ギュンター・グラス
著者:依岡 隆児
私はギュンター・グラスの良き読者であったとは言えない。彼の小説作品で読んだことがあるのは、ノーベル賞受賞の主要業績となった「ブリキの太鼓」と、90年代の「鈴蛙の呼び声」、そして「ドイツ統一問題について」と題された評論の3冊だけである。しかし、この作家の作品や行動については、今までいろいろな機会に接してきたことから、心情的には非常に親しみを感じている。今回は、偶々彼の「初めての評伝」が新書で出たということから、気楽な読書対象として、久々にこの作家に触れてみようということで読み始めた。
この作家の小説は、決して読み易いという訳ではなく、それがこの作家の作品を続けて読もうという意欲を萎えさせることになった。友人の奨めで「ブリキの太鼓」を読んだのは、確か大学時代であったと思うが、十分にあった時間にも関わらず、文庫本三冊のこの作品には結構苦戦した覚えがある。しかし、その後これが映画化され(1979年)、それを見ることで、ようやく原作の全体観を掴むことができた記憶がある。そんなことで、それから長い間この作家の作品に接する機会がなかったが、丁度私のドイツ滞在時に、東西ドイツ統一問題で、ハバーマスらと共に、拙速な統一に対する反対の論陣を張り、それによりマスメディア等からバッシングを受けていたことから、ドイツからの帰国後に上記の評論と、旧東独地域からの移民を素材とした小説を読むことになった。しかしそれ以外は、時折環境・原発問題などの発言で新聞紙上でのコメントに接する程度に留まっていた。それにも関わらず、「47年グループ」の主要作家である彼は、ドイツ知識人に関する論考では、至る所でコメントされてきたことから、私にとっては近しい存在であった。その意味では、私のグラスに対する理解は、彼自身の作品を通してというよりも、こうした第三者による解説で形成されてきた側面が強い。そして今回も、彼の作品そのものということではなく、彼の評伝という解説本で再び彼に接することになったのである。
1927年生まれであるので、既に80歳代後半に差し掛かっているこの作家の軌跡はなかなか興味深い。この評伝の著者は、「渦中」の文学者、という副題を付けているが、ナチスからドイツの戦後処理問題、70年代以降の環境問題から90年代のドイツ統一問題、核批判やイスラエル問題、そして最近では自身の「親衛隊」での活動告白など、彼はそれぞれの時代に「スキャンダラス」な物議を醸す発言で知られてきた。しかし、その発言の直後はメディアのバッシングを受けても、知らず知らずのうちに復活し、引続き存在感を回復するという逞しさを示してきた。その意味で彼はウナギのような掴みどころのない存在であり続けながら、戦後世界の変転を生き抜いてきた作家であるといえる。しかし、同時に彼が、憲法改正を巡り「ナチスに見習え」などという場当たり的な発言をしてバッシングにあっているどこかの国の政治家と異なるのは、その一瞬カメレオン的な発言の背後に一貫した思想と生き様があったからであろう。その意味で、彼はまさに何度かの大きな転換が行われてきた戦後世界を見届けてきた数少ない知識人であった。
著者は、こうしたグラスの人生を跡付けているが、詳細には立ち入らず、面白い部分だけ確認しておこう。まず重要なことは、彼が一般に見られているような単純な「行動派の左翼作家」ではない、という点である。悪く言えば、それなりにヘッジをしながら文学・言論界を生き残ってきたという見方もできるのであろうが、少なくとも単純な「左翼テーゼ」に依拠してきた訳ではない。そしてそれは、やはり彼が「様々な文化が混在する比較的寛容な文化風土」のダンツッヒに生まれ育ち、その後戦争に巻き込まれると共に、戦後は「鈴蛙の呼び声」の主人公と同様に、ドイツ・ポーランドの国境変更に伴う強制移住でドイツに帰還した「東方難民」であるという経験が原点になっているのであろう。その意味で、日本の戦後派知識人と同様、価値観の転換を否応なく体験させられ、その相対性を嫌という程植えつけられた世代と言えるのである。そして「戦争などなかったかのように授業が再開されようとすることに(中略)ショックと失望を感じ」、ギムナジウムを中退し、石工として社会生活を開始することになるが、この経験からその後美術学校への入学を許されることになったというのは面白い。そしてそれが「作家で画家・彫刻家で、料理人、ジャズもやれば墓石も彫れる。映画製作にもかかわりCDも作る」という職人気質の源泉となる。
