アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第六章 思想
ハンナ・アーレント
著者:矢野久美子 
 ハンナ・アーレントについては、激動の戦中・戦後を生き、若き頃にはハイデガーと恋愛関係にあったり、また戦後は米国に移住し、「全体主義の起源」や「人間の条件」等の大作を執筆したことは、学生時代から知っていたが、当時あえて彼女の作品を読もうという気持ちにならないまま現在まできてしまった(別掲のとおり、アーレントとハイデガーの間に交わされた書簡をまとめた作品だけ唯一読んでいるが・・)。その彼女を扱った新書をブックオフで見つけ読み始めたのは、最近見たアイヒマンに関する映像を観たことが大きな理由である。その裁判を細かく分析した彼女による報告「イスラエルのアイヒマン」が、「ユダヤ人大量虐殺の実行者が、あくまでも何でもない、ただの平平凡凡とした小市民であった」という結論を提示したのは、これまた学生時代から知っていたが、当時原本を読むことはなく、それ以上に突っ込んで調べようという気にもならなかった。しかし、アイヒマン裁判の映像を観た後、彼女の分析をもう少し細かく知っておいて良いのかな、と感じたのである。しかし、このアーレントの報告が、当時のユダヤ人社会に大きな論争を引き起こしたということは今回初めて知ることになった。ここではこの論争を中心に、アーレントの生涯と思索の推移を簡単にまとめておこう。本書は2014年3月の出版で、著者は1964年生まれ、出版時点でフェリス女学院大学の教授である。あとがきによると、1995年にケルンに留学していたということなので、私のドイツ滞在と重なっている。当時ドイツのライン沿い辺りででも、知らずに遭遇したことがあったかもしれない。

 著者は、1906年のアーレントの生い立ち(ハノーファの中流ユダヤ人家族)から、彼女が7歳の時の父親の死とケーニヒスベルグへの移住、そしてそこで母と親戚の支援で、その地のドイツ・ユダヤ啓蒙主義の影響を強く受けて育つことになったことから始める。そして第一次大戦の勃発と共にロシア軍の進出を避けてベルリンに移り(母は再婚)、戦後そこで大学入学資格を取り1924年秋にマールブルグ大学に入学する。そこで、当時大きなカリスマとして評価を上げていたハイデガーと知り合い、彼の愛人となったことはよく知られている。因みに、当時のハイデガーの学生にはガダマーやレーヴィットがいた、ということなので、この知的サークルの戦後への影響は大きかったが、アーレントもその一人となったのである。しかも、それはハイデガーからの強い恋愛感情に支えられたていた。しかし、その不倫関係にも疲れたのであろう、彼女は1926年にハイデルベルグ大学に移りヤスパースに師事することになるが、彼はその後終生、アーレントの良き師であり続けることになる。またハイデルベルグでは、父親の友人でシオニスト運動指導者のクルト・ブルーメンフェルトとの再会があり、彼はその後、アーレントにとって「父親」のような存在になったという。

 アーレントの最初の結婚(1929年)とフランクフルト(ここで、マンハイムやティリッヒの講義に参加)、そしてベルリンへの移動、博士論文の準備・提出等々。しかしナチスの勢力が拡大する中、1933年、シオニストの非合法運動に関わって、一度官憲に拘束された彼女は、共産党活動を行っていた夫を追って、母を連れてフランスに亡命することになる。苦難の時代の始まりである。ここでは彼女は引続きシオニスト関係の仕事をするが、同時にユダヤ人亡命者達とも親交を深めることになる。その中では特にベンヤミンとの交友が特筆され、彼のスペイン国境越境失敗による自殺は、彼女に大きな失望をもたらすと共に、その後の彼に関する著作となっていく(米国亡命後、ベンヤミンに託された「歴史哲学テーゼ」の原稿をアドルノに届けたという)。また、この本では明確に書かれていないが、その頃最初の夫と別れ、2番目の夫となり、終生連れ添うことになるブリュッヒャーを知合い結婚することになる。彼女のフランス時代は、ナチスのフランス侵攻で終わり、1941年、彼女は夫と共に米国に亡命、その後米国国籍を取得し、ドイツに(仕事等の短期滞在を除き)戻ることはなかった。

