アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第六章 思想
全体主義の克服
著者:M.ガブリエル / 中島隆博 
 ハーバーマス以降のドイツ哲学については、ほとんど触れることなく過ごしてきたが、偶々ブックオフの立ち読みで、そのハーバーマスを批判しているくだりを見つけたことから読み始めることになった。1980年生まれのボン大学教授のドイツ人哲学者と、1964年生まれの東大在籍の中国哲学の日本人専門家が、そのハーバーマス批判を含め、哲学者の現代における課題等について対談形式で議論を進めている。

 前者は、シェリングに関する論文で博士号を取得した哲学者で、その後もアドルノとシェリングの関係につき論じたり、デリダを始めとする脱構築関係の哲学を追いかけているようで、また後者は「老子」を始めとする中国古典を皮切りに、それに関連した中国哲学を原点に、世界哲学との関連を研究してきているようである。両名とも私は、今までは全く触れたことのない人物であったことから、ある種の期待感があったが、正直、彼らの議論の多くには付いていけないことを痛感することになった。

 まずハーバーマスに対するガブリエルの評価について触れておく。まず感じるのは、ハーバーマスが、戦後ドイツ哲学界である種の権威となっており、ガブリエルはその権威に批判的に向き合うことから出発したという点である。アドルノやホルクハイマーらフランクフルト学派の第一世代は、ハーバーマスに警戒感を抱いており、彼のフランクフルト大学での教授資格取得を妨害したという。それに対し、アドルノやホルクハイマーらに批判的であったガダマーがハーバーマスの支援に回り、彼のハイデルベルグ大学からフランクフルト大学への移籍により、フランクフルト学派を「乗っ取る」ことに成功したという。そしてハーバーマス自身も、「近代の哲学的ディスクルス」(1985年刊)の中で、デリダやアドルノの「西欧的な理性批判」につき、全体主義的であり、「死せる文学」と酷評しているのみならず、両名がユダヤ人だと「露悪的に名指し」したという。

 これは私にとっては驚くべき指摘である。対談者の中島も、後年のハーバーマスとデリダのイラク戦争を契機とする共同作業に言及し、ガブリエルのこの見方に突っ込みを入れているが、ガブリエルは「コミュニケーション的理性」と「戦略的理性」という区分も、ハーバーマスの「戦略」であり、それを修正したのが2001年のデリダ共同作業であったとする。しかし、ハーバーマスのハイデガー批判にもかかわらず、デリダとアドルノに対する彼の批判の根底には、ハイデガーと同様の「ユダヤ神秘主義」への恐怖と、全体主義の起源に「ユダヤ的思考」があるという見方があった、というのである。

 確かに、ハーバーマスにはユダヤの血統がなく、その点ではフランクフルト学派の第一世代とは異なる部分があることは確かであるが、それをもって彼を「反ユダヤ主義者」だということには無理がある。ガブリエルが指摘する「近代の哲学的ディスクルス」の該当部分は改めて見てみたいが、この議論は、むしろ戦後のドイツ哲学界で「権威」となっているハーバーマスに対抗しようという著者の「戦略」があるのではないか、という気がする。別に、ガブリエルは、ハーバーマスが人間工学者として「バイオテクノロジーには倫理規定が必要」と論じたペーター・スローターダイクを「バイオテクノロジーを使って人類を完全にしようとする全体主義者」と批判し、それに対しスローターダイクが「批判理論は死んだ」と反論した論争にも触れている。しかし、これについては、そのスローターダイクの学生の一人がハイデガーを研究し、「ドイツのための選択肢(AfD)」の国会議員となり、且つ党のイデオローグとなっていることも勘案すると、ハーバーマスの批判の方に理があるように思えるのである。

 この議論を除くと、それ以外の部分は余り記載する必要はない。現代の経済戦争の激化と人種差別やナショナリズムの広がり、あるいは気候変動等についての哲学者の役割についても、そして「科学と技術によって現代世界のあらゆる問題を解決できるという誤った信念」への批判も、もちろん異論はないが、さして大きな付加価値はない。しかし、そもそも理解が難しいシェリング哲学をベースにしたガブリエルの「新実在論」や、中国古代(三世紀)の思想家、王弼(おうひつ)の「老子」読解を、シェリングと関係付けようとする中島の議論も、ほとんど付いていくことはできない。もちろん、現代に忍び寄る全体主義の脅威に対応するために、東西の哲学的遺産を再解釈する試みや、それを通じて日中欧の学問的連携を行おうとする著者らの努力には敬意を表するが、それ以上にむしろ現代において、こうした議論を専門的に行っている人々がいること自体に大きな驚きを感じた新書であった。

読了:2021年10月10日