アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第七章 文化
第三節 ト−マス・マンとその時代
ドイツを追われた人びと−反ナチス亡命者の系譜
著者:山口知三 
T.マンを巡るドイツ近代史の一面については、小塩の小著で大枠をつかむことができるが、7世紀に始まったゲルマン民族の大移動にも匹敵する、ドイツから他の欧川諸国を経てアメリカ大陸に向かった知識人の大移動の中での、マンの家族を中心としたドイツ文学者たちの栄光と悲惨、政治的困難と個人的な苦悩をより詳細に描いたのがこの作品である。著者の手法はT.マン一家、とりわけ父親ト−マスと長男クラウスの営為を通じて反ナチス亡命文学者たちの運動を、その「宋光の歴史」の影に隠されたその現実の姿から重層的且つ客観的に描こうとするものである。その抵抗運動の実態は、戦後種々の政治的意図を受けて語られたような直線的なものではなく、危機の時代に、その中で生きる人々に苛酷な試練を与え続けたのであり、人々は悩み、揺れ、決断し、あるいは転向し、時代の波の中である時は英雄的に振る舞い、またある時は泥まみれの悲惨の中で息絶えたのであった。著者の図式の中で言えば、亡命時に既にノ−ベル賞を受賞し名声を確立していたト−マス・マンが時代の波を巧みに泳ぎ切ったのに対し、その長男クラウスは、亡命ドイツ人作家の運動の中心人物として精力的に活動し、運動の寵児となりながらも、そのために左右両翼から常に政治的圧力を受け続け、ナチの時代は何とか覚醒剤の力を借りながらも生き抜いたものの、最終的には戦後まもなく、精神的緊張に耐え切れず42才で服毒自殺の道を選ぶことになる。この二人が視点の両端に置かれ、この2つの中心から彼らを取り巻く種々の人物像と、彼らを巡る事件が語られ意味付けられていく。

「ドイツ連邦共和国の発展の陰で、いがに過去が隠蔽され、抹殺されなければならなかったか。」「それは一つの民族がしたたかに再生するためには過去の隠蔽、抹殺、忘却は不可欠の前提なのではあるまいかと思わせる。」戦後、西独社会は反ナチス亡命作家たちに対し冷淡であった。「西独大衆は政治的亡命者、ユダヤ人よりもナチスの方が好ましいと考えている。」東独では、ソ連亡命者のベッヒャ−が初代文化大臣に就任したとおり、亡命者へのある程度の配慮が示されたが、当然それは新体制に忠実な者のみに示された政治的なものであった。国内で辛酸を舐めた者達から見れば安全な国外で自由に活動してきた者達は胡散臭い存在であり、こうした一般的傾向(国内派と海外派の文化的相違がもたらす相克)に加え、東独が反ナチス亡命者により指導されたことから、東西対立の中で西独での亡命者への風当たりが一層強まることになったという(序章)。

時代は遡る1933年、ナチスの政権獲得と共に反ナチス文学者たちの受難の時代が始まる。既に4月には反ナチスの代表的亡命雑誌である「ノイエ・ヴェルトビュ−ネ」やベルリンの代表的週刊誌「ダス・ノイエ・タ−ゲスブ−フ」(シュバルツシルド編集)がドイツ国外で発行されていたが、時を同じくして、より広汎な反ナチス文学者の結集を日指してクラウス・マンがアムステルダムで「ザムルング」を、またブラハからヘルツフェルデの「ノイエ・タ−ゲス・ブレッタ−」が創刊されるが、これが、反ナチス亡命文学が社会的に認知された嚆矢であったと言われる。しかし、こうした亡命文学者による政治的実効性をもたない運動は、当初から様々な内部矛盾・対立を内包して進んだのであり、「ザムルング」の創刊時の挿話はそれを典型的に物語っている。即ち、1929年にノ−ベル賞を受賞し、ドイツ文学界のみならず世界文学界で名声を確立していたト−マス・マンが(そして更にはS.ツバイクが)、白分の長男が編集したこの雑誌に対し「絶縁宣言」を発表した事件は、「自分の作品をドイツ国内で売りたいがためにナチスに屈服した」との非難を亡命文学者の間に巻き起こすことになる。