 米国移住後、彼女たちの生活は相変わらず厳しかったようであるが、亡命ユダヤ人の雑誌等への寄稿を通じ、論客としての彼女の評判が広がっていくことになる。アドルノやホルクハイマーのように、大学で教鞭をとりながら執筆活動を続けた亡命者たちと異なり、彼女はあくまで一市井人としてその言論を磨いていったというのは素晴らしい。そしてそれが「全体主義の起源」や「人間の条件」等、その後の彼女の大作に結実していくことになるが、そのあたりについての著者の解説、あるいはヤスパースやハイデガーとの再会、更には米国でのマッカーシーによる赤狩りへの対応といった出来事は省いて、私がそもそもこの新書を手に取った理由であるアイヒマン裁判を巡る彼女の対応に移ることにする。

 冒頭に記したとおり、アイヒマン裁判についての彼女の有名なコメントは、この世紀の大犯罪の主犯の一人がただの小市民であった、というものであるのは知っていたが、それが特にユダヤ人社会からの彼女に対する激しい批判となり、彼女も多くのユダヤ系の友人を失うことになった、というのは初めて知ることになった。

 その理由は、上記のコメントに加え、アーレントが、一見公平に見えるこの裁判の背後に、当時のイスラエル首相ペン・グリオンらにより、この裁判を「反ユダヤ主義の歴史」や「ユダヤ人の苦難の巨大なパノラマ」を「見世物」として示す目的が隠されていたと論じたこと、そしてユダヤ人大量虐殺に、ユダヤ人組織の協力があったと指摘したことであったという。この辺りは、彼女が、ユダヤ人としての自分の体験を肌身に染みて感じていながらも、それをシオニズムという形でのある種の「排外主義」に陥ることなく、あくまで広義の「人権」という観点から、この裁判を含めた多くの事象を捉えていたことを物語っているのだろう。ただ、戦後米国の黒人公民権運動に関し、公立校の無理な黒人への解放が、社会的な対立とそれに巻き込まれた黒人の子供たちに大きな傷を残すという理由から批判的であった(彼女の議論は、「差別を社会的な領域にとどめ」「差別が破壊的な力を発揮する政治的な領域や個人的な領域に入り込まないようにする」べき、というもの)というが、それは時代的な背景はあるにしても、やや疑問である。ただこの「アイヒマン論争」以降も彼女は、大学やテレビ・ラジオでの講演などの活動は続けることになった。広がり始めた学生運動にもそれなりに共感を示した対応を行いながら、1975年享年69歳で心臓麻痺により逝去することになる。

 このユダヤ人にしてナチス体制からのドイツ人亡命者である政治哲学者については、フランクフルト学派の人々らと戦中の苦難と戦後の知的活動という同じ軌跡を描いている割には、何度も繰り返すが、私自身はその原典にあたることなく、今まで過ごしてきた。確かに、その考え方は独特であり、単純な「政治思想」の枠に収まるものではないことも、その理由の一つであったように思われる。今回のこの新書で、彼女の戦後思想における大まかな位置付けは認識できたので、あえて彼女の原典に挑戦する必要はないが、これを機会にかつて傾倒し、彼女自身も多くの接点があったフランクフルト学派の議論を改めて整理してみる価値はあるかなと感じている。彼ら、彼女らが経験した、絶滅収容所を含めた当時の全体主義体制とは異なるものの、IT技術等の発達による、新たな特徴を持った権威主義的体制の中で、あるいはそうした国に囲まれながら生きる我々にとっては、アーレントが提起した国家―社会―個人の関係性という課題は、依然考える価値のあるものであると思う。そうした課題を改めて認識することができた新書であった。

読了:2021年6月10日