アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第六章 思想
ドイツ統一問題について
著者:G.グラス 
 ユダヤ人問題最終解決の悲惨な失敗という歴史の後に生まれた人間が、そのサブ.カルチャ−に対して如何に関わっていかざるを得なかったか。この一例を示しているのがグラスのこの講演集である。ベルリンの壁が崩壊し、西独コ−ル政権が統一に向かって突っ走っていた1989年12月、自らが党員である社会民主党の大会で行った「負担調整」というタイトルの短い講演を中心に、ドイツ統一問題に関係する講演を、古くは1960年代にまで遡り編集した講演集である。

 言うまでもなくドイツ再統一の週程で、グラスはそれに徹底的に反対する立場を取ったものの、マルクによる東独の買収というコ−ルの試みの前に、現実政治の中では敗北した。社会主義政権下での低い生活水準に癖々とし、西欧消費社会に強い羨望を抱いていた旧東独民衆は、グラスのみならず、市民フォ−ラムのように旧東独革命を中から押し進め、また続一についてグラスと同様慎重姿勢を貫いた知識人たちをも押し流していった。もちろん、政治的に見れば、民衆の熱狂が最高潮に達したこの時期に、米国、英国のみならず、ソ連、フランス、ポ−ランドといった、ドイツ統一に歴史的に強い懸念を有していた隣国をいっきに説得し統一を実現したコ−ルの手腕は高く評価される。しかし、考えようによっては、コ−ル/ゲンシャ−によるこの統一運動を支えたのは、実は政治的には敗北したグラスらの理念的な支援があったからではないかとも言える。何故ならば、近代史の過程で大ドイツの形成に強い懸念を表明していた諸国が、今回の統一に最終的に反対しなかった事実は、ドイツが戦後、戦争責任を如何に白覚し反省してさたか、そして再びそれを繰り返さないよう民衆レベルでの啓蒙に努めてさたか、そしてその努力が最終的にドイツ統一という決定的事態が発生した際に周辺諸国でも受け入れられるものになっていたことを物語っているからである。そうした環境が生まれる上で、グラスを始めとする戦後知識人や、ヴァイツゼッカ−を始めとする良心的故治家たちの果たした役割は強調しても余りあるものがあったのである。

 しかし実際にはこうしたグラスらの発言はドイツのサブ・カルチャ−からは時に無視され、またあからさまに非難・嘲笑された。冒頭、1990年2月の講演で彼は、ハンブルグの駅頭である若者に「売国奴」と罵られた経験を、「祖国を忘れたやから」というもう一つの
非難と合わせて反芻している。「資本主義者と社会主義者はいつも同じことを考えてきました。つまり第三の道を予め呪詛するのです。」繰り返される歴史、強大になったドイツは「いつか再び恐怖の的となり、孤立するでしょう。」そうした国家は彼にとっては何ら祖国と呼ぷに値しない、そしてすぐ裏切る祖国である。白分は喜んで「祖国を忘れたやから」となるであろう。何故なら「私の祖国はもっと多様で、多彩で、近所付き合いが良く、艱難によって腎くなり、ヨ−ロッパ並みに協調性に富んでいなければならない」からである。

 こうして次に収録されている表題の講演で、グラスは、旧東独の人間が舐めてきた辛酸を理解し、自らの負担によりその困難を支援すると共に、ドイツの戦争責任と隣国の配慮を踏まえ、東西両ドイツが「国家連合」という形で協調していくことを提案しているが、彼のこうした基本姿勢は壁崩壊から統一ヘの時期に突然出てきたものではない。既にここに収録されている1967年の「対話する複数」や1970年の「ドイツ−二つの国家−一つの国民」で明確に言われているとおり、むしろこうした信念は「47年グル−プ」として登場し、社会的に認知された時期から、この作家が一貫してドイツの再統一について取ってきた対応であったことが、この講演集からは読み取れるのてある。そして最後に収められている「アウシュビッツのあとで書くこと」で、アドルノの有名な表現を「厳しい定言的命令」として真摯に受け止めつつ、戦後ドイツの足取りを重ね合わせながら、自らの文学的足取りを総括することになるが、そこにおいても繰り返されるのは、アウシュビッツという文明の断絶をドイツ人の再統一願望に対する決定的なアンチテ−ゼにするという信念なのである。「気分から発し、世論操作によって推し進められたあらゆる傾向に反対し、西ドイツ経済の購買力に反対し、他の民族には丸ごと与えられて当然の民族自決権に反対するのは(中略)途方もないことが起こる前提の一つが(中略)強いドイツ、統一されたドイツだったからです。」

 知識人の役割が、有効性を諦めた上での、時としてピエロ的−ドン・キホ−テ的な異議申し立てにあるとすれば、グラスの戦後の歩みはまさしくそれであり、ドイツ統一の過程はその政治的有効性の欠如を如実に示すことになった。しかし、アウシュビッツに関わる講演で述べているように、彼が知識人の政治的有効性に関わるカミュ−サルトル論争で、シシュポスたらんとしたカミュの立場を選択したとすれば、それはグラスにとっては意識的な活動であり、且つその結果も覚悟の上でのものであったかもしれないのである。ドイツ統一の政治的議論に破れたドイツ戦後知識人の一般的な社会的影響力が低下していったのは、1990年代の保守化の流れの中、先進国一般の状況であった。しかしそうした時流に尚も孤独に抗するドン・キホ−テの役割が消えることはない。そして彼らの終わることのない警鐘は、今後欧州が通貨統合から政治統合、更には東欧、南欧地中海諸国も加えた拡大を行っていく週程で、欧州の複雑で悲惨な歴史を踏まえた社会的良心としてその存在価値を維待し続けることは間違いないのである。

読了:1997年12月19日