著者は、この「ザムルング」事件という「家族の骨肉の争い」の背後には、単なるイデオリギ−問題のみではなく、T.マンの作品の発表権を巡るフィッシャ−社とその他の出版社との争いといった要因もあったことを指摘する。そして多くの事実を突き詰めていくと、結局この判断が、「ザムルング」に参加することがナチスによる国内の禁書リストに加えられることを意味するぎりぎりの状況の中で、ト−マス・マンが何としても自作を自国の読者に読ませると共に、自分を支えてくれたドイツの出版社の見識に報いたい、と考え、この判断を、反ナチ勢力支持を宣言することよりも優先させたという生々しい個人的決断であったことが分かるのである。言わばこの時点ではト−マス・マンは多くの亡命文学者たちの中では最右翼に位置し、あえてスキャンダラスな非難をも覚悟し、亡命者たちの単純な反ナチ運動に加わることを避けたのだった。著者は彼の日記をも念頭に置き「国内に踏みとどまる国内亡命者という二重に屈折した道が、当時ト−マス・マンが『ヒステリックな』亡命ジャ−ナリズムと『恭順な』ナチス迎合文筆家との問に見出そうと努めた生さ方であった」と解釈している(第一章)。

「ザムルング」事件でT.マンと連座したS.ツパイク。「ウィ−ンのエラスムス」を書くことによって、宗教戦争の時代に、カトリック・ブロテスタントのいずれの側にも全面的に加担せず、あくまでも理性と寛容を説いて中道を歩み続けたエラスムスの偉大さとその現実における無力を、1930年代の自己の姿と思想に仮託したツパイク。政治化した時代には、政治的党派活動に加担しないことはひとつの政治的決断である、という党派性の論理が、クラウス・マン、ルカ−チら反ナチス文学者の多くからのこの書物に対する批判の根底にあった。しかし、この反ナチス陣営内部の度を越した相互批判や、亡命ジャ−ナリズムのヒステリックなまでの闘争性が、政治化された時代の中でより大きな敵に利用されるという構造はいつの時代も全く同じである。70年代の紛争の時代、我々が日常生活で突きつけられ、決断を迫られたのも、又、私の現在の仕事においてもある分野で時折発生しているのは、この政治化した時代の主体的態度決定の問題である。この際に、徹底的に政治闘争の一方の党派に帰依し、その党派の運命に身を任せるのか、それともそれを「越えた」立場で政治的闘争自体の止揚を目指すのか。後者の立場はそれはそれで、歴史の審判を待たねばならない。この態度決定は、悪くすれば社会の流れをいかに見極めるか、というご都含主義へ道を開くものでもある。政治化を忌避しうるより強靭な根拠を見出せるかどうかが、そうしたご都合主義、日和見主義であるとの非難を回避できる道であり、またいずれにしろ発生する批判を含めた緊張に耐えられる精神力を有しているかどうかで人間の真価が決まるのである。この書物が感動を呼ぶのは、そうした判断力と精神の強靱さを有した多くの人間を描いていることに加え、そうした人間が100%の強さを持っていた訳ではなく、悩み、苦しみながら自らを選択していったという人聞臭さをも合わせて読み取っているからである。いずれにしろツバイクの「あらゆる狂信主義に対する断固とした抵抗」はその後の「カルバンと戦うカステリオン」でも示されるが、この1930年代前半から既にリベラル知識人の聞でスタ−リン・ソ連に対する批判(又その裏側に、共産主義運動の中でのトロツキ−批判)が現われていたことは注目される(第二章)。

1934年8月にモスクワで開催された第一回ソピエト作家会議に参加したドイツ亡命作家グル−プの苦難。それまでの運動の中にはある種の大国意識が潜んでいたが、この大会で、彼らは、自分たちはしょせん国を追われた亡命者であり政治的には全く力を有していない、という冷徹な事実を突きつけられたのである。


