知識人の黄昏
著者:ヴォルフガング・シヴェルブシュ
1920年代中心のフランクフルトのユダヤ人文化についての断片集である。著者は、ベルリン生まれのドイツ人で、1973年以降は、ニューヨークを根拠に多彩なテーマで活躍した著述家とのことであるが、やはりドイツに関する作品が多いようである。この著作では、結構マニアックな資料を参照しながら、「ユダヤ人の町」フランクフルトで特徴的であった知的活動、なかんずくフランクフルト学派として世に知られることになる一連の知識人らの活動と、それがナチスの政権獲得で崩壊していく姿を描いている。著者が特に仕掛けとして関心を持つのはフランクフルトに1920年代に建設された2つのビルである。一つは西部地区のヴィクトリア小路とボッケンハイム大通りの交差点に新即物様式で建てられた社会研究所のビル、そしてもう一つは北西部のロスチャイルド家所有地のグリューネブルク公園の中に建てられたイーゲーファルベンの巨大なビルである。この2つの建物は、ナチスによる支配から戦争、そして終戦までの過程で、ビルそのもののみならず、そこに入っていた組織がまさに対照的な運命を辿るのであるが、同時にその2つの組織は20年代において相互に関連していた節があるのである。この通奏低音の下、著者は、6つのテーマを取り上げる。それらは、まずフランクフルト大学での知識人の活動状況、そしてユダヤ人覚醒の動きとしての自由ユダヤ学園という学校の設立と運営、新たな文化としての新聞とラジオの展開、フロイドのゲーテ賞受賞の裏話、そして社会研究所の最期というものである。以下、夫々のポイントにつきコメントしておく。
1930年フランクフルト大学は、カール・マンハイムを社会学の講座に、マックス・ホルクハイマーを社会哲学の講座に招聘するが、これは社会学の領域でフランクフルトがドイツの中心となったことを象徴していた。もちろん、現実には、彼らのような「イデオロギー批判・革新派」と彼らと対立したゲオルゲの「神話」の影響を受けた学者は双方ともまだ少数であり、フランクフルト大学においても中間派が圧倒的に多数派であったという。しかし、それでもこの大学がそもそも市民の寄付で設立されたという経緯、特に「社会参加していくブルジョア博愛主義者」の寄付が大きかったが、それは「ドイツでよりもアングルサクソン圏でお目にかかることのできるもの」であったという。この結果、この大学は公共性を常に意識する伝統があり、こうした自由主義的な伝統が、左右両派の健全な両立を許容したと著者は考えるのである。1923年に社会研究所を創設した穀物商人H.ヴァイルとその息子のフェリックスもそうしたブルジョア博愛主義者であったし、もう一つの重要な組織であるレオ・フロベニウスが設立し1925年にフランクフルトに移転したアフリカ研究を中心とする文化人類学研究機関である「文化形態学研究所」もこうした伝統の所産であったと言う。後者の研究所からは、サンゴールの「ネグリチュード」といった重要な概念が提示されることになるが、皮肉なことにこの考え方は後年60年代末の学生運動の中で「帝国主義の太鼓持ち」として批判されたとのことである。しかし、いずれにしろ著者は、大学と連携したこの2つの重要な研究所の実質的な主催者・サポーターであったヴァイルとフロベニウスという個性的な生き方と広範な知識、そして公共性への奉仕という強い意欲を持っていた人間の存在とそれを促したフランクフルトという都市の親和力が、こうした20年代の重要な知的成果の背景にあったと結論付けるのである。
こうしたこの都市の知的発展の基層にあったのは、この都市の「ユダヤ文化」であったという。こうして次に語られるのは、20年代フランクフルトでのユダヤ性の覚醒を象徴する自由ユダヤ学園の創設と終焉の顛末である。
フランクフルトのユダヤ教徒数はベルリンに次いでドイツで二番目に多く、第一次大戦後で約三万人、全人口の六%を占めていたが、これはあくまで東方ユダヤ人を除いた数字であった。そして19世紀以降、ドイツ社会に同化する傾向のあった西方ユダヤ人にとっても、次第に東方ユダヤ文化が大きくクローズアップされるようになった。20世紀初頭、フランクフルト在住のひとりの保守的なラビ、N.A.ノーベルが、「キリスト教への同化をはたしたリベラルな親の世代に反逆する」年代に達した若者の心を捉えたという。ノーベルを慕ったその若者の中にいたのが、Z.クラカウアー、E.フロム、L.レーベンタールら、後にドイツ思想界に大きな影響を与える人びとであり、また大学で歴史や哲学を学んでいたフランツ・ローゼンツヴァイクもそのひとりであった。そしてローゼンツヴァイクは、「大学教員資格取得を勧めるマイネッケの提案を拒否」し「自らの《ユダヤらしさ》」を天職とするべく、1920年フランクフルトに設立されたユダヤ人の成人教育施設である「自由ユダヤ学園」の校長となり、終世この職に留まるのである。ローゼンツヴァイクが「午前中は東方で学び、午後は西方で教える」と語ったとおり、この学校での講義は東方ユダヤ主義的色彩の強いものであり、先に触れたノーベルの弟子たちに加え、M.ブーバーなども講義を行ったという。
