アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第七章 文化
第三節 ト−マス・マンとその時代
廃墟をさまよう人々−戦後ドイツの知的原風景 
著者:山口知三 
2年前に読んだ前著で、反ナチス亡命者たちの戦前から戦中にかけての足跡を、ト−マスとクラウス・マンという父子を軸に描いた著者が、その続編として、彼等が戦後ドイツの政治的・経済的・社会的変化の中で如何に生きたかを追いかけた作品である。ナチの時代を亡命者として生きた作家たちは、戦後を如何に体験したのか。独裁と熱い戦争の時代の生きざまは、民主主義と冷たい戦争の時代が到来した時に大さく変貌していった。戦時中に彼等が直面した現実はあまりに常軌を逸していたが故に、彼等はその体験を戦後も引きずらざるを得ない。しかし価値が転換する局面で、それまでの体験の意味は変わっていく。こうした精神史転換点の中であがいたドイツ知識人たちの群像を、本書は前作にも増して生き生きした内面描写と共に描いている。

前著と同様、多くの個性的な作家、評論家、ジャ−ナリストが登場するが、この書物を貫く通奏低音は何よりも国外亡命者と国内亡命者の精神的断絶という位相であり、その意味で、前者の代表格であるト−マス・マンを一方に、そして彼に対する批判者たちが他方の核に置かれることになる。

物語は、歴史小説家であり、ナチのドイツに留まった「国内亡命派」のW.v.モ−ロが、打ちひしがれたドイツ国民を元気つけるために、戦後もアメリカに留まっていたT.マンに対し帰国を懇請した公開書簡から始まる。この書簡は、マンヘの懇請の体裁を取ってはいるものの、実はそれに先立ってマンがドイツ人に対し呼びかけた、アウシュピッツヘの全国民総懺悔の主張に対する隠された批判としての意味も有していた。その呼びかけの中でマンは「ドイツ語を話し、ドイツ語を書き、ドイツで暮らしてきた全ての者」が強制収容所問題から無縁でない、と断定したのである。

国内に留まっていた人々にとっては、マンのこうした断定は、米国占領軍の対応と同様、弱り切ったドイツ人の横っ面を張り飛ばす行為に思われた。確かにマンは異国で苦難の亡命生活を続けざるを得なかった。しかし、国内に留まった人々から見れば、彼は少なくとも亡命し、そこで生活を築くことができる程に有名だったのであり、更にそこからナチを批判することも容易であった。そうした人間が、亡命しようにも、つても生活の基盤もなく、国内で反ナチであることが生命を危険に曝すことを意味した人間たちを斯くまでも非難できるものなのか。この論争と、その後この物語を貫く対立は、こうした売り言葉と買い言葉から始まったのだった。

日本の戦後知識人問題を議論する際にも常にテ−マとなる個人的な戦争体験の評価が、マンのある意味で極端な主張によりドイツでも浮き彫りとなる。例えばナチ時代にも教会の権威を維持し、「第三帝国内でナチスに面従腹背の姿勢をとっていた人々の心の支えとなっていた」者のひとりであった、ミュンスタ−教会のガ−レン司教は、戦後の連合軍やロシア軍の横暴を公然と批判していたが、マンは彼を名指しの上「彼等はヒトラ−とどこが違うのか」とまで非難したのである。確かにマンにとってはドイツのこうしたナショナリズム自体が最大の問題であり、これが決定的に変化しない限りナチの体験は風化すると見なさざるを得なかった。この原理的批判は、その後日本とは比べられない程ドイツの戦後民主主義教育の中に息づくことになったとはいえ、戦後間もない時点で、それが論壇あるいは大衆の支持を得たかと言うとそれは別問題である。確かに「マンらの国外亡命者よりも国内亡命者の方が倫埋的にも優越している」という歴史小説家F.ティ−スのような非難は極端であったとしても、圧倒的多数が国内に留まっていた状況で、彼等を一緒くたに批判するマンの姿勢は、表面的には甘受せざるを得なかったとしても、心の底から国民に受け入れられるものではなかったことは疑いない。更にマンと同様の国外亡命者であってもマン程知名度が高くなく、その結果亡命地で辛酸を舐めた人間−例えば著者は平和主義・社会主義的ジャ−ナリストのM.パルトのマン批判を紹介している−からもマンの傲慢さに対する批判が上がり、またマンも協力していた亡命ドイツ人雑試の「ドイッチェ・ブレッタ−」さえも先のティ−スのようなマン批判を支持することになる。いずれにしろ著者が総括しているように、この論争は「事は決して個人的ルサンチマンの次元に留まるものではなく、国外亡命者たちの内部にも潜在していた深刻な亀裂に関わるものであり、この亀裂がトマス・マンヘの帰国要請とその拒否という事件が契機となって、一瞬どぎつい照明を浴びて浮き出して見えたもの」と言えよう。

