アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第七章 文化
第四節 文学 
鈴蛙の呼び声
著者:ギュンタ−・グラス 
 ドイツ統一が西独保守政権の戦後最大の勝利であったとすれば、他方でこの事件はドイツの戦後知識人にとっては一時的には最大の敗北であった。日本と同様、政治家たちは戦争の記憶を一刻も早く払拭することに邁進し、民主主義の相対的安定と経済の奇跡的復興と発展の上に安住してきたのに対し、知識人たちはナチによる歴史上例を見ない大量殺人とそれに続く自己崩壊を忘却すべからざるものと位置付け、この歴史の暗黒を原点に表面的な安定を批判してきた。そして70年代の大規模な異議申し立てが終息し、相対的な安定期が訪れた後も、そこで舞台に登場した知識人たちは社会の中でそれなりの存在感を維持し続けていたのであった。

 そうしたドイツ戦後知識人の一つの中心がハ−パ−マスに代表されるフランクフルト学派の哲学者たちであったとすれば、もう一つの中心はH.ベルやG.グラスに代表される文学者たちであったと言える。彼らに共通するのは、アウシュピッツの後で哲学や文学は本質的に変質した、この歴史を刻印しない言論、理論は全て欺瞞である、という確信から出発したことである。その上で、双方共この原罪を忘却するあらゆる試みに積極的に反対の論陣を張ってきた。そしてドイツ統一という事件も、その例外ではなかったのである。

 しかし、統一の嵐の中で、特に旧東独の民衆を中心とする国民の大多数は、戦後知識人の理念ではなく、高水準の消費生活を素直に選択した。ハ−バ−マスやグラスの統一反対論は一瞥だにされず、その結果彼らの言論のみならず存在自体も影響力を喪失することになった。その意味においてドイツ統一はドイツ戦後知識人にとっては戦後最大の敗北であったと言えるのである。このグラスの最新作はそうした敗北の中から生まれた作品であると言える。

ド イツの迷信で、災いを呼び寄せるという鈴蛙(Unken)の鳴き声(Rufe)。このタイトルがやや思わせ振りであったと言える。グダンスク街角の、花屋の屋台の前で出会った男と女。男はポ−ランド生まれで、戦後ドイツに引き上げた後、美術史の教師となり今初老を迎え、女はポ−ランドに残ったドイツ人で共産党に入党すると共に、美術品修復の金箔職人として30年働いてきた。それぞれ伴侶をなくし、子供も独立したこの二人が、ポ−ランドにある、荒れ果てたドイツ墓地に対して抱いた苛立ちが物語の発端である。「ポ−ランド・ドイツ・リトアニア墓地協会」ー死者の魂を帰郷させるため、ポ−ランドにドイツ人墓地を建設・整備すること。そのための資金集めを開始する2人の初老のカップル。壁の崩壊に伴う統一ドイツヘの不安が二人の会話の中で触れられ、この出来事が進行する時代が示されることになる。60年代の混乱を左翼リベラりストとして生きてきた男は、今や「分製し、直線的な行動ができず、あれにもこれにも力を小出しにする、どんなテ−マに対しても落ち着きなくうろちょろする」ことから、学生たちに「鈴蛙」とあだ名されていることが語られる。その彼が、「統一によってドイツ問題を解決することは、純粋に感情的には望ましいが、他方ではナショナリズムの横溢と『悪夢のようにのしかかってくる、ヨ−ロッパ中央の巨像』を恐れた」と感じるのはグラス自身の感覚を代弁させているようだ。

 大晦日にベルリンその他の場所で繰り広げられる「狂気の沙汰」と二人の出会いがもたらした「妄想−感覚」が重ね合わされる。ダンツィヒの旧住民が逃れたシュレスウィッヒ−ホルシュタイン、ハンプルク、ブレ−メン、ニ−ダ−ザクセンからの「埋葬希望者」の見積もり。集める資金はドイツ統一の象徴であり今や強力になったドイツマルクである。

 こうして「宥和の墓地」と命名される新たなドイツ人墓地の維持管理会社の設立と用地の買収が行われる。協会に集まった人々の群像、最初の埋葬、「死者たちを商売の種にする」、「死者たちとともに再侵略」といった非難、基地を囲む垣を巡る住民との軋轢、協会から男の友人の輪タク会社への出資、男女夫々の子供たちとの冷めた邂逅、そして死者の改葬を巡る協会内の対立といった出来事が、通貨同盟、湾岸戦争勃発、ドイツ統一といった政治的事件と重ね合わされながら進行していく。しかし順調に規模を拡大してきた協会の業務を多角化していく過程で、次第に資本の論理が、純粋な心情から始まったプロジェクトに浸透していく。協会がゴルフ場建設に進出しようとしたのを機会に、2人は協会を去り、結婚し、そして最後は失意のイタリア旅行の途中で自動車事故により揃ってその生涯を終えることになるのである。

 言うまでもなく、グラスが描きたかったのは、ドイツ統一の転換期の一断面である。「追放の世紀」の締めくくりとして、ポ−ランド.ドイツ関係を運命として背負った人間が、投げ込まれた状況、言い方を変えれば、ベルリンの壁崩壊からドイツ統一という時代の転換と価値観の交錐の中で、戦後知識人が入り込んでいった袋小路である。アウシュピッツと難民の群れという相反する視点が、自らのよって立つ基盤を両義的なものとする。グラスはそこからあえて世論に背を向けドイツ統一反対に固執した。しかし、文学的にはその結論はそれ程簡単な結論ではなかった、というのがグラスの内面の叫びであるように思える。東西ドイツ人問の間に広がったしこりは、ドイツ、ポ−ランドの間ではより拡大する。そうした両義性を抱えたインテリの、死者を媒介に土着性へ回帰しようという試みが、資本の論理に敗北し、最後は南イタリアでの何気ない死により終わるというのは何とも寂しい話である。言わばその結末はドイツ統一の過程でいとも簡単にマルクの論理=資本の論理に飲み込まれていった民衆に対する、グラスら知識人の苦渋を示していると言えるのではないだろうか。

 いずれにしろ、20年近く前に読んだ彼の「ブリキの太鼓」と同様に、分かり難い文章に癖々とさせられながらも、何とか読み終えたことに対し、ほっとしたというのが正直な気持ちであり、決して余暇の気分転換になる小説ではなかったことは事実であったが、他方で隅々に埋め込まれたドイツ−ポ−ランド関係の歴史の宝庫に、ドイツ戦後知識人文学者の才気を感じさせられる作品であったこともまた確かであった。

読了:1994年12月19日