アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第七章 文化
第四節 文学 
ハインリッヒ・ベル短編集
著者:ハインリッヒ・ベル 
ベルという作家は、ちょうど世代的には日本の第一次戦後派から第3の新人に至る作家群と重なっており、またその社会的コミットメントという点では大江健三郎や、鶴見俊輔らの「思想の科学」に依拠した戦後知識人グル−プに近い位置づけができると思われるが、私はたまたま学生時代に接することなく終わってしまった。1972年にノ−ベル文学賞を受賞した際も、日本での紹介は然程熱の入ったものではなく、またロンドン時代の1985年に他界した際も、ロンドンのマスコミでもほとんど話題にならなかったように記憶している。その意味で今回遅ればせながらも初めて彼の作品のほんの小さな一端に触れた訳だが、正直な感想を言えば今回はそれほど印象に残る短編には出会うことができなかった。読みにくい訳文の問題を別にすると、そうした印象はどこに由来するのかを中心に考えてみたい。

収められた作品群は大別すると、彼の従軍体験、戦争体験を綴ったものと、戦後の混乱期の生活体験を収めたものの2つに分けられる。前者の小説群は死と隣り合わせた戦場の恐怖やその間に訪れる静寂を淡々と綴った、また後者は、その戦争の影を引きずりながら過ぎていく戦後の日々を諧謔的に表現した短編である。その点で前者は、日本では野間宏、梅崎春生らの作品群と素材を同じくし、また後者は私の接した作家の中では野叛昭如の作品群が重なってくる。しかし前者は、日本のそれが粘着質な重い文体により表現されていたのに対し、何故か乾燥したやや遠い世界の出来事を夢の中で眺めているような感覚を与える。それが翻訳のせいでなければ、それの由来するところはおそらくは、戦争と死に対するヨ−ロッパ人、またはドイツ人の即物的感覚の故ではないかと思えるくらいである。あるいは東南アジアの熱帯、亜熱帯地域の密林で戦争を遂行していた日本軍と、乾燥した広大な欧州太陸で戦っていた人間の違いもあるのかもしれない。更に私が10代の頃日本のこうした作品に接していた時期は、まだ「戦後」が概念として生きていた時代であったのに対し、今や戦後半世紀を経て私の感覚自体が「戦後」を払拭してしまっていることも、現時点でこうした作品に接する際の想像力を枯渇させてしまっているのかもしれない。いずれにしろ、これらの作品群からは私はほとんど感ずるものがなかったのである。

それに対し、戦後を綴った後者の作品群はまだ受け止め易いものである。もちろん、「ほたるの墓」等野坂の初期の作品に見られるような、やるせない暗さがないのは前者の作品群と同様であるが、ぞれでも「ロ−エングリ−ンの死」などには野坂が体験したのと同じ時代の中で苛まれていく若い命に対する限り無い追悼の気持ちを感じるし、「商売は商売」、「ろうそくを聖母に」等では「エロ事師たち」や「葬儀屋たち」に見られる闇市世代のしたたかさと艱難の双方が分かりやすく表現されている。そしてこの作品群の中で最も長い「ムルケの沈黙収集」では、過去の講演での「神」という表現を戦後全て「われわれの尊敬するあのより高き存在」と置き換えようとする高名な知識人と、その作業を黙々と遂行するラジオ曲ディレクタ−の姿を通し、戦後知識人の初期の姿を滑稽に表現しようとしている。

こうした短編はおそらくその前後に長編の中で結実した発想を実験的に表現したものなのであろう。その意味で、今こうした長編に接することなくベル自身に対する私の評価を下すのは時期尚早であるのは間違いない。ノ−ベル賞の受賞前後、シュプリンガ−系のマスコミから共産主義者あるいはテロリスト・シンパというレッチルを貼られながら、言論の自由という御旗を守るため単身戦い抜いたと言われるこの作家の代表的な長編作品−ドイツの戦争責任を追求したと言われる「9時半のビリヤ−ド」、カトリック批判の「道化の意見」、ノ−ベル賞受賞作となった一人の女性の年代記−「婦人のいる群像」、そして大衆新聞との闘争の中から生まれた「カタリ−ナ・ブル−ムの失われた名誉」等を将来の楽しみとしてとっておくのも決して無駄なことではない。

読了:1997年11月23日