近代 未完のプロジェクト
著者:J.ハーバーマス
これも、20年程前、ロンドン勤務から帰ってきた時期に購入し、そのまま放っておいたハーバーマスの論集である。1980年9月、著者がフランクフルト市から、アドルノ賞を授与された際の記念講演である巻頭論文を始め、著者自身が「ジャーナリスティックな文章」とする論考を、訳者でもある三島憲一が、編集したもので、巻頭論文以外は1992年から1995年のドイツ統一が大きなうねりとなっていた時期のものである。その意味で、まさに私のドイツ滞在時に発表されたものが大部分で、私のHP上の「ドイツ読書日記」でも触れられている幾つかの課題が登場する。その意味で、自身のドイツ滞在時、あるいはそれから時間が経っていない時期に読んでいたら、もっと違った受け止め方ができたのであろうが、ドイツ統一が既に遥か昔の「歴史」となってしまった現在では、やや感覚的な古さを否定することはできない。また、いくつかの論文は、読んでいる途中で、「既知感」に襲われ、改めて確認してみると既に読んだ著者の別の単行本で、別訳が収録されていた(「二章・一種の損害補償」、「遅ればせの革命と左翼の見直しの必要」、「ドイツ・マルク・ナショナリズム」)。私の別の書評で、これらの論文には言及されているので、ここではそれ以外の論文で、且つ現在の諸問題との関連性があると思われる部分を中心にコメントしておきたい。
まずは、ここで収録されている論文では一番古い、1980年の巻頭論文。アドルノの解釈による「モデルネ」を敷衍しながら、ハーバーマスは、それは「時代精神がアクチャリティーへとたえざる内発的な自己革新をするさまを表現へと客観化するもの」であると規定する。即ち、それはどの時代においても、「モデルネ=現代的」な課題を嗅ぎ分け、それにチャレンジしていこうという革新的精神なのである。その意味では、「モデルネ」の内容は絶えず変わっていくが、そうした先進的態度は、どの時代にもあり得ることになる。実際、著者は、この概念が既にルネサンスから遡る中世ヨーロッパでも理解されていたことに言及している。
そうした自己規定から、モデルネ自身が、次の瞬間には克服されるべき神話となる。神話の無時間性は、「時間的連続性を打ち砕く瞬間の破局性へと変じる。」そしてアバンギャルド芸術に表明されている時間意識は「徹底徹尾、反歴史的であるわけではなく(中略)、ただ、偽りの規範性に対抗する」ものと捉えられるのである。
こうした「モデルネ」への批判として、著者は、D.ベルの議論を引用している。それは、「モデルネ」の「快楽主義的動機」が、「職業生活における規律正しさと折り合えず」、「経済と行政によって合理化された日常生活における約束事や道徳的価値への敵愾心を煽っている」という。規律や道徳的価値の尊重という観点で、「モデルネ」を批判するこうした議論を、ハーバーマスは「新保守主義者」と呼んでいるが、彼の見るところでは、こうした新保守主義者の不安は、「社会の近代化に対する反発」である。即ち、都市環境や自然環境の破壊といった経済成長からもたらされる歪についての異議申し立てが、「単なる合理性とは異なった基準、要するに対話的合理性の諸基準に依拠した生活領域に侵入してきている」ことに反発している。しかし、それは「問題を別の次元に移してしまっている」のである。
そうした「モデルネ」に対する批判に対し、ハーバーマスは、啓蒙の過程で、世界像が分化してきたことを指摘する。それは、@真理、A規範上の正当性、B純粋性もしくは美。それに対応する諸問題は、@認識の問題、A正義の問題、B趣味の問題。それが@科学(学問)、A道徳、B芸術という価値領域の分化をもたらす。それぞれの文化的行為システムは、@学問的論述、A道徳論上および法理論上の審理、B芸術生産および芸術批評としての専門家の仕事の制度化。それがもたらす知的集積は@認識的・道具的、A道徳的・実践的、B美的・表現的と分化することになる。そしてこの分化によって、@のレベルで「科学的批判が持つ啓蒙的な力」を重視することで、代償として、Aのレベルでの「道徳的懐疑主義」と、Bのレベルでの「無関心」を支払うことになってしまったと見るのである。ハーバーマスが擁護する「モデルネ」とは、謂わば、啓蒙の過程での、こうした「理性の分化」を、「日常の生活実感」の中から再度統合しようとする新たな試みと理解することができる。そのためには、「社会の近代化をもこれまでとは異なった、非資本主義的な方向へ導くことが必要であり、また、生活世界がそれ自身の中から経済的および行政行為システムの自己運動を制限しうる諸制度を生み出さねばならない」と主張するのである。