47年グループの参加をきっかけに、彼の詩人・作家としての才能が認められるが、この47年グル−プというのは、主催者の作家ハンス・ヴェルナー・リヒターが個人的に主催する朗読・批評会であったというのは、ここで初めて知った話である。
「ブリキの太鼓」で表現された世界の不安定性とグロテスクさは、アドルノの言う「アウシュビッツの後に書くこと」の意味を求める路の里程標であり、そこからまさに彼は「ドイツ問題」にシーシュポス的に対峙していくことになる。この小説は、続く「猫と鼠」「犬の年」と共に「ダンツッヒ三部作」と呼ばれるようであるが、ここで彼は「必要以上に支配的イデオロギーに従属しようとするユダヤ人たちや社会的弱者をめぐってのコンプレックスと権威主義、そして戦後の経済復興における戦争責任の希薄化などを盛り込んだ」というのは、日本の戦後派とも重なる部分である。そして60年代になると、書斎を出て社会民主主義の立場から政治活動に参加するというのも、日本の同種の人々と重なる行動である。特に彼はブラントを強く支持し、1970年、ブラントがワルシャワのユダヤ人ゲットー跡で跪いた有名なポーランド訪問にも同行してその場にいたという。但し、彼は政治との一定の距離感を取り続けたが、その背後には「デモクラシーは『葛藤』から成り立っている」として、「政治の『闘争』の場に身を置くことを躊躇しなかった」という。この辺りは、著者は「若くしてカミュ信奉者であったグラスの当然の帰結だった」としているが、ここでグラスとの関係でカミュが出てきたことに、個人的にはやや驚くと共に、それが私がこの作家に親近感を抱いてきた理由の一旦であると妙に納得してしまったのであった。
こうした政治との曖昧な関係は、女性関係でも同様で、前妻との間の4人の子供に加え、別に愛人二人にそれぞれ子供を産ませている他、二人の子連れと再婚している。しかもそうした子供たちが、お祝いの席などでは一同に会するというから、全く能天気な家族関係である。同じ戦後派「火宅の人」のいる家族風景でも、日本の島尾敏夫の地獄絵などとは対極にある風景である。また70年代以降、多彩な才能を生かし、版画工房や演奏家など分野の違う人々とのコラボを企画したり、自分の小説の取材に調査員を雇ったり、翻訳者を集めた会議を開催したりといった新しい試みも行ってきたという。
70年代後半以降、グラスは彼が師と仰ぐ作家アルフレート・デーブリンの影響もありアジアを旅するようになる。1978年、初来日し大岡昇平や大江健三郎と親交を深めた他、86−87年にかけては、半年間コルカタのスラム街に滞在したりしてアジアの体験を深めていったという。そのドイツ、あるいはヨーロッパ相対化の視点は「頭脳の出産―ドイツ人が死滅する」というアジア帰国で語られているというが、もちろんこれは欧州人のエキゾチズムへの憧れという側面はあるのであろうが、彼のような人間がアジアをどう見ていたかというのは一度確認しておいても良いだろう。そうした中で、90年代以降は、東西問題から南北問題により関心を移すと共に、前日のとおりドイツ統一問題(これを扱った「はてしない荒野」は面白そうである)、核批判やイスラエル問題などに関わっていくことになる。そして「メジャーになればなるだけ、マイナーにこだわる」ことが可能になった彼は、ロマの支援などにも積極的に関与していったという。
1999年のノーベル賞受賞と2006年のナチス親衛隊員であったことの告白は、ここ10年程の彼を巡る大きな事件であるが、彼はこの2つの対極的な事件もさりげなく通り過ぎる。その後も「ヴィルヘルム・グロストフ号事件」というそれまでタブーであった、大戦末期の難民輸送船のソ連による撃沈事件を取り上げた小説を発表したり、リュ−ベックにギュンター・グラス・ハウスを建てたり、更に2010年には自分のメルヒェンの原点であるグリムを小説で取り上げたり、そして2012年には「核疑惑のイランへの先制攻撃を画策するイスラエルを非難」したりと、彼の活動と挑発は80歳を越えても留まるところを知らないかのようである。
こうしてこの戦後ドイツを代表する作家の人生と作品を見てくると、まだまだ世界には自分が入っていかなければならない世界が多いことを実感できる。そしてこうした解説本は、それをきっかけに、その原典にあたってこそ、初めてそれを読む意味があるものなのである。ここで久し振りに接したこの作家の肖像は、今後またドイツ的世界に戻っていく際に、間違いなく幾つかの素材を与えてくれるような気がする。その際に、改めてかつて耽溺したカミュの世界を反芻するということも併せて、私自身の生涯の課題である「ドイツ問題」を考えてみたい。
読了:2013年8月2日