ワイマ−ル文化
著者:P.ゲイ
著者:平井正、岩村行雄、木村靖二
ワイマ−ル時代とその文化は、ドイツで生活していると常に身近に感じながらも、現在の社会・文化状況が当時と大きく変化しているが故に、単なる過去の一瞬の輝きのように思えることもある。しかし、この時代は私自身にとっては常に帰っていくべき原点であり、ドイツの文化史の中では最も興味深い時期であり続けている。もちろん、こちらに来てから、前節で紹介したユ−ゲント・スティル等、ドイツ文化のもう少し早い時期の運動に接する機会もあったが、今回この2冊を続けて読みながら、自分がドイツに生活し、最も心地好く感ずるのは、まさに自分がこのワイマ−ル文化を生んだ国にいるからであることを碓信した。自分のかねてからのテ−マである「欧州における文化の活性化とその条件」という問題群の最も中心に位置するワイマ−ルの位相につき、この2冊に即してもう一度簡単にここで整理しておこうと思う。
P.ゲイのこの余りにも有名な書物は、1968年に発表され、ワイマ−ル文化復興の直接的な契機となったものである。従来、ナチの政権掌握に至る序曲としてのみ捉えられることが多かったこの時代の独自性をむしろポジティブに描き出し、「黄金の20年代」「ペリクレス時代の再来」という評価をもたらした点で、そして同時に彼の方法論がその後、M.ジェイのフランクフルト学派研究等の際に使用されたという点で画期的な著作であった。個人的にも、ワイマ−ルを見る際に常に頭にあったのは、このゲイの見方であった。しかし余りにも著名で、他のワイマ−ル本に多くの引用がなされていることから、私自身の中でも、この書物は実際自分が既に読んだものかどうかが曖昧になってしまっていた。それを確認する意味もあり今回この著作を再読し、著者のワイマ−ル評価をもう一度確認することができたのである。
著者が序文で述べている、「ワイマ−ル文化を特徴づけた興奮は、部分的には豊かな想像力と実験精神から生まれたが、その大部分は、不安や、恐怖、そしてしのびよる破滅への予感から生まれた」という見方は現在では定着した評価であるといえる。そして共和国が、「敗戦の中で生まれ、混乱の中で生き、そして悲惨な死を遂げた」ことに従い、この文化も同じ運命を辿ったのである。この過程を著者は6つの章から跡付けているが、夫々の章のタイトルが暗示的である。まず「出生のトラウマ」は言うまでもなく、ベルサイユの屈辱の中での共和国とその文化の誕生を意味し、2章の「理性の共同体」は、ゲ−テ的ドイツ復活の動きを、他方3章の「秘密のドイツ」はそれに対抗するメフィスト的ドイツ、ロマン主義ドイツの復活を示す。ここに4章の「全体性への渇望」という理念に支えられたモダニズムが介入し、5章の「息子の反逆」という表現主義の興隆につながっていく。しかし、最後は共和国の政治的緊張と共に「父親の逆襲」が開始され、この文化も悲惨な死を遂げていくのである。政治的な国家、帝国の興隆から衰退までを描いた歴史は多いが、文化においてもこうした循環は常に発生する。ワイマ−ルの場合はこれが特にはっきりと文節化されながら現れたケ−スであったと言える。以下夫々の章の特徴的論点を見ておこう。
「ワイマ−ル共和国は現実になろうとした一つの理想であった」という有名な出だしが、まずはこの文化の政治的・社会的背景を示している。次節で取り上げる戦後の著名なT.マンの講演の中でも指摘された、「一方は威張った軍人の態度、権威に対する卑屈な服従、攻撃的な外国侵略、形式への脅迫神経症的な固執に代表されるドイツ」と、「他方は抒情詩、人道主義的哲学、平和主義的コスモポリタニズムに代表されるドイツ」の対立の中で後者の道を歩もうとしたのがこの文化運動の出発点であった。同時に世紀転換期と1890年代に始まった「ブルジョア芸術から大衆芸術への移行」−カンディンスキ−やマルクの「青騎士」に代表される表現主義が一般に知られるようになったのは大戦前であり、T.