こうしたハーバーマスの進歩思想、それも進歩の逆説をも考慮した進歩思想が、その後の約40年でどう展開してきたかは議論の余地がある。それは欧州統合の進展と困難、その過程での民衆の意識変化、そして社会全般の保守化や民族主義化などの課題を抱える中で、表面的には弱体化しているように見える。しかし、そうした傾向が明らかである故に、この40年前のハーバーマスの提言は、依然終わることのない「モデルネ」の実験を促すという価値を持っているのであろう。
「核時代の市民的不服従」は、やはりドイツ統合前、1984年の論考である。当時ドイツでは、米国の中距離ミサイル配備が、大きな市民的反対運動を惹起させており、この論考は、そうした運動の正当化を試みたものである。どんなに整備された民主主義的法治国家であっても、憲法の普遍主義的な原則に照らした時に誤謬を犯すことがあり得ることから、それに対する不服従運動は、「道徳的な根拠を持ち」、「公共の場での行動」であり、「個々の法規に対する故意の違反を含んでいるが、法秩序全体に対する服従を破るものでなく」、そして「放棄に違反した場合の法的結果を引き受ける」ものであることを条件として容認されるべき、と論じている。そして、これによって「あちこちに出没して暴れ回る少数の煽動家グループの不法行為と、道徳的根拠をもった市民的不服従に根ざす行動」が区別されることから、両者を一義的に犯罪者として取り扱う「権威主義的リーガリズム」を批判するのである。
民主主義国家における「多数決原理」の問題点など、現在でもまだ度々議論になる論点が含まれている論考ではあるが、直接的な不服従型市民運動が沈静化している現代から見ると、やはり80年代という時代を反映した部分も多いことは否定できないだろう。
その他の、以前に読んでいない論考は、90年代、ドイツ統一がなされた後の諸問題―旧東独のシュタージ文書とそこで明らかにされた個人の行動を含む、旧東独関係者の責任論や移民排斥運動批判に対する反批判等々―で、私のドイツ滞在時代に発表されたものである。その中でも、特に感慨深いのは、1992年11月の、「水晶の夜」記念式典でのある講演に対する批判の嵐について論じた「ドイツは普通の国家になったのか」という論考である。
この哲学者M.フランクによる講演が行われたのはフランクフルトのレーマー広場であり、当時の移民排斥を、ナチのユダヤ人狩りと並べて批判したこの講演が、ドイツを卑下したということで、激しい批判を巻き起こしたという。ハーバーマスはこの感情的批判について、「この共和国の最もリベラルな都市の一つであるフランクフルトにおいてすら雰囲気が逆転している」として、移民に対するロストック等でのテロ行為に、政府として何らの批判声明も出さなかったこととの比較等で、ドイツの変化を憂慮している。そしてその議論の延長で、最後の「ヨーロッパ要塞と新しいドイツ」では、憲法で保障されている「庇護権」を制約しようという議論にも反対の立場をとるのである。
庇護権については、結局憲法改正により制約が加えられ、その結果として、一時的に移民の流れが止まり、右翼の運動も下火になったことは記憶しているが、前者の講演で、当時私が生活していた町で、市長の責任まで問うような大議論が起こっていた、ということは、今回初めて知ることになった。恐らく私自身の到着後1年が過ぎたところで、現地情報も必ずしもフォローできておらず、更に仕事も急激に増えていた時期のことでもあったからだろうが、それでもそうした状況を同時代的に認識できていなかったことは個人的には衝撃であった。
それは別にしても、私が個人的に体験した当時のドイツの状況が、それから約20年を経て大きく変わってしまったことは度々述べているとおりである。その後の社会民主党政権で、統一後一時懸念されたドイツの独善化には歯止めがかかり、その後復活したキリスト教民主同盟政権でも、党内リベラルのメルケルが領袖となり、むしろ最近の移民問題では、そのリベラルな姿勢ゆえに批判されるということになっている。
結果的に、現在の欧州は、統一ドイツをその牽引車として統合が進む中、南欧債務危機と中東・アフリカからの移民問題、そしてここ1年は英国のEU脱退といった問題を巡り議論が繰り返されてきた。その中で、80年代から90年代に展開された彼のジャナリスティックな論考は、現在的な価値は低くなっている。ハーバーマスの最新の議論は、2011年11月に読んだ「ああ、ヨーロッパ」所収のものが最後であるが、ここでは、著者が引続き「欧州のドイツ化」を懸念しながら、欧州統合の進化と、そのベースでの「公共圏」の拡大を期待していた。その後、欧州統合の益々の求心力が低下する中で、今年(2018年)6月に89歳となったこのドイツ知性の大御所が、依然として時代に即応した発言ができるのかどうかが、彼を追いかけてきた者が期待している感慨である。
読了:2018年8月12日