しかし実はドイツ人亡命者社会において、こうしたドイツ国民のための救済要請運動とそれに対する反対という構図は他にも起こっていた。ノ−ベル物理学賞受賞者でもあるシカゴ大学教授J.フランクが起草した草案に対し、アインシュタインは、単に署名を断っただけでなく、これを潰すことも辞さないという強硬な反対を唱えたのである。この争いに調停役で登場したのがE.ブロッホであるが、彼の主張は、ドイツ国民を助けるとしても、ナチの残党とそれ以外を峻別すべし、というものである。

彼の主張が、ドイツ国内のナチ勢力に対する以上に、亡命地アメリカにおける親ナチや反リベラル、反ユダヤ的な右翼勢力を念頭においてのものであることを著者は指摘している。即ち後にマッカ−シ−旋風となって荒れ狂う米国右翼からの反ナチス亡命者への風当たりは当時既に高まりつつあったという。「第二次大戦直後期のアメリカ在住の反ナチス亡命者たちの動向を考える時には、ヒトラ−の死とル−ズベルトの死とがほとんど時を同じくしていたという歴史の偶然が結果的に持つにいたった意味の大きさを忘れてはならない。当時アメリカで台頭しつつあったのは反ナチス亡命者が無視しえない程の「国内の冷戦」と「ニュ−ディラ−狩り」であったのである。

他方正真正銘の反ナチス亡命者グル−プの中でも、ドイツの敗色が濃厚になり、それが東部国境線の変更とドイツ人の大量追放の動きに移ると愛国主義的論調が登場することになる。著者によると1980年代の歴史家論争で、東部国境におけるドイツ軍の英雄的奮戦の評価を巡る対立が議論の中心であったのも、基本的には同じ感覚が現れたものであると言う。反ナチスの立場を貫いてさた者が、「この問題に関してだけはナチス顔負けの強硬な反対の姿勢をとった」例が存在し、そうした意識がそのままドイツに対する苛酷な占領政策を行う連合国に対する反感につながっていったという事実が、戦後ドイツ知識人に当初から存在した単純ではない感覚の交錯を物語っている。

こうして亡命者たちが真摯な論争を戦わせていたのと対照的に、戦後ドイツの中で戦前、戦中の経歴にもかかわらず、うまく立ち回っていた者たちもいた。第三章で取り上げられる「国内亡命」作家・ジャ−ナリスト、ジュ−スキントの物語は、そうした要領のよい男のマン一家との確執も含めた面白い読み物となっている。青年期にはマン家のクラウスやエリカと親密な友人でありながら、その後ナチス体制に順応し、戦時中はナチス占領下のクラコフでの新聞編集にも従事していたこの作家は、戦後のナチス犯罪断罪の場であるニュ−ルンベルグ裁判に報道記者として姿を現し、この裁判を冷静に報道すると共に、再会したエリカに復縁を迫るのである。更にト−マス・マンについては、「彼は自らの意思で亡命したのではない」と言い、むしろマンの身の潔白を証明してあげたつもりになっていたのである。著者はこれを「『国内亡命』派の分筆家や知識人の面目躍如」と皮肉っているが、このジュ−スキントがこうした姿を悔恨の念を微塵たりとも見せずに真摯に演じているだけにより喜劇的である。