マンやW.グロピウスといった文学、建築でワイマ−ルを彩る才能もすでに大戦前に自己のスタイルを完成させていた−が、この文化の成熟に寄与すると共に影を落とすことになる。帝国時代に次第に醸成されていた「神の消滅、機械の脅威、上流階級の癒し難い愚さ、ブルジョアジ−の救いようのない俗物主義」に対する反発が、人間変革の必要性となり表面化したのがこの文化運動の出発点であった。しかし、共和国が、リ−プクネヒトらによる、ソビエト共和国宣言を出し抜くために急遽宣言されたことに象徴されるように、政治体制自体が「偶然によって、しかも弁明につつまれて生まれてきたこと」は明白で、これが体制に対する「冷笑と離反」をもたらすことになる。社会主義者の社会主義者に対する闘争は、政治的変革への意欲を減退させると共に、対立勢力としての右翼を勢いづかせる。著者は、政治体制としてのワイマ−ルの失敗は政治家の失敗というよりも、「国全体の無秩序、絶望的な飢餓、知識人の間での精神的弛緩、帰還させ動員解除すべさ軍隊、癒されるべき重傷と癒す時間の欠如、そして何よりもベルサイユ条約」という「経験に富んだ政治家でさえもひるむような事態」の結果であった、と言う。その結果、革命は帝政の廃止を含め多くの変革をもたらしたが、同時に、旧体制の多くの支配装置を引き継いだ。それはトロイの木馬となり、体制を内部から腐敗させていったのである。
「ワイマ−ルには、ナチスを憎んでいたが共和国を愛していなかった人たち−大学教授、産業家、政治家といった人たち−が何千といた。」消極的選択による共和制をもたらしたのはこうした「理性的共和主義者」たちであった。この「冷静な理性主義」はそれに固有な長所と短所をもっていた。即ち「それは、すぐれた点よりも欠陥を探し出すのが得意で、新しい可能性に情熱的に忠誠を示すよりも、過去の過ちに対する冷やかな分析に熱狂しがちであった。」こうした「理性的共和主義者」は一方で、自らの理性を、階級と階級、政党と国家、ドイツと他国、そして彼ら自身と共和国の和解のために用いた。戦前の熱狂的な君主主義者から、共和国の守護者に変貌したシュトレ−ゼマンはその一人である。他方、自らの理性を批判のために用いる共和主義的な知識人がいた。プロイセンの官僚制の台頭や帝政初期の階級闘争、対外政策の社会的・財政的基盤や国防軍の社会学で学会のアンファン・テリブルとなったE.ケ−アは、ドイツ歴史学会の孤独な挑戦者であったが、同時にハンブルクのワ−ルブルク研究所、ベルリンの精神分析研究所、そしてフランクフルトの社会研究所といった、「伝統的な研究者には認めがたく恥ずべきものであるような思想にオ−プンで、根源的探求に従事する真の理性の共同体のメンパ−」が誕生したのである。ワ−ルブルクからの成果、カッシ−ラ−の『神話的思考の概念的諸形態』、ノルテンの『子供の誕生』、パノフスキ−の『デュ−ラ−のメランコリア』等は、ドイツ文化を野蛮化しようとする1920年代の粗野な反知性主義や俗悪な神秘主義に対するアンチテ−ゼであった。あるいは政治学の領域で、伝統的な思弁と読書への自己限定からより実際的な学問への改革要求を受け設立されたドイツ高等政治学院(M.シェ−ラ−、S.ノイマン、F.ノイマン等)もそうした理性への傾倒の一例である。しかし、この章の最後に著者が書いているように、これらの知識人集団が一般的な影響力を有したかと言えば、それは国内でよりも海外においてであり、又時代的にも後のことであった。「彼らはワイマ−ル精神の中心であったかもしれないが、公的な中心にはいなかった。」
