資本の亡霊
著者:ヨーゼフ・フォーグル
旧友の研究者が翻訳し、彼から寄贈頂いた叢書・ウニベルシタスの思想書。そもそもこのシリーズは重たい著作が多く、学生時代にもベンヤミンの作品など若干を読んだくらいで、少なくとも就職後は全く手に取ることがなかった。今回寄贈頂いたことから読み始めたものの、正直相当難儀しながら読み進めることになった。著者は、1957年生まれのドイツ人で、「知の歴史と理論、金融・権力・リスクの現代史、ディスクールとメディア理論、18世紀から20世紀の文学史」(「訳者あとがき」より)等、幅広い人文科学研究で知られているとのこと。ある意味、私や訳者と同世代のドイツ人思想家といえ、そうした同世代が何を考えているか、そして、ハーバーマス等フランクフルト学派の第二世代が老齢化して以降余り聞こえてこないドイツでの社会哲学の現在を知るという点で大いに関心があった。更に主題は資本主義論であるが、その中でも特に金融に焦点を当てているので、その点でも私自身の現役時代の仕事との関連も強い。原著の出版は2010年、邦訳の出版は2018年12月である。
冒頭、ドン・デリーロという作家による「コスモポリス」という小説が紹介されている。ニューヨーク同時多発テロ直前のアメリカを舞台にしたこの小説は、若い投資銀行家の運命を描いているようであるが、街ではテロが頻繁に発生し、彼もそのターゲットになっているようである。そして電子証券取引所の設立やコンピュータ取引、ISDNの導入といった現代の金融取引の新たなテクノロジーが紹介された後、その主人公は、バブル的な生活を送ったあげく最後は円のキャリートレードに失敗し、自らを葬ることになる。同時に「この投機の失敗によってシステム自体が不安定化し、突発的にグローバルな危機的状況が生まれ」ている。この世界ではよくある話であるが、著者は、その小説に「現代資本主義の運命の働きを問い直す機会が提供されている」として、「効率的市場仮説」や「テクニカル分析」等を基盤とする現代経済学(あるいは金融論)の批判を始めることになる。
こうして「理性と無分別、混沌と秩序、予測可能な世界とむき出しの偶然性」が混在するこの世界の解釈に、古典的な「自由主義経済」への信仰(=「神義論」)があるとして、欧州キリスト教の古典世界に議論が展開されることになる。そして「オイコディツェー」という彼の造語が提示されるが、これは古代のプラトン、アリストテレスから中世のアクィナスらスコラ派等を経て、現代のカントなどのドイツ哲学に引き継がれ常に問われてきた、「この世における悪の存在を、何故神は認められるのか」という弁神論を、この現代金融の世界に即して改めて提示することになるのである。
著者は、アダム・スミスの「神の見えざる手」から、ミルトン・フリードマンの「自由で、開かれたフェアな市場」に至るまで、その世界に参加する個人個人は利益を求めるための勝手な行動を行うが、それが結果的には「均衡」をもたらすという近代政治経済学の基本理念を復習するが、それはまさにそうした個々の「悪」が結果的には「善」に帰結するという弁神論の伝統上にあると見るのである。オプションや先物といったデリバティブの開発により、金融市場での取引高は天文学的な数字にまで膨れているが、それもこうした原則を排するものではない。そしてブラック・ショールズ・モデルといったオプション取引理論の根底にも、まさに取引量が膨れても、市場の均衡は最終的に、理論的に予想される水準に帰結するという「弁神論=楽観主義」にあると考えるのである。しかし、実体経済は、現代においても、1980年代末期の金融バブルや2000年初めのITバブル崩壊、あるいは2008年からのリーマン・ショックなどの大規模な危機を繰り返している。そうした事実は、実は自由主義的資本主義の「均衡」が「亡霊=幻想」であったことを物語っているのではないか?そしてそうした危機は、「金融経済本来の実体性が、生産の実体性から分離した」ことが要因であり、その金融経済の膨張に対する「歯止め」が効いていないことが、従来の「弁神論」的金融・経済理論の破綻であると考えることになるのである。