その中で若い富豪の娘と連れ立って、お祭り気分で登場したクラウス・マンは「早く来すぎたビ−ト族かヒッピ−族」として異臭を放つことになる。しかし、彼はそうした「どうしょうもなくふやけた世代」の代弁者であるという自覚と責任感をもって、誰にも劣らぬ熱意をもって反ナチス亡命文学運動に献身した。そうした自由人として彼がまたこの作家大会に漲っていた社会主義と個人、社会主義と文学についての〈楽天的リアリズム〉に懸念を持ったのは当然であった。ソ連文学の「若きヴェルテルの悩み」を求めた彼の気持ちに偽りはなかったのであろう。

ここで一転物語は、若きクラウスと姉エリカ、ベテキントの娘パメラと、後にクラウスがナチヘの傾倒を皮肉に満ちて描くことになるグリュゲントスの文壇裏話に移っていく。しかしそのグリュゲントスを主人公のモデルとする小説「メフィスト」は、姉を捨て、更にナチにも迎合し演劇界をのし上がった男を告発する単なる暴露小説ではなく、30年代の自分を取り巻く人々の恥部のみならず、クラウス自身の青春をも俎上に乗せ、それによってナチを糾弾することを意図したものであったと言う。同時に主人公を取り巻くコミュニストやナチの若者の破滅を描くことによりこの時代の青春の諸層を伝えようとしたものであった。ここには単なる反ナチ亡命文学に留まらないクラウスの作品と彼の活動への著者の親しみが表現されていると言える(第三章)。

ここで再び主人公はト−マス・マンとなる。それまでクラウスらと一線を画していたト−マスが35年から36年にかけてナチと対決する姿勢を明らかにしていく過程が描がれる。面白いことにそれは決然と行われたのではなく、反ナチ亡命文学運動の危機の中で発生した出版社の海外移転を巡る論争の経過の中で成り行き上宣言されたものだったのである。即ち、それまでト−マスの作品をドイツ国内で出版・販売していたフィッシャ−社が、ついにナチの手が伸びる状態となり国外移転を決意した際、亡命文学者の中から巻き起こったフィッシャ−社批判(それまでのナチとの共存と海外の中小出版社への脅威−「国内亡命と国外亡命」論争の一局面)に反論したト−マスが集中砲火を浴びることになったが、たまたま彼を擁護した他の論文を、逆に反ナチを宣言して反論することによりその危機を乗り切ったのである。「しかるべきタイミングとしかるべき機会を捉え、あくまで自分の一貫性を確保しながら状況に合わせて軌道修正し『転進』をはかる」マンの面目躍如といったところである。こうした柔軟性がご都合主義に陥るか、それとも一貫性を維持するかは
先に書いたとおり微妙である(第四章)。

反ナチ統一戦線として、30年代中期に盛り上がった人民戦線運動。ドイツ人亡命者の間においてもこの時期「ドイツ人民戦線運動」が発足、クラウスら亡命文学者たちもこの運動に横極的に関与していくが、著者はこのドイツ人のあだ花のように咲いた運動を、当初は熱心に運動をリ−ドしていくが、その後一転反共色を強め離反していくシュバルツシルドを主人公として描いている。ト−マス・マンを巡る今までに記した論争の多くに名前が見られるこの亡命ジ−ャナリストは、この書物の全編で、言わばマン家族の活動を側面から照らす視座を形成しているが、ここではこのフランスやスペインの人民戦線に触発され開始されたドイツ亡命者による運動の盛衰を一身に体現しているように描かれている。この時期ハインリッヒ・マンに象徴される「市民的ヒトラ−反対者」や「自由主義的知識人」の共産党及びソ連への接近が見られたが、この傾向を政治的運動まで引っ張っていったのが、シュバルツシルドらであったというのが著者の見方である。彼らにとっては、この運動が単なる反ファシズム運動ではなく、「ソピエト社会主義の民主化」をも目指すものであったことは特記に値する。こうした流れの中で見ると、前章のト−マス・マンの反ナチ宣言はシュパルツシルドにとっては、アメリカに亡命していた大物政治家プリュ−ニングを担ぎ出したのと同様、人民戦線内部で民主主義勢力の権威を昂揚させる価値があったことが理解される。しかしシュバルツシルドらの必死の仲介にもかかわらず、共産党、社民党そして自由主義者たちの三つ巴状態は解消できず、結局この運動は共同綱領を作ることもできず空中分解してしまう。そして1936年以降次第に明らかになってきたソ連における粛清の進行により、シュパルツシルドは一転激しい反共主義者に変貌し、反ナチ亡命運動は今まで以上に分裂し、政治力を喪失していくことになる(第五章)。