3章を象徴するのは「詩人で預言者で生真面目な自画自賛的青年グル−プの指導者」S.ゲオルゲである。ゲオルゲ自身は1868年生まれであり、既に1892年には詩と論争の雑誌「芸術草紙」を創刊させ、彼の貴族主義的芸術運動を拡大していた。しかし、彼が実際に時代の寵児となったのはワイマ−ル時代に入ってからであり、カントロビッチの「皇帝フリ−ドリヒ2世」を始めとする、十分な資料解読を行った上で熱狂的な感情移入をも兼ね備えた作品を自派から生み出すことになった。その意味で彼は「英雄なき時代の英雄」であった。ボ−ドレ−ル、マラルメ、ヘルダ−リン、ニ−チェ等ゲオルゲが心酔した名前は、その後のナチによるドイツロマン主義の収奪を想起させるが、しかしゲオルゲ自身は第一次大戦中もむしろ厭戦的であり、又ナチ台頭後は自分の権威を利用されることを恐れスイスに亡命し、1933年にそこで死んだのである。又ゲオルゲに唯一対抗できるカリスマとしてのリルケ。しかしリルケの功績はドイツ語の新しい調べを引き出し、斬新な隠喩と比喩を洗練させるという叙情詩人のそれであった。しかし双方共大戦後のモダニティを体現していたものの、彼らは基本的にドイツの過去に密着していた。そして彼らが共通に発見したのがドイツロマン主義の忘れられた存在であり「生の新たな全体性を捉えた」ヘルダ−リンであり、又ヘルダ−リンを通じてクライストやピュ−ヒナ−の復権が行われたことが、その後のこの美的革新運動の運命を決めたと言っても過言ではない。ドイツ人は「詩人は世界の承認されざる立法者である」との格言を真面目に受け取った唯一の国である。そこでは「偉大なるドイツ精神を音声を通じて聴衆の心に伝える」ことが可能であり、それがドイツ人にとっての隠された祝祭空間を作っていったのである。
詩人の隠された祝祭空間を支えていたのが、人々の間に拡大した「政治への反感であり、しかも個々の政策や政党ではなく、政治それ自体への反感」であった。若い頃の私自身の信念(そして理念的には未だに変わっていないが)を思わせるように、「ドイツ人の世界は、教養という自己完成と政治から自由な文化それ自身のための文化の達成とをめざす次元の高い世界と、実際的な事柄や妥協で汚れた俗界という次元の低い世界に分かれてしまった。しかし、この「俗流理想主義」は政治的アパシ−を通じて機能的には既成秩序の重要な支柱となる。「非政治的人間の考察」から「共和国と民主主義」へ移行したT.マンの軌跡はこの危険に気付いた知識人の改宗であった。しかし多くの民衆は、疎遠で滑稽で非理性的なワイマ−ルの政治から遠ざかり、理念の中での「全体性」を求めていった。しかし、ワンダ−フォ−ゲル運動に象徴される青年運動、ハイデッガ−に代表される「非合理性や死との情事に哲学的な厳粛性と学問的な尊敬を与えた」預言者たち、ドイツの歴史の中に慰めと模範を求めていったランケらの歴史家(ドイツ文化を、ロシアの野蛮な民衆社会やフランスの老衰した頽廃やアメリカの機械の悪夢、イギリスの反英雄的商業主義から守る)らの感情と反応の複合体はまさにモダニティ−、即ち変革の時代への不安から生じた退行に過ぎなかった。根源的なものや共同体的への切望は、直接行動やカリスマ的指導者に対する服従の衝動を促し、理性への拒否につながっていったのである。
しかし、「全体性への渇望」はその後の歴史の中での否定的前奏曲であっただけではない。理性による全体性の追求、それが最も鮮明に表現されたのは建設の領域であった。極端な曲線を強調したメンデルスゾ−ンに始まり、建設、美術、彫刻等の総合芸術を目指したグロピウスのバウハウスにより完成する。「人は世界と対決し、これを支配せねばならない。モダニティ−の弊害は、啓蒙的なモダニティ−によらざるを得ないこと」をこの運動は示したのである。
