アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第七章 文化
第四節 文学 
鏡影劇場
著者:逢坂 剛 
 スペイン現代史から始まり、現代日本の公安物(百舌シリーズ)、そして私はあえて手を出していないが、江戸後期の時代物と進んできた著者が、近代ドイツ文学の世界に切り込んだ新作で、2020年9月に単行本が刊行されている。19世紀前半のドイツ浪漫派の異才E.T.A.ホフマンの生涯を素材に、ある古文書を契機にそれを追いかける現代の人々の執念を描くが、ホフマンに倣い、シンクロニシティ(非因果的連関)やドッペルゲンガー(自己像幻視)といった手法が、19世紀初めと現代の間で交錯する魔術的なものとなっている。大部の作品であるが、一気に読み進めることができる。70代も後半に差し掛かった著者の、全く衰えることにない筆力に唯々敬服させられる作品である。

 ある日本人レッスン・ギタリスト(倉本学)が、マドリッドの古本屋で偶然入手した楽譜の裏に記されていた奇妙な亀甲文字。それがドイツ語であることが判明し、ギタリストの家族の依頼で、初老のドイツ文学者が解読していくことになる。そこで明らかになるホフマンの生涯と日本の関係者達のシンクロニシティー。その物語に埋め込まれている仕掛けは、まさに見事という外ない。

 まず、小説中、逢坂剛は、彼に送られてきた謎の原稿の編者に過ぎない。それは「本田鋭太」という謎のドイツ文学者が原作者である、ということになっている。そして物語の展開を語っていくのは、倉本の妻の学生時代のドイツ文学科の親友である古閑沙帆という中年女性。その現代での展開は、古文書を解読する本田の訳文とコメントを中心に展開するが、その世界は、19世紀初めのドイツ浪漫派を巡る数々の裏話に彩られている。そして、その古文書の筆者が誰であるかは、最後まで明らかにされない。しかし、そのドイツ浪漫派を巡る記述は、本田の口を通して表現される、逢坂自身のうんちくなのである。そして次第に、その古文書の残りの半分も本田が所有していたことが分かると共に、それを通じて、江戸末期の日本と西欧諸国との文化的往来や現代の関係者の隠された姻戚関係等も次々に明らかになるのである。

 何よりも、逢坂が学生時代から私淑してきたホフマンを核にした近代ドイツ文学の造詣は、繰り返しになるが敬服する。私自身は、学生時代のフランクフルト学派を含めた社会哲学と自分のドイツ滞在を踏まえたドイツ現代史については、それなりの知識を有していると自負しているが、ことドイツ文学ということになると、ゲーテの「若きヴェルテルの悩み」やフェルスターの「アルト・ハイデルベルグ」といった通り一遍の古典を除けば、ベルやグラスといった戦後派を少々齧った程度に過ぎない。ましてやホフマン等のドイツ浪漫派に至っては、現在まで全く接したことがない。そこで、ホフマンの作風が、ポーや、彼を通じて江戸川乱歩などの「怪奇小説」に影響を及ぼしたことや、その結果としてゲーテが彼らを嫌っていたこと、あるいは、ホフマンが音楽評論でも活動し、自らいくつかの作品を作曲していることや、ベートーベンを最初に評価したこと等も、今回初めて知ることになった。更に、彼の猫を語り部にした小説「雌猫ムルの人生観」を、漱石が「吾輩は猫である」で「剽窃」したのではないか、という議論の紹介で、日本の近代文学にも切り込むことになる。まさにホフマンさながらの変幻自在の展開である。これを機会にホフマンの作品に触れてみるかどうか、たいへん悩ましいところである。

 いずれにしろ、私が親しんできた逢坂のスペイン・シリーズや百舌シリーズとは全く異なる、しかし私自身の関心とも重なる世界での、彼の新たな金字塔であることは間違いない素晴らしい作品である。

 ということで、この作品は、あえて「ドイツ読書日記」の「文化・文学」欄に掲載することにする。

読了:2021年4月17日