUの枠組みを墓盤とするドイツの欧州化」というテ−マは依然最優先されるべきであるし、その思想的根拠を模索する営為は続けられていくであろう。
しかし、国内の状況を見るならば、政治的、経済的に劣後している東独は知的、文化的にも大きな劣等感を負ってしまったのは間違いない。このインタピュ−に応じた旧東独の知識人たちの多くが89年革命に当たっては民主派の中核であったが、統一後の旧西独のやり方に対するルサンチマンを持ち、旧東独時代の自分の対応と社会の成果を必死で弁護するのを読むと、対外的な展開を遂げる以前に、この知的レベルにおけるギャッブを解消しない限り、次ぎなる知的・思想的発展はないように思える。統一方法とその後の経済的、社会的混乱を批判するグラスでさえ、この新たな国内的断絶にどう対応すべきかという知的課題に明確な回答を与えてはいない。
しかし、そうは言いつつも、戦後自らに高度の節度を課しつつ、ドイツ的厳密さで非ナチ化を進めてさたドイツ知識人の知的営為が消滅した訳ではない。社会が問題を提示する時、政治、経済面のみならず、社会、文化的な面においてもそれに対峙していこうという動きが起こるものである。この書物は、その意味で、戦後ドィツの知識人運動の証言であると共に、将来に向けての営為の現在点を鮮明に指し示すものになっているのである。
読了:1996年5月18日