著者は、この学園での知的出会いは、結局のところ「教養あるディレッタントによるロータリー運動」に近いものであったとしているが、それでもこの「学園の構想はローゼンツヴァイクの死を超えて影響力を保持した」としている。そこではかつては「厭うべきものとしていた貧民の雰囲気」が漂うユダヤ性ではなく、「再び貴族的なもの、大胆なもの、高慢なもの、生き生きしたもの、より確実なもの」としてのユダヤ性が賞揚されたのである。こうしてこの学園はナチスの政権獲得後、日増しに公の精神的・文化的生活の場から締め出されたユダヤ人の最後の「生残りの中心地」となったのである。しかし、1938年末、あの「水晶の夜」の後、この学園はついに封鎖されたという。
続いてのテーマは新聞とラジオである。まず新聞。1929年4月、リベラルなブルジョア日刊紙としての評価を築いていたフランクフルト新聞が、「イーゲーファルベンに関連した買収の対象となっていることはない」という声明を発表したが、著者は、これは逆に「大産業の関心が実際に独立ジャーナリズムの稜堡をも制圧していたのではないか」という仮説を設定し、この新聞の20年代の活動と、そしてフランクフルトでの「大資本」との関係につき考察していく。
ゾンネンマン=ジーモン一族の同属経営であったこの新聞は、特に1914年以降指揮を取ったジーモン兄弟(音楽や文学に造詣が深かったという)の下で、リベラルな新聞として「どのような世界観や意見にも発言の余地を与える」ことになった。その結果、例えば文芸批評欄では、L.ゲックやB.ティボルトといった伝統的な「軽い読み物中心」の評を書く人々がいる対極で、Z.クラカウアーの社会学的映画批評やW.ベンヤミンのエッセーや書評のように「低級」文化を素材にした新たな思索にも扉を開くことになった。またJ.ロートらが執筆した「文学とジャーナリズムの混淆形態」であるルポルタージュのような新たな試みにも重要な場を提供した。
しかしこの自由な新聞も1928年、経済的な危機に直面する。弁護士の紹介により、新たな出資者が募られ、資本注入が行われるが、結局1933年に反ユダヤ法によりジーモン家が保有株の太宗を無償で手放し、この新聞は実質的な役割を終えることになったのであった。そして最後に著者は、冒頭の「イーゲーファルベンとの資本関係」について改めて解き明かそうとする。結局は推測の域を出ていないが、新聞の大口出資会社の唯一の社員がイーゲーファルベンの監査役であり、彼を通じてイーゲーファルベン会長のカール・ボッシェが新聞への出資の裏にいたという幾つかの状況証拠があったという。しかし重要なことは、このコンツェルンの役員会がフランクフルト新聞を「ユダヤに感化された、急進的な左翼民主主義を擁する機関紙」と見なしていたにもかかわらず、直接的にはこの新聞の編集方針が直ちに大きく変わることはなかったということである。30年代以降はさすがに「脱イデオロギー化」は避けらず、次第に多くのリベラル左翼の編集者、記者が去っていき前述の最期を迎えることになるが、それはイーゲーファルベンという大資本による経済的支援の故ではなく、時代全体の政治的変貌によるものであったのである。
ラジオ・フランクフルトの運命も、フランクフルト新聞と似たり寄ったりである。新しい放送技術に利益の香りを感じたフランクフルトの実業家によって1923年に設立されたこのラジオ放送会社(ドイツではベルリン、ライプツィヒに続く三番目であった)は、当初はニュースや音楽を流す一般的な放送局であったが、この都市の気風を反映し、次第にドイツで最も「近代的」になっていったという。