ト−マス・マンの反ナチ宣言が、決して全ての亡命文学者から歓迎されたものでなかったことが、スイス人ヘッセのドイツ亡命文学者とマンヘの批判として語られる。ヘッセに代表される批判の論点は二つ、今後マンの作品はドイツに残っている人々、亡命をしようにもできない人々から引き離され、彼らに希望を与えることができなくなる、という点と、今更反ナチの態度を明らかにしたとしても、彼が共に戦える勢力などどこにも存在しないのであるから全く無意味な行為である、という点である。著者はこのマンの宣言がベルリン・オリンピックというナチにとっての国際的威信をかけたイベントの前に出され、ナチもあからさまな迫害(2月の宣言に対し、国籍が剥奪されたのは12月になってからであり、その間に彼は亡命に向けての準備を行うことができた)を行えなかったところにマンのしたたかさを見出している。しかしそうした判断とは別に、この決意表明によりマン自身も否応なく分裂する亡命運動に歩み寄っていかざるを得なくなるのである(第六章)。

ソ運での粛清裁判の開始が、いかに自由主義的知識人に苦しい試練を課したかは言うまでもない。ジッドの「ソピエト紀行」を巡る論争がこれに続く。そしてこの二つの事件が「文字通り根無し草である亡命文士と亡命先でいつ『粛正』されるか分からない亡命政治家」の連合であるドイツ人民戦線運動に修復しがたい亀裂を引き起こしたのは当然であった。著者はマンの国籍剥奪、ポン大学名誉博士号剥奪とそれに対する反論が、亡命運動が分裂状態に陥った時期に行われたことに注意を喚起している。「(ソ連に対して)距離をとっておくことが必要だ」というマンの思惑は、シュパルツシルドらの亡命社会右翼からはジッドの反ソ的態度と同様なものとして受け止められることになる(第七章)。

こうしたマンの姿勢を示すことになったのが、1937年にマンを編集人として刊行された新たな亡命文学雑誌「尺度と価値」であったが、これは当時こうした雑誌の主流であった共産党糸の「言葉」に対比されることになる。これにシュバルツシルドの「ノイエ・タ−ゲスブ−フ」が加わり、ソ連派と自由主義知識人たちの争いが泥沼化したのと同様、この亡命雑誌間の軋轢も増大していく。「言葉」における表現主義論争(1937年)も、こうした反ナチス亡命者の内部の決定的な亀裂の現われと言える。こうした混乱の中、亡命文学の若き闘士クラウス・マンは、亡命の緊張と反ナチ運動の分裂の中で精神に変調をきたし麻薬中毒に陥っていた。シュパルツンルドが新勢力結成への参加依頼を送ったのはこうした状態にあるクラウスに対してだったのである。非党派性や精神的自由がただちに党派性を帯び、またそうした非難を招く時代。ト−マスやクラウスらマン家の人々は、その影響力故に、まさにそうした渦に巻き込まれざるを得なかった。結局悩めるクラウスはシュパルツシルドの「同盟」から脱退すると共に、その事実を親ソ派に公表することもせず、新たな個人としての反ナチ運動の拠点をアメリカに見出していくのである(第八章)。

