アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第七章 文化
第三節 ト−マス・マンとその時代
ト−マス・マンとドイツの時代
著者:小塩 節 
既述の講演集で示されたように、ト−マス・マンほど、ドイツの苦難の時代にドイツ精神を表現した作家はいない。第一次大戦時の、ドィツ精神擁護から始まり、大戦後の民主主義への回帰、ヒトラ−ヘの抵抗と亡命、そして戦後の旅行者としての帰還と死。それぞれの局面において、彼は論争の中心であり、時として厳しい批判を浴びてきた。しかし、それにも係わらず、この作家は毅然と自己の誇りを失わず、自分の道を歩み続け、結果的にこの時代の最もドイツ的な作家であり続けたのである。こうした作家の素顔を、時代背景の中に、個人的な回想も含め描いたのが本書である。この著者の本に多くあるように、時折個人的な自慢じみた、とるにたらない回想のようなものもまま見受けられるが、対象の偉大さが、そうした細部への不満を打ち消してくれる。そして本書を読了した時には、この偉大な作家の作品に、一部は再読を含めじかに触れてみたい気にさせてくれるのである。同時に本書は、マンの作家生活を理解する上で必要な、ドイツ的生活様式、思考態度について繰り返し触れている。こちらは、マンに直接興味を持たない人間にとっても興味深いものに思えるので、今回はむしろこうした、マンを巡る、現代でも見られるドイツ的な生活、思考様式を中心に記載しておこう。

ハンザ同盟の商業都市リュ−ベックの裕福な商人の家庭に生まれたマンが、兄のハインリッヒと共に家業を引き継ぐことなく文学の道を目指すところから物語は始まる。厳格で生真面目な働き者のドイツと、悪魔的な変わり者のドイツ。マンの出発点が、こうした二つのドイツにあったことを知るのは、その後の彼の二面性とその中で、強烈なまでの白己主張を理解する上で重要であると共に、ドイツ文化の特性を知る上でのポイントとなる。

ドイツ社会の中世と近代の複合性、市民性と芸術家精神の混交、北方的と南方的という対立、ト−マスという聖書的ラテン的名と、マンという純北方ドイツ的な姓の結びつきはまた、近代化途上のドイツ自身が持つ二面性であったのだ。彼の初期の作品である「トニオ・クレ−ゲル」の中には、既に、自己の中に潜むそうしたドイツの二面性を、冷徹な自己反省によって捉えようという意図が見てとれる。

マンが、ハンザ同盟の白由主義的雰囲気の中で生まれ育ったことと、新興軍事国家プロイセンによるトイツ統一と権威主義的文化の浸透という社会的背景も、マンという人間の内面という形で現れた近代ドイツの分裂気質を物語っている。一方で、30年戦争による荒廃とナポレオン戦争による800年続いた神聖口−マ帝国の崩壊といった、ドイツの混乱の中でも自立を維持してさたハンザ都市の伝統は、プロイセンの勢力拡張により政治的に、そして経済的にはその関税同盟により弱められていくが、他方国家としてのドイツはそのプロイセンの富国強兵策により先進諸国に比肩するところまで発展する。現在のドイツとある点で類似しているのは、政治主導の社会の中で、創造的精神活動が停滞すると共に、その中からそれに違和感を持つ少数のはぐれ者達が登場することである。そしてトイツの場合はこの少数者の運動が、ロマン主義的色彩を持って現れるケ−スが多い。19世紀後期のワグナ−の歌劇とニ−チェの哲学はこうしたドイツ的伝統の一つであったが、その時代はまた他方でブロイセンの合理主義が貫徹していった時代なのであった。

こうした時代の中で生を受けたマンは、その出発からこのドイツ的両義性を宿命的に担っていた、と言える。まず、マンの中のドイツ的舎理主義は、彼の生い立ちに由来する近代市民性の中に示される。彼が「ブッデンブロ−ク家の人々」の中で描いている、ドイツの商人の伝統に対する共感は、より一般化すればドイツにおける商人の社会的地位という興味深い考察に繋がっていく。著者は、フランス、英国と比較しながらドイツにおいて商人の社会的地位が相対的に高いという見方を説明している。即ち、ある調査機閣によると、これらの国での職業的な社会的地位の高さは次のとおりである、という。

フランス:@大学教授、A文化人、B弁護士、C高級官僚、D企業経営者
イギリス:@教職・聖職者、A研究者、B高級官僚、C自由業、D金融業
ドイツ;@大学教授、A企業経営者、B聖職者

この比較は私の限られた経験から来る実感とも一致していると共に、現在の各国の状況をもうまく説明するものである。特にドイツで企業家精伸が育った理由は、@プロテスタンティズムの労働倫理、A教育の発達による階級間の流動性の増大、B19世紀末のドイツ統一以降の産業振興政策、そしてC戦後の連邦制導入と連邦権限の縮小といった要因にまとめられるが、これはまさに、戦後のドイツの産業資本が、ヨ−ロッパを席捲していった原動力であったといえる。マンの20代での出世作で、既にこうしたドイツ性が表面に出ているのは興味深い。

しかしながら、実生活においては、このドイツ的勤勉、実直の固まりであったマンが描いた人間達はあえて一般的な言い方をすれば、病的あるいはエロス的(あるいはあえて言えばタナトス的)な人問達であった。特に初期においては「非政治的人間の考察」で示されたドイツ・ロマン主義への傾倒の下、美に対する強い憧憬と死への誘惑が彼の作品の通奏低音であった。それでも、そうしたロマン主義への憧憬は、そのロマン主義が政治化し、ヒトラ−政権となって現実化すると、彼はただちにその危険性に気付いていく。ヒトラ−以降の彼の作品は、引さ続き悪魔的人間を描くという、ファウスト以来のドイツ的物語が多いが、それはむしろ批判的に表現されていく。そしてそれが故に彼は1933年から長い、そして最終的にはドイツ市民に戻ることのなかった亡命生活へと繋がっていくのである。

ドイツの両義的な面も含め徹底的にドイツ人であったマンが、自由主義的なアメリカでの生活に適応しつつも、尚且つドイツ的なものにこだわり続けた様は、既に触れた1945年のアメリカでの講演である「ドイツとドイツ人」や1949年のゲ−テ生誕200周年記念講演に端的に示されている。しかし、以前にこれらの講演を読んだ際には必ずも看破しえなかったが、まさにこれらの講演でマンが力説したドイツの両義性は、マン自身が生涯に亘って自己の中に認識し、それが故に現実生活においても、また精神生活においても苦しめられてきたものなのであった。この点においで、彼は間違いなく現代ドイツの生んだ最もドイツ的な作家となるのである。

日本と同様に、今ドイツでも文学の不毛が言われているという。特に東西統合の政治的熱狂が、文学的創造力を枯渇させているのは間違いない。しかし、その政治的熱狂が、幻滅に変わり、社会的危機が訪れた時に再びドイツの悪魔性が頭をもたげてこない、という保証はどこにもない。その意味で、ドイツとドイツ人の両義性を認識しつつ、この作家が危機の時代にどう対応したかを頭にいれておくことは、現代においても決して無駄なことではないのである。

読了:1993年9月17日