グロピウスの建築物、カンディンスキ−の抽象画、グロスの風刺的時事漫画、ディ−トリッヒの足と並ぴ、後の人々にワイマ−ル精神を表現しているのが映画『カリガリ博士』であった。演劇の世界ではイェスナ−が「ウイリアム・テル」を愛国劇から革命劇に変貌させ、また革命的な芸術家集団「11月グル−プ」にはノルデ、ブレヒト、ワイル等が参加していた。政治的立場は異なっていたが、精カ的な活動と現象の背後に真実を求めようとする、あくなさ探究心は共通の特徴であった。そして新しい人間性を求めていく過程で、表現派は、異邦人、受難者、自殺者、売春婦等を登場させたが、その作品を貫く共通のテ−マが「父親に対する息子の反逆」であった。「表現派の全てがワイマ−ルを愛していなかったとしても、ワイマ−ルの敵は全ての表現派を憎んでいた」最大の理由がここにあった。そして1925年の大統領選挙でヒンデンブルクが当選すると共に、父親の逆襲が始まることになるのである。
こうして最終章はワイマ−ル文化への挽歌となる。もちろんこの時期、マンの「魔の山」発表といった文学的事件、ブレヒトのベルリン移住に象徴されるベルリンの燗熟と言った、その後語り継がれる伝説は生まれている。しかし、1927年、映画会社ウ−ファを買収し、同社をドイツ最大の白日夢製造会社に仕立てたフ−ゲンベルクのマスコミ大帝国による文化のカルテル化が同時に進んでいた。文化の管理の進捗である。そして1929年のシュトレ−ゼマンの死に、不況と失業という政治危機が続いた。1930年の映画「西部戦線異常なし」の上映がゲッペルスにより妨害されたのは、文化に対する政治的弾圧の開始を象徴していた。ワイマ−ル文化を圧殺するには、管理化された文化機構を一押しすればよかったのである。ケストラ−やブレヒトは次第に左傾化するが、これは自由主義と社会民主主義の終焉を示していた。ラングの映画「メトロポリス」は著者によると「父親の逆襲と母親の無限の抱擁」というワイマ−ル末期の記号である。そして1933年以降、丁度数年前に革命ロシアで起こったように、モダニティ−に満ちた文化は政治的に埋葬されたのであった。
こうして自らがこの反ユダヤ主義の犠牲者であり追放者であるゲイのワイマ−ル文化史は完結する。S.ヒュ−ズの思想史がそうであるように、社会状況と文化のダイナミズムを追いかけていく手法は見事であり、この書物がワイマ−ルの復権をもたらした、という評価も納得できるところである。しかし、私にとっての問題は、この文化がその後如何に復活し、如何に発展していったかである。ドイツ的であると共に、極度にコスモポリタン的性格を有するこの文化の特徴をもう少し自分なりに評価しておく必要があろう。それを補足するのが、続けて読了した日本人によるワイマ−ル文化の解説書である。既にこの整理も長くなっているので簡単に気付いた点を追記するに留めよう。
まず、政治的背景。ワイマ−ルの安定期はシュトレ−ゼマン外交による戦後の対決から融和に向かう時期であったこと。第二次大戦後の西独外交と同様に、それはドイツの経済力という切り札を使ったものであったが、それ故に国際経済動向に依存していた、という指摘は現在の状況を考える際にも示唆を与えている。又、経済的背景としての「ドルによる復興」。1924年から1930年まで、アメリカでの公社債発行による資金調達を含め、企業から自治体に至る外貨導入の6割がアメリカからドルで行われていた、と言う。この結果「アメリカ化」が経済領域のみならず、社会現象として広まったことが都市大衆文化としてのワイマ−ルに刻印されることになる(モダニティ−の源泉)。