時を同じくしてト−マスも講演旅行でアメリカヘ向かう。オ−ストリアに暗雲が立ち込め、マンはナチによる併合の知らせをアメリカで聞くことになる。この前年暮れ、既にロンドンで執筆活動を行っていたツバイクが、破局の予感に一時帰国した際に見たのは相変わらずタキシ−ドでの夜会に明け暮れ、クリスマス・プレゼントを買いに走る呑気なオ−ストリア人であった、という。併合に続く急速なナチ化とそれに比例した大量の脱出者の群れ。チェコに亡命していたプロッホもこの知らせを受け、ただちに欧州に見切りをつけアメリカに渡る。そこには既に1934年に亡命してきたフランクフルト学派の人々がいた。そしてト−マスもそうした決意を固めつつあったところに独ソ不可侵条約の衝撃が亡命者社会全体を襲うことになる。特に「共産党系の反ナチス亡命者たちは、この条約により彼らの反ナチス性そのものの信憑性を奪われてしまい、反ナチス亡命者としてのアイデンティティ−を喪失」してしまったのである。同時にドイツ亡命者の欧州における活動の中心であったフランスではシュバルツシルドのような一部の熱狂的な反共主義者を除き、中心的な活動家がこれを機会に逮捕・拘束されドイツ亡命文学者の欧州での活勤は事実上終息し、以後アメリカが活動の中心になっていく。そしでそこにも分裂は持ち込まれたのである(第
九章)。

大戦中の反ナチ文学者の軌跡は様々である。ナチに逮捕された者、逃避行の最中に倒れたもの、占領地で、あるいはドイツに戻り生き抜いた者、ツバイクのようにブラジルを亡命先に選んだ者等々。その中でアメリカに亡命したマン親子は、父が引き続きそこで大作を完成させていったのに対し、息子は英語での雑誌を発行するが1年で廃刊に追い込まれ、その後はむしろ軍人に志願し北アフリカ等で「心理作戦部隊」の一員として働くことになる。しかしそれが彼の天職ではなかったことは明らかである。そして物語は戦後へと跳ぶ。

クラウスが「メフィスト」の中で、低劣なナチス迎合を非難したグリュゲントスの復帰と公演での聴衆の熱狂。クラウスの「メフィスト」のドイツでの復刊の試みは、それがグリュゲントスをモデルとしているが故に出版社から担否される。「反ナチスの志操を心中に堅持しながらも国内に踏み止どまり、国民と共につくしがたい艱難辛苦に耐えてきた」国内亡命派からのト−マス・マン批判が始まっていた。ナチス迎合を非難されたG.ベンが1950年代には今世紀最大の詩人と称賛される。カンヌでの服毒自殺により42年の生涯を閉じる前年の1948年、クラウスは「なぜドイツに帰らないのか」という問いにこう答えた。「あそこの人々が私を望んでいないからです。」ハインリッヒ・マンは東独へ帰る決心を固めたが、出発直前に倒れカリフォルニアで逝去。享年79歳。そしてト−マスは1952年に、14年を過ごしたアメリカからヨ−ロッパに戻るが、スイスに居を構えドイツには時折訪れるだけであった。彼が死んだのは1955年、チュ−リッヒにおいてであった(終章)。

反ナチス亡命運動は決して「輝かしい抵抗運動」だけではなかった。それは何度も書いてきたとおり、知識人の生活全体が政治化された時代の中で、常に苦しい選択を突きつけられ紆余曲折を経た運動であった。そして軽重は異なるとはいえ、政治的には安定した現在の我々の生の中でも、ある部分での政治化とそれに対する態度決定を迫られる状況は絶えず発生している。大学時代に政治化の危険とそれに対するシシュポス的態度の有効性を確信した私にとっては、この書物で繰り広げられたマン家の人々を巡る決断の軌跡は、ある部分は古く、ある部分は極めて現在的な問題に思われた。それが、私がこの書物を、時として郷愁の念を抱きながら、またある時は自分が現在必要とする判断を思い浮かべながら熱中して読み上げた理由であろう。更に私が現在生活しているドイツ現代史の否定的側面を知らされることは、翻って私の依って立たざるを得ない日本の戦後史をも反省する機会をも与えてくれるのである。政治化された時代における個人の生き様につき、忘れられた熱狂を取り戻すことができる、そうした書物であった。

読了:1996年1月9日