他方、一時収容所暮らしも経験した保守的キリスト教作家ビ−ヒェルトのように、「外国の桟敷席からドイツの悲劇を見物していた」マンら亡命作家のみならず、国内に留まった枢機卿から怨恨に満ちた「強制収容所からの生還者」、「反ナチス自称者」、更には「ナチスよりもひどいアメリカ兵」とほとんどあらゆる立場の者を撫で斬りにした者もいたと言う。まさに百鬼入り混じった感のあるドイツ戦後模様である。

いずれにしろ、1947年頃から国際ペンクラブヘのドイツ作家の復帰が論議されるが、同時に冷戦の予兆が現れる。そこに登場するのがモスクワ帰りの亡命作家で、後に東独文化大臣まで登りつめるJ.R.ベッヒャ−である。彼はある意味で対立する「国外亡命者と国内亡命者」を仲裁する役割も含め、「全ドイツ文学者会議」の開催を含め戦後ドイツの文学者たちによる大同団結の動きの中心になった。しかしまさにこの会議の最中にコミンフォルムが結成されたように東西冷戦の流れは変えることのできないものになっており、会議も米国ジャ−ナリストのアジ発言等を契機に結局は分裂色を示して終了することになる。しかしこの頃ドイツ南部のバンバルド湖のはとりでH.W.リヒタ−の主催で「47年グル−プ」が誕生していたことも特記されなければならないだろう。この47年グル−プの中では、最早国内/国外亡命といった違いは本質的なものではなく、その意味で著者が戦後直後の時期の論争が「しょせんは激流のように急展開をみせる歴史の歩みに追い越され、取り残されようとしている旧世代の知識人たちの懸命なあがきであり、悲喜劇的な右往左往にすぎなかった」と言っているのも頷ける。

とは言え旧世代の時代との格闘は続く。1947年から1949年にかけては、国内/国外亡命者間の面当てが、今度は東西冷戦両陣営の抗争に発展していった時期であるが、良心的インテリたちはこの対立を何とか和らげ、統一ドイツの精神世界を作りあげようとしていた。アメリカに亡命していた共産主義者カントロピッチ編集による「オスト・ウント・ウェスト」はそうした奮闘を行い、そして時代に逆らえず憤死した典型例として取り上げられている。東西の対立から中立を保ち、更にそれに架橋しようという当初の真摯な意思は、西側でのナチス・テクノクラ−トの復権と共に次第に論調を変え、カントロピッチがル−ズベルトの後継と見なし、トル−マンの対抗馬であったウォ−レス支持の論陣を張るという形での反アメリカ・キャンペ−ンに向かうと共に、他方でケストラ−批判という形で共産主義の冷静な批判の道を閉ざしてしまうのである。

章が変わり、話は1948年のドイツ国民議会開催100周年に飛ぶ。当時西側占領地域の実質的な議会であった「経済評議会」が置かれていたフランクフルトでの記念式典とそこでの亡命文学者フリッツ・フォン・ウンル−の記念講演、及ぴその年のゲ−テ賞の受賞。ここで当時のフランクフルト市長コルプの講演依頼をまたしても、しかし今度は丁重に断ったト−マス・マンの対応が取り上げられる。しかし結果的には、戦前フランクフルトで上演された演劇の反ナチ色故にアメリカに亡命せざるを得なかったウンル−のこの講演は「ナチス・ドイツヘの真摯な批判や反省と反共産主義のブロパガンダの見事な一例」となったのである(そのウンル−も、その後ドイツの反共的色彩が強まりナチ官僚の復権が進むと、それを批判したことから西独社会の中で次第に孤立し、コプレンツ近郊で寂しい晩年を過ごすことになる)。そしてこの記念式典と同時にフランクフルトで開催された第二回ドイツ作家会議が東側の文学者のポイコットにあったことも、フランクフルトが体験した戦後ドイツの一断面として記しておく価値があろう。そして話は最終章、1949年のゲ−テ生誕200周年記念式典−これもフランクフルトが舞台である−に移る。