創業者K.A.シュロイスナーは政治的には国家保守主義者であったというが、彼はもっぱら技術と営利面しか関心がなく、彼を支えた二人の若者(全員創業時は30歳前であった)が「新たなジャーナリズム」としてのラジオの可能性に注目し、その一人H.フレッシュはそれに関わる多くの理論的な論文を残しているという。そして彼の主導により、この放送局は「ルポルタージュ、現代音楽、放送劇、自由討論といった放送ジャンル革新の中心地」となった。現代音楽の番組では若きアドルノが解説を行っていたというのは有名な話であるが、これは「かなり高度な紹介」で、他の番組と同様「不人気で論議の的となった」というのは面白い。また放送劇の番組ではブレヒトの作品のいくつかが取り上げられ、ベンヤミンが関与していた。そして講演番組では、フランクフルト新聞にも登場したような雑多な知識人が発言していたという。T.マンは「魔の山」の一節を朗読したが、これは著名な作家自身のラジオへの登場という点で、「多数の人々にとってひとつの事件」であったという。こうしてラジオ・フランクフルトは放送という場で、「知識人の自由な広場」を提供することになったが、新聞と同様に終わりを遂げた時は「既成諸機関が自己主張に役立てる別な連続番組」になっていた。1932年8月の帝国郵政省からの通知により放送局は国有化され、その後H.フレッシュら主要な編集者は解雇されることになる。
続いてのテーマは、1930年のゲーテ賞をフロイトが受賞するまでの経緯についての内幕物である。1927年、「ワイマール共和国が経済上の好況と政治的な安定の頂点に達した時」にフランクフルト市が設けたこの栄誉には、1927年はS.ゲオルゲが、28年はA.シュヴァイツァー、29年は文化哲学者のL.ツィーグラーが輝いていた。そして30年の選考に当たってはフロイトが有力候補となったが、この受賞を巡って選考関係者の間で大きな議論が起こったのである。
まずこのフランクフルト市の栄誉ある賞の候補者として何でフロイトが挙がったのか?著者は、フロイトの初期の共著「ヒステリーの研究」の患者であった女性が、実は後年フランクフルトで暮らしていたという事実が知られるに至った経緯を克明に追いかけている。更にフランクフルトにはフロイトの弟子により「精神分析研究所」が設立されていた。そして社会研究所のホルクハイマーは、この研究所の「患者」であり、そしてそれも契機となり彼は社会研究所への精神分析手法の導入を促していたのだった。
こうした因縁でフロイトは候補にのぼったが、今度は保守派から強硬な反対に合うことになる。著者は、賛成派、反対派双方の残存する演説等を丹念に紹介しながら(検討会の食事メニューまで引用している!)、最後はラントマン市長が政治決着をつけるに至る経緯を克明に辿っているが、その詳細は省略する。ただこのフロイトの受賞という事実は、ワイマール期のこの都市の自由主義的な性格を世間に知らしめることになったことは間違いないだろう。
そしてこの本は、社会研究所の終焉についての記録で終わることになる。1933年ナチスにより研究所が封鎖された後、何が起こったかを、著者は克明に追っているが、それは例えばホルクハイマーらの未払い給与を巡るフランクフルト大学との事務的な争いやその貴重な蔵書の運命といった、研究所の社会学、哲学的内容とは余り関係のないテーマであることから細部には立ち入らない。しかし、多くの消失した資産、資料がある反面、それなりの研究所の資産は保全され、1946年9月、1933年に大学との絶縁に署名したのと同じ人物によりフランクフルトへの帰還を要請された後、研究所がこの都市に戻る際に返還されたということである。
こうしてフランクフルトを巡る20年代文化の試みと、その30年代における終焉の幾つかの断片を見てくると、この町がワイマール時代に果たし、断絶の後、戦後になり再び世界の文化に及ぼした影響の一部が見えてくる。ヒトラーが権力掌握時、この都市で政治集会を行った際、演説後決してこの「ユダヤ人の町」には決して宿泊することはなかった、という有名な話が、この都市の性格を物語る。「フランクフルトはドイツの都市ではない」というのは、決して戦後この町に大手銀行の高層ビルが立ち並び、ドイツ的な景観と雰囲気が欠如していることだけからのコメントではない。むしろ精神的にこの町はドイツの伝統主義から離れたところで、そのモダニズムと、時としてはアヴァンギャルドな文化を育んできたのである。その背景にあったのが、20年代に復活したこの町のユダヤ意識の覚醒であった。こうしたフランクフルトの文化的な歴史を、自分が7年近くを過ごしたこの町で直接感じられたか、と聞かれるとやや回答に窮するが、少なくともフランクフルト学派の雰囲気を身近に感じながら過ごせたことの意味は大きかったのは確かである。結局自分にとっての生涯の課題は、やはりこの世界に帰っていくことだ、ということを改めて痛感した作品であった。
読了:2008年2月25日