序文
19世紀フランスにおけるドレフュス事件を挙げるまでもなく、ユダヤ人問題は、欧州キリスト教圏に共通する歴史的課題であるが、ドイツにおけるユダヤ人問題は、欧州全体の中でも、より特殊な様相を呈している。そもそも民族性から見れば、例えば、フランスでは本人固有の民族性は別にしても、言語としてのフランス語能力が国籍取得の大きな要素になるのに対し、ゲルマンの血族性を重視するドイツの国民意識は、例えば旧ソ運・東欧圏からの移民に対し、ドイツ系の子孫であることが証明されれば、ただちに国籍を付与するという形で受継がれ、逆に見ると他民族への差別性を残すものとなっている。そしてその経済基盤が、ギルド、ツンフトといった製造業重視の職人制により発展した中で、それからはじき出されたユダヤ人が、サルトルの言うところの、金・知識・芸術という、より抽象性の高い分野に進出し、そこで大きな勢力を築いたことで、両者の極度に歪んだ緊張を作り出すことになった。そこにまたドイツ人固有の徹底性が加わることによって、ヒトラ−による「ユダヤ人問題最終解決」という惨事に向けて突き進んでいくことになる。D.マ−シュが述べているとおり、戦後「ドイツからユダヤ人はいなくなった」にもかかわらず、「ユダヤ人問題は残ることになった。」否、マルクス主義の旧東独において、戦後ユダヤ人問題のみならず民族問題一般は既に超克されたと見なされ、また社会主義国家以外の他国との人的交流が制約されたこともあり、実際には形を変えたユダヤ人問題が、新たな移民・難民への差別意識として壁の崩壊後いっきに堰を切ったように噴き出すことになるのである。
1997年12月末現在、ドイツ在住の外国人総数は736万人、総人口の約8%を占める。国籍別にはトルコ人が211万人(推定約50万人のクルド系を含む)と圧倒的多数を占め、旧ユ−ゴスラピア:72万人(コソポ地域からのアルバニア系推定約30万人を含む)、イタリア:61万人、ギリシャ:36万人、ポスニア・ヘルツェゴビナ:28万人、ポ−ランド:28万人と続くことになる。こうした非ドイツ民族の急速な人口増加を受け、ドイツはもはや民族国家でなく、米国のような移民国家であり、且つそう振る舞うべきである、との声も出るに至っている。
確かにドイツは第二次大戦時、自国民の多くが他国に受け入れられたことへの報いとして、そして何よりもナチスの残虐な民族政策への贖罪から、戦後、移民・難民の受入れには寛容な立場を示し、足もとのコソボ紛争に伴う難民も、欧州諸国の中では最大規模の受入れ国となっている。こうした移民・難民増加に伴うネオナチの勢力伸張とそれに対する1993年の基本法改正については、既に第二章で触れたが、ここではその問題を直接扱ったいくつかの書物を取り上げる。まずユダヤ人問題については、やや際物的ではあるが、フランクフルト出身のロスチャイルドを中心に「ユダヤ・コネクション」を、これでもか、これでもかと調べあげた広瀬隆の書物から始め、今世紀初頭のドイツ人によるユダヤ人論、大戦でドイツから米国に亡命した知識人によるユダヤ人精神史を見た上で、全体を簡単にまとめる意味で、ドイツにおけるユダヤ人の歴史に関わる教養書で締めくくりたい。
また移民問題については、まずネオナチの動きを時事的な小冊子で整理した上で、現代ドイツにおける最大の移民勢力であるトルコ人社会からの問題提起を経て、梶田孝道による、より広い欧州規模での視点でまとめてみたい。尚、梶田の民族問題を含めた欧州全体にかかわる議論については10章で改めて帰っていくことになろう。