文化の大衆化は、従来ブルジョア的なものと考えられていた生活文化を労働者にも享受可能なものとしたが、他方その中に労働者の私生活化、個人化を促すものが入ってきたことも指摘される。ベンヤミンにより「複製芸術の時代」と命名された文化の個人化も、そうした大衆社会化の一断面であったのである。一方でヒュルゼンベルグによりチュ−リッヒからベルリンに移植されたダダの動さは、ゲイの書物では余り触れられていなかったが、伝統芸術に対する根源的問いかけと原理的否定は、後のシュ−ルにつらなる動さとして特記されるべきであろう。又ベルリンのキャパレ−文化も渾然としたこの時代を象徴する出来事であった。「詩が舞台上でのパフォ−マンスを要求し、舞台が詩に取り分を要求したのがワイマ−ル文化の特徴だった。」そこでのパフォ−マンスにテクストを供給していたのがダダの影響を受けたメ−リング、トゥホルスキ−らであったことは特記される。それ以外にも、舞台では古典劇から革命劇まで、ブ−ルバ−ル劇からヌ−ドレピュ−まであらゆるジャンルが相互に刺激しあっていたという(ヘルマ−や、ツァイスらの表現主義演劇によりフランクフルトが「最初の演劇都市」と呼ばれた、というのもやや意外であったが)。
また政治的実験演劇のピスカト−ルとブレヒトによる叙事的演劇の登場も歴史的事件の一つであったという。そしてダダの熱気が冷めた後に訪れた『新即物主義』の時代。伝統的な秘儀的文学空間が崩れ、経済活動のレベルに乗せられた文学生活。テ−ブ−リンの『ベルリン・アレクサング広場』やケストナ−の『ファビア−ン、あるモラリストの物語』といった小説が都市ごった煮文化を象徴するとの指摘。また音楽においてもベルリン・フィルのフルトベングラ−、国立オペラのクライパ−、市立オペラのワルタ−、クロルオベラのクレンペラ−等、当時のベルリンは世界の音楽の中心でもあった。もちろんこの時代、音楽の革新は、シェ−ンベルグ、ベルクを擁するウィ−ンで行われていたが、そのベルクの無調で書かれた革新的オベラ『プォツェック』が賛否両論渦巻く中上演され、その後評価が確定していったのはベルリンであった。また音楽の新即物主義を代表するヘンデ−ミット。フランクフルト放送局を現代音楽普及活動の最前線に仕立て上げ、そこからのアドルノの登場を促したのが彼であった。アメリカ化の中でのシャズの流行、そして最大の事件であるブレヒトとワイルの『三文オベラ』。ワイルは、亡命後アメリカでブロ−ドウエイ・ミュ−ジカルや映画音楽の作者となっていったという。
アカデミズムについての分析につき、この書物で補足するとすれば、ます大学の保守主義についてであろう。ワイマ−ル初期の政治的混乱の中で、大学人たちはナショナリズムに基礎を置く学問のみを非党派的学問として受入れ、それにより超然と党派政治の上に立っていると信じていた。非政治的態度自身がある一定条件下で、極度に政治的になるという問題がそこには潜んでいたのである。その背景にあったのは、かつての帝国の誇りと、現存の共和国への不満であった。その意味で知識人の世界においても、一般大衆の保守意識は多数派を形成していたのであり、ワイマ−ルの目眩くような百花繚乱の文化革命も結局は文化エリ−ト達の突出した運動に留まっていたと言えるのである。そしてその文化的前衛の運動が疲弊するに従い、そのマジョリティ−を占める消極的保守主義が、保守革命に変貌していくのに時間はかからなかったのである。
この書物の特徴の一つは、ワイマ−ルにおける映画に多くのスペ−スを割いていることである。革命ソピエトの影響を受けた大戦直後からのプロレタリア映画の興隆、時代の安定に伴って新たな文化現象となった中間層サラリ−マン大衆映画、ベルリンの生活を中心にした都市風俗映画。フリ−ドリッヒ大王をテ−マにした『ライン悲愴曲』はトラさん映画のようにその後シリ−ズ化し23回も繰り返し製作されたという。ウ−ファ社による『嘆きの天使』『ガソリンポ−イ3人組』『狂乱のモンテカルロ』『会議は踊る』等の大衆映画はベルリン映画の存在を世界に示したが、同時に『西部戦線異常なし』やプロイセンの抑圧的教育を批判した『制服の処女』といった共和国側に立った批判的映画も一定の支持を得ていたことは特記されるべきであろう。