アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第七章 文化
第三節 ト−マス・マンとその時代
闘う文豪とナチス・ドイツ
著者:池内 紀 
 実に気楽な作品である。現代ドイツを代表する大作家であるトーマス・マンの1933年以降の亡命生活と、彼を追放したナチスとの戦い、そしてその中での彼の生身の感慨を、彼の亡命時期の日記を辿りながら追体験しようとしたものである。ナチスの政権掌握から崩壊、そして戦後の日々に至るまでの歴史とそれぞれの時点におけるマンの日記を比較しながら進めていくが、ナチスの歴史は教科書に出ている事項以外はほとんどなく、言わばナチス時代の単なる復習。そしてそこでマンが日々綴った感慨も、目を引くものはそれほど多くはない。それは、かつて山口知二が、「ドイツを追われた人々」と「廃墟をさまよう人々」(夫々別掲)で描いた、マンを始めとするナチスからのドイツ人亡命者たちの壮大なドラマとは比較するまでもない。研究者と随筆家の差が、これほどまでに出ているケースもめったにないのではないか。それでも約20年振りに接したこの時代のマンの闘いとそこから浮かび上がるドイツ戦中、戦後史の光と影を、改めて認識で来たことだけが、唯一の収穫であった。

 そんなことから、ここでは細部に入ることはなく、改めてこの平和ではあるが、近い将来の危機の接近を感じる現在において留意しておかねばならないことを中心に簡単に記しておく。

 クヌート・ハムソンというノルウエーの作家にしてノーベル文学書受賞作家の話から始まる。駆け出し時代のマンが敬愛したこの自然派の作家が、ナチスの登場にもろ手を挙げて歓迎し、戦後ナチス協力により服役しても、日記への記載からすると、マンは、「人間ハムソンは見放しても作家ハムソンへの敬愛は、さほどゆるがなかった」とされる。その意味で、政治的立場と芸術作品は別物であるという発想。しかし、極端な政治的立場を巡る緊張も、社会が共通して認める大芸術家も不在である現在、こうした一人の人間の矛盾が白眉の下に晒されることもない。それは良いことなのだろうか、それともそれはこれから訪れるかもしれない危機に対する不感症をもたらす、危険な兆候なのだろうか?そして裕福な亡命者レマルクの、アメリカでの優雅な生活とディートリッヒの不倫等。同じ亡命者の社会で、二人の関係が冷え切っていたことが語られているが、このあたりは現代的なスキャンダル志向のネタである。

 ワグナーの音楽も、マンにとってはハムソンの小説と同様、ワグナーの「神話の用い方、大げさなロマン主義、反ユダヤ主義にわたる小市民的怨念は激しく批判した」が、亡命先での夜は、ワグナーの音楽を聴きながらニーチェを読んでいたという。これほどの魔力を持った芸術が現代には存在するのか、と考えると、たいへん寂しい気分になる。

 ツバイクやブレヒトとの関係。亡命者作家グループ内での様々な葛藤を改めて追想するのは、南国での平和な日々に慣れた現在の私の気分を刺激するが、山口の著作以上の記載はない。唯一、文学的に面白い指摘は、ブレヒトの「ガリレオの生涯」は、デンマーク版、アメリカ版、ベルリン版の3つがあり、それぞれ異なっているということ。そしてその内のアメリカ版は、当時の英国人人気俳優であったチャールズ・ロートンとの共作で、まさに広島に原爆が投下された最中で改作され、「科学のもたらす『地獄絵』」の衝撃が反映したものになったという。私が読んだこの作品(別掲)がどの版であったかは、気になるところである。

 1942年3月、の英国空軍によるマンの故郷リュ−ベックの爆撃と「ブデンブローグ館」の破壊。マンの日記には、「いかなる追想も、批判も、感情もまじえない」記載で、その事実が記されているという。これが、戦争初期のドイツ軍によるコベントリー爆撃への報復でもあったということを知っていたマンは、幼年期の記憶と作家への足掛かりとなったこの町の破壊を、あらゆる感情を押し殺して眺めていたという。また1943年の白バラ事件についての記載もある。著者はこの事件を解説しているが、これも一般的な教科書的な復習である。その後、同じ1943年2月のゲッペルス演説、「ファウストゥス博士」執筆に至る模索、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件、そしてヒトラーらの自殺とドイツの敗戦、戦後のミュールンベルグ裁判と随想は続くが、このあたりも同じである。

 その中で、珍しく個人的な事項の記載として著者が取り上げているのは、1949年9月の長男クラウス・マンの自殺である。誰にとっても、自分より早い子供の自死はつらい経験であり、日記からも珍しくマンの悲痛な感情が読み取れるという。しかし、ここで私の目を引いたのは、父親の感情ではなく、日付のないクラウスのメモの一節である。そこには「偉大な男は息子など持つべきではない」とある。偉大な父親を超えられなかった息子の悲劇。

 そして日記の終盤は、「かつてあれほど希望を託した国」アメリカで吹き荒れるマッカーシー旋風への批判と再度のスイスへの「亡命」に至る日記。故国ドイツに帰ることも叶わず、チューリヒ郊外の湖畔で静かにカフカを読む晩年。時折の講演をこなし、数々の栄誉も受けるが、日記からは「老い」の気配が漂う。そしてマンの日記は、1955年7月で途絶え、その3週間後にマンは亡くなることになったという。80年の大作家の生涯であった。

 偉人の日記を媒介にして、その時代を回想するというのは、冒頭にも記したとおり、やや安易な発想である。それは、時代の大きな姿を知るために、その日記を素材として使用するというのとはやや異なる。それは、ある意味、ある歴史資料の良いとこ取りのようなところがある。あえて著者の立場から見ると、それは、マンの日記を通して歴史を描いたものではなく、むしろその歴史的激動の時代における大作家の内面を追想したものだ、ということになるのだろう。ただ、そうであるにしても、やはり、それはこの作家を巡るある時代の姿を浮かび上がらせるものでなければならない。そして、その点では、残念ながら、この作品からは、新たに目を開かせてくれるような新しい刺激は感じることが出来なかったのである。ある意味、南国で、気晴らし的にゆったり読むには適した新書であるが、同じ課題を扱った前述の山口知二の二部作のように、この作家が生きた過去の苦難の歴史を反芻しながら、新たな激動の時代に向かっていく気概を惹起させるものではなかったのである。

読了:2018年12月18日