当時マンは既に「アメリカではいま『反共産主義』の名のもとに自由な言論が弾圧されつつあり、いま戦争を欲し、平和を脅かしているのは共産勢力ではなくアメリカである」との認識を有していたが、1949年のゲ−テ賞が、アインシュタイン、ハイゼンベルグとの接戦の末マンに与えられると、当初はドイツ行きを躊躇していた彼も、最終的にはこれを受入れ、l949年7月「まるで戦場に赴くような気持ち」でフランクフルトに到着、16年振りにドイツの土を踏むことになるのである(直前に起こった息子クラウス・マンの自殺でこれも中止の危機に曝されたのではあったが)。確かにナチの支配によりぞの文化性をとことんまで落しめられたドイツ人にとっては、ゲ−テは国際社会への復帰のための格好の素材であった。そしてそれは、分裂した二つのドイツが夫々「ゲ−テに象徴される人間的で文化的なドイツの正統な後継者」であることを競ったことにも示されることになる。フランクフルトのゲ−テ・ハウスの再建が、ワイマ−ルのそれとの競争の中で行われた、というのも、まさにこの時代の雰囲気を物語っている。そしてフランクフルトで、ト−マス・マンはクラウスの自殺により予定を早めた講演を行った後、それまでは態度を明らかにしていなかったワイマ−ルでの講演も同様に受け入れることを突然表明し、もう一つのゲ−テ縁の地へ赴き、「ドイツ的・民族的なものと地中海的・ヨ−ロッパ的なものとの全く自然で明快な総合という一つの奇跡」を讃える講演を繰り返すことになるのである。

このマンの16年振りの里帰りから1カ月程した9月には、西独は連合軍による軍政から、アデナウア−を首相とする民政ヘ、また東独では10月になり正式にグロ−テポ−ルの指導下ドイツ民主共和国が発足する。マンは1952年、マッカ−シ−旋風が渦巻くアメリカに別れを告げ欧州に帰還。しかしドイツには戻らず、1955年チュ−リッヒでその80年の生涯を終えるが、これと共にこの戦後直後のドイツ知識人苦悩の物語も終焉するのである。

知識人の論争もまた、時代を取り巻く環境の産物であるとすると、戦後ドイツの戦争責任を巡るこれらの議論は、まさにナチスの敗北から冷戦の開始に至る時期のドイツを取り巻く政治・経済・社会環境を如実に反映していたと言える。ナチスの時代に大量の難民、しかも、現代のそれと異なり、大量の知的難民を生み出し、且つ彼等の多くが当時民主主義の理想を体現していると考えられた米国に受け入れられたこと、しかしそこでの現実は必ずしも彼等が予想したものではなく、特に戦後そのアメリカが反共の旗手として国内的にも抑圧的政治を強めていき亡命者たちの失望をかっていったこと。同時にソ連へ亡命した人間はそれ以上に苛酷な運命にもてあそばれることになったこと。こうした歴史の流れの中で、祖国を離れた人間たちは、祖国を破滅に導いた自国民の責任を徹底的に追求せざるを得なかった。しかし、彼等がそれを追求すればするほど、自国民からは孤立していき、しかも彼等を受け入れた国の変貌と共に、自国を批判することが、彼らを受け入れた国々をも批判することになり、それらの国々からも胡散臭い扱いを受けることになるという袋小路。結局は自国に残り、ジュ−スキントのように要領よく生きた人間が気楽な生き方を享受するという実人生の皮肉がそこには見え隠れする。しかし、まさにドイツ戦後の知識人たちが、時代の課題を真摯に受け止め、それに最大限の誠意で正面から立ち向かっていった姿は感動的である。亡命者の立場からドイツ国民全体を敢えて敵に回したマンも、あるいは国内亡命者の立場からマンを批判した者たちも、私はあえて称賛したいと思う。それはまさに日常性の中で忘れ去っている、かつて私が心の底に刻み付けた言葉を思い出させてくれるのである。パッション、それは時に情熱と訳され、また時に受難と訳される。ドイツの戦後の知的生活を担った彼等は、まさにこのパッションの持つ意味を再ぴ私に考えさせてくれた。言うまでもなく、この流れは60年代に新たな思潮を生み、私の原点に至る流れを作り出すことになるのである。その意味で、この書物は前作と同様、こうした流れの源流を、知識人一人一人の内面とその生き様と共に描き出してくれたのである。

読了:1998年4日8日