また新建築運動において世界をリ−ドしていたドイツでは、ベルリン、ク−ダム通りに今も残るメンデルスゾ−ンのウニウェルズム映画館に象徴されるように、「神話的なム−ドの記念碑的殿堂」で人々を幻惑していった。そしてこうした壮大な景観による幻惑という概念は新たな範疇としての山岳映画でも使用されたと言う。しかしこうした大衆路線と現実逃避は、経済恐慌後の社会不安ともあいまって非合理主義への回帰を促すことになる。フリ−ドリッヒ物は『サンス−シの笛合せ』で指導者待望の明確な政治的意図を持ったものとなり、戦争物は『朝やけ』で愛国主義を鼓舞することになる。映画におけるワイマ−ルの終焉がここにも刻印されたのである。
こうした補足的事実を受け、この書物は「今日から見たワイマ−ル文化」と題し、この現代的意味を総括している。そのポイントのみ最後に整理すると概ね以下の通りである。
@ワイマ−ル知識人達は、当時の伝統的文化人からははずれた存在であり、新しい枠組みでしか捉えられない文化的営為を実現した。
A60年代のアメリカでの復活に際して亡命文化人が、本国で実現しえなかった様々な可能性を記号化したことから、当然前衛的、大衆文化的側面に評価が片寄ることになった。(「徹底したモダニズム礼賛」「亡命文化志向」)
B表現主義美術の再評価は、現代美術の価値観のパリ中心主義からの脱却の流れであり、又アメリカ的立場から見れば欧州的価値からの脱却、ドイツから見れば戦前の空白を埋める営為であった。
Cナチによるワイマ−ルの継承。政治を美学化したナチは、ワイマ−ル時代が作り出した大衆のためのピジョンによる「効果」を、体制の権威を肉体化するために転用、イデオロギ−的機能に変換した。
Dワイマ−ル時代に顕在化した「大衆文化」時代の各段階として進んできた現代。亡命文化とナチ文化の双方の可能性がせめぎ合う(「異質なものの交錯」としての)両義的文化として、今日の両義的状況の鏡に。
さて最後に、私自身にとってのワイマ−ルとは何なのか。60年代に遅れてきた世代としてアメリカにおける文化革命運動は、一方でその政治的ラジカリズムが生んだ幼児的直接行動主義に違和感を覚えながらも、個人の精神的営為への情熱的志向性故に常に自己の精神生活の原点であった。そしてその文化革命運動が、実は主としてドイツからの亡命ユダヤ人の哲学的、思想的、芸術的貢献の成果であったこと、更にそれが本国においてワイマ−ルという実験期間を持ったことを知るに及び、この欧州の一時代が如何なる条件下で顕在化したのかを私なりに理解することが、個人的な大さな関心事となったのである。ドイツでの勤務は、実際に原テクストに当たる余裕こそなかったものの、日常生活の中で実感されるドイツ的なるものへの接触を通じ、この文化を感覚的に理解していく大きなチャンスを与えてくれたのである。次節で取り上げるマンの著名な講演にも触れられている、ゲ−テ的合理主義とファウスト的悪魔性。このドイツ的両義性が渾然一体となった姿を私はワイマ−ルに見る。もちろん、60年代の文化革命が世界的流行であったのと同様に、20年代のドイツでの文化革命も、ロシアの革命文化を含めた大戦後の一連の革新運動の一支流であった。しかし、それにもかかわらす、今私はそれが最も鮮明に現れるためにはドイツの土壌が必要であったのではないか、と感じている。それは、世俗的に言えば、生真面目に現実と対峙する性向、全体性と完壁性を志向する国民性、そして画一性が強いが故にそこから離脱する場合のエネルギ−が強大となる傾向、こうした私のドイツ的なるものへの実感が歴史的表現を与えられたのがワイマ−ルであったというのがこの2つの書物を受けて更に強まった確信であり、その意味でワイマ−ルは私の中においてのみならず、ここドイツにおいても決して過去の一瞬の輝きに留まっているものではないのである。
ワイマ−ル文化(P.ゲイ) 読了:1995年7月27日
ワイマ−ル文化(平井他) 読了:1995年7月31日