著者はもちろんこうした危機に対する体制側からの反応として、国家による介入的な金融政策を推奨するケイイズ派の議論等を取上げているが、彼らの考え方を「聖書外的な匂いがする」としているのは面白い。しかし、その後も不動産や債務の証券化といった新手法によるリスクの不透明化と分散は拡大し、それに伴い流動性の膨張とリスクの巨大化は続く。それはもはやケインズ主義者が主張するような「国家介入」をもってしてもコントロールできる限界を超えている。こうして今や「オイコディツェー」(=弁神論的均衡)は終焉を迎えることになる。次なる戦略は、経済学を「古い神の摂理へと傾いていく傾向から解き放ち、開かれた歴史の領域へと引き戻す」ことである。「その結果、経済活動は、もはや均質的な秩序のシステムとしてではなく、多様な文化的テクノロジーの複合体として出現」し、「そこでは、これらのテクノロジーを用いて不確実性を制御し、危険を先取りし、コミュニケーションを組織し、人びとと物品との関係を解明し、権力の持っている利点や利益の見通しを確保する」ことしかない。何故ならば、今や「古い統治権のなかにあった気まぐれや危険性が資本とともに舞い戻って」きて「不確かさが秘儀となった」のだから。
著者の結論は何なのか?私の理解を一言で述べると、現代の金融資本主義には「予定調和」はなく、断続的に宿命的に訪れる金融危機に際しては社会的知を総動員して対応するしか道はない、ということであろう。しかし、それはある意味あたりまえのことである。それだけを示すために、古典哲学から人類学、生理学、物理学などの議論を援用しながら、これだけ難解な議論を展開してきたというのも、やや納得できない。しかしもう一つ言えるのは、彼の議論の目的は、現代の金融経済論が、西欧社会の伝統であった弁神論の世界から抜け出していないことを繰り返し示し、今やそうした伝統的思考様式を捨てなければならない、という点にあるようにも思われる。そしてそれは友人の訳者が後書でも書いているように、日本でも平田篤胤の復古神道等の中にも見られる発想であるということになるが、一般的に言えば、日本ではこうした「弁神論=予定調和」的発想は弱いと思うし、個人的に言えば、そうした思いは全くない。
こうした金融市場に度々発生している最近の危機は、私の人生でも公私にわたり大きな影響を及ぼしてきた。公的な面では、特に金融機関での運用業務に携わる中で、特に2008年のリーマン・ショックは、赴任地シンガポールで、東南アジアの顧客に日本株を中心とした投資勧誘を進めようとしていた矢先に発生し、結局その影響から成果を出せないまま終わったことが大きな悔いであった。そして私的には、まさに1990年代初めの日本のバブルのピークで大枚をはたいて購入した住宅用土地が、その後のバブル崩壊で暴落し、大損を出したこと等が残念な記憶である。その様に、公私共に市場の変動に悩まされてきた経験から感じたのは、どのような精緻な分析や理論も、市場の予測を正確に当てることは出来ないという諦観である。そして経済・金融のみならず、政治・社会を含めた人文科学の分野においては、どんな精密な理論でもそれを行うことは出来ない。この本の中でも取り上げられているが、政治・経済・社会の分野では、予測やある行動をとることで、そのインパクトが自己実現的に現れるケースもあれば、自殺的に現れることもあり、それがどう現れるかについては更に二次的・三次的な要因分析が必要になる。それを納得ある形で提示できる議論は金輪際現れることはないであろう。そしてバブルの発生・破裂は、これからも一定間隔で、且つ取引額の増加で益々大きなインパクトをもって現れるであろうことは間違いない。しかし、それを防ぐためにあえて「不可知論」を持ち出す必要もないだろう、というのが個人的な感想である。そしてその点で、ハーバーマス等フランクフルト学派の第二世代に続くドイツ社会哲学の新しい地平を期待した私の想いは、残念ながら十分に満たされることにはならなかったのであった。
それは別にしても、古典哲学から、政治・経済理論、あるいは物理・化学・生物学等幅広い分野に跨るこの難解な著作を訳出し、また夫々の専門用語について詳細な注を加えた訳者の尽力には深い敬意を払いたい。消費税も併せると5,000円近いこの著作を寄贈頂いたことのお礼はきちんとさせて頂きたいと考えている。
読了:2024年10月12日