アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第七章 文化
第四節 文学 
貝に続く場所にて
著者:石沢 麻依 
 第165回芥川賞受賞作2作の内の一作。今年初めに、前回第164回芥川賞受賞作を読んだ際には、今時の芸能人追っかけの心情をつづった、まあどこにでもあるミーハー女高生の話し程度かということで、ややがっかりしたのであるが、今回のこの作品は、現在の若い世代の筆力を感じさせる、たいへん読み応えのある作品であった。その理由には、筆者がドイツ在住で、舞台の一つがゲッチンゲンであるということもある。そんなことで、この作品も「ドイツ読書日記」に掲載することにする。

 主人公は、美術史研究で、ドイツのこの街に滞在している小峰里美。冒頭、彼女はドイツを訪れ、その街に滞在する野宮という同世代の男性を駅まで迎えに行く。そこで9年振りに彼と再会した里美は、野宮と不自然な距離感の中での会話を行い、彼が下宿に向かうバス停で別れることになるが、別れた後、実はその野宮は9年前の東日本地震・津波で行方不明になったまま遺体も見つかっていない被害者であることが語られる。そしてそれから、舞台はゲッチンゲンから三陸、時間は9年前の3月11日から現在までを自在に行きかいながら、その災禍と向き合ってきた彼女の思いが語られていくことになるのである。

 その語りには多くの「仕掛け」が挿入されている。(かつてビスマルクが学生時代を過ごしたという)ゲッチンゲンの街にある太陽系の縮尺模型が組み込まれた「惑星の小径」と、近年「準惑星」ということで、太陽の惑星から外されたという冥王星。その冥王星の標識であるブロンズ板は、時として現れ、また消えるという。また主人公を取り巻く、引退した教師として人々を引き付けるウルスラや、主人公が同居するアガータといったドイツの友人たち。そのアガータが飼う「トリュフ犬」は、トリュフのみならず、様々な物体を掘り当て、ウルスラはそれを陳列し、希望する引き取り手に譲っているが、それらは、乳癌で亡くなった女性の乳房等、過去の記憶を想起させる非現実的な意匠となっている。そして野宮のドイツ美術史研究の契機になった漱石の「吾輩は猫である」に登場する美学者や、その小説にも登場し、かつてこのゲッチンゲンに滞在したこともある寺田寅彦への想い。更には1933年のこの街でのナチスによる焚書と、その後強制収容所に移送されるユダヤ人が集められた駅前広場、終戦前の八度にわたる連合軍による空襲の記憶も重ね合わされる。もちろん現在のコロナ禍のドイツや欧州での生活への影響にも触れられている。こうした事象が、著者の言うところの「遠近法」で、時間空間を跨ぎながら語られていく。しかし物語の核は、言うまでもなく3.11の災禍と、当時仙台に暮らし、震災を体験しながらも、津波に襲われた海岸線から離れた地域であったために、津波や、野宮に象徴される、そこで被害を受けた人々を直接目撃することのなかった自身の負い目―「時間の隔たりと感傷が引き起こす記憶の歪みと忘却」―である。物語の最後、ウルスラが主催した「貝」をモチーフとする食事会。その帰りに野宮が見せた、トリュフ犬が地中から見つけた貝殻を見ながら、主人公は、この貝により野宮は故郷に帰ることができると呟くが、これは依然その遺体も発見されない震災・津波の被害者に対する著者の鎮魂の言葉となるのである。

 私はまだあまり接していないが、この震災・津波は、その後文学者の中でも様々な形で表現されてきたのだろう。その一つがこの作品であると思うが、ここでは、著者のドイツでの体験を重ねながら、単に日本での震災に留まらない地理的。時間的な「遠近法」で、深みを加えている。そして主人公がそれほど親しくなかったという野宮の「幽霊」を登場させ、彼との何気ない会話で、過ぎ去った9年を想起させることになる。この「幽霊」との何気ない会話は、先日観たタイ映画「ブンミ叔父さんの森」でも描かれ、またその後に読んだ四方田犬彦が、西欧的「幽霊」に対する東洋的「お化け」と表現している、人々の生活近くに「存在」する死者への感覚を共有しているように思える。死者が一時的にこの世に戻るとされているお盆の時期に、この作品が賞を受賞し、私がこれを読むことになったのも、そうした超自然的連関の中でのことだったのだろうかと感じている。

 1992年に起きたオランダのローアモントを震源とするマグニチュード5.4の地震や、その地震について、ドイツの少女が呟く、日本人の発音がもたらす「Erdbeeren(苺)」と「Erdbeben(地震)」の混乱についてのコメントも、ここに残しておこう。1992年1月のドイツやオランダでの300年振りの地震は、私もフランクフルトで実際に体験したものであるが、それは日本の地震を知っている者にとっては「かすかな揺れ」程度の感覚であった(当時、酔っ払って帰宅し、ベッドに潜り込んだ私は、その揺れは、酔いに伴う幻覚かと思い、そのまま寝込んでしまった。地震であったと気が付いたのは、翌朝のメディアでの大騒ぎに触れてからであった。因みに、この地震の時間は、この小説で書かれているような「夜明け前」ではなく、深夜1時過ぎであった)が、当時二人の老人が「ショック死」するといった被害が出たのを覚えている。 

 東日本地震・津波への文学的アプローチに加え、著者の研究対象であるドイツ中世美術史に関わる記載を含め、改めてかつて自分が滞在したドイツの歴史の深みも思い出させてくれた、たいへん面白い作品であった。

読了:2021年8月15日