ユダヤ・エリ−ト
著者:鈴木 輝二
久し振りに会った大学の友人が、彼がかつて在住したロンドン北部、ハムステッド・ガーデン・サバーブへのユダユ人移住の歴史を、土地の書店やタウン・ホ−ルでの資料から跡付ける作業をしているという話を聞いた時、偶々私も、ユダヤ人のアメリカへの移住に関連した本書を読んでいるところであった。友人が行っているような、一次資料からの事実発掘をするだけの余力と根気はないが、他方で、私が志向する現代文化の活性化の政治・経済・社会的背景という観点では、逆に余りミクロな素材に拘泥するのは余り得策とは言い難い。引続き、私は、二次資料を使いながら、もう少しマクロな観点から、この社会現象を意味付けてみたいと考えるのである。
しかしながら、こうした観点から見ても、本書はやや期待はずれであった。「アメリカへ渡った東方ユダヤ人」というサブ・タイトルから、もっと東方ユダヤ人の思想と社会情勢の格闘が示されているかと考えたのだが、実際には、やや老齢に差し掛かった経済学者による、やや羅列的・交遊録的な記述になってしまっている感がある(民族移動の鳥瞰図としては、かつて学生時代に読んだ「20世紀の民族移動」シリ−ズの方がはるかにに印象的である)。その結果として、読了後に余り体系的なイメ−ジは残っていない。従って、ここでは、「文化活性化における亡命ユダヤ人の役割」という視点から、若干のコメントを記すに留めることにする。
アシュケナ−ジと呼ばれる、東方ユダヤ民族(パレスチナ追放後、ライン河畔に定住したグル−プ)が、欧州のその他地域のユダヤ人(例えばスペインに定住したグル−プは「セファルディ」と呼ばれる)と同様に、土着性から切り離された「周辺民族」として、排除された生活を強いられてきたのは言うまでもない。しかし、シンディ−・ロマ等の流民とは異なり、ラビを中心とする教育体制とそこで培われた抽象的思考力故に、ひとたび活躍の場を与えられると、アカデミズム、金融、芸術といった分野で画期的な業績を残すことになった。特にプロイセンが、その一般的イメ−ジとは異なり、宗教的には寛容であり、かつ政治の基本も合理主義的であったが故に、多くのユダヤ人エリ−トを排出する。そして、ナチによる迫害から、こうしたエリ−トが新たな自由の地アメリカで活躍の場を見出していくのである。
こうしたユダヤ教養主義の源流として著者が挙げているのは、セファルディ系ではスピノザ、デュルケ−ム、ベルグソン。そしてT.マンも母方がセファルディ系のユダヤ人であったとされている。こうしたセファルディ系ユダヤ人のアメリカへの移住の第一陣(19世紀)は、欧州からアフリカや南米を経由し、そこから再び海路でアメリカへ移る形で行われたという。初期に米国移住した者の中では、連邦最高裁判所の判事カルド−ゾ(ル−ズベルトのニューディールを支持したリベラル派判事で全米セファルディ系ユダヤ人協会の指導者)がいる。
一方、アシュケナ−ジ系は、18世紀ベルリンでのメンデルスゾ−ン(音楽家の祖父)による「ハスカラ運動」(啓蒙思想による西欧への同化運動)により、非ユダヤ人知識人からも、信教の違いを超えた普遍的な支持を得ていたが、こうしたサロン文化の中から、神学者シュライエルマハ−、詩人ハイネらが生まれる。米国移住は、ナチによる迫害からの脱出が中心だったようであるが、こうした「ハスカラ運動」の流れを受けた移住者からは政治学者ア−レントらが生まれている。
他方、ヘルツエルによるシオニズムは、「ハスカラ運動」の対極にある「ユダヤ主義」であり、特にウィ−ンを中心とする東方アシュケナ−ジに支持された。これはプロイセン系とは異なり、旧ハプスブルグ領内のユダヤ人が、経済的にも大きな較差を有し、その結果ガリツィア等からの難民を中心とする貧困層は依然ポグロムの危険を感じながら過ごしていたことが主因であると言われる。
こうした状況下、アシュケナ−ジ系ユダヤ人は、ポ−ランド分割といった政治的混乱の中で、社会運動に積極的に関与していくことになる。特にポ−ランド系ユダヤ人は、国家分割に伴う愛国主義の高まりの中で、民族独立運動と国際主義運動のどちらを選択するかを迫られることになる。
歴史学者カントロビッチは、愛国者そのものの青春を過ごし、第一次大戦にも志願兵として参加し、その後フランクフルト大学教授となるが、ナチ政権掌握後、「水晶の夜」事件に衝撃を受けアメリカに亡命。他方、国際主義としてマルクス主義に傾倒したアシュケナ−ジ系ユダヤ人は枚挙にいとまがない。マルクス、トロツキ−は言うまでもなく、R.ルクセンブルグ、ルカ−チ、ドイッチャ−、ラデック、リトビノフ等々(レ−ニンさえも、E.H.カ−によると、ユダヤ系の家庭に生まれたという)。
こうしたユダヤ系知識人の活動とは別に、一般のユダヤ人については、第一次大戦終了後のハブスブルグ帝国解体の過程で、フランクフルトやベルリンを始めとする都市への急速の移住が進んだという。ウィ−ンでは、1869年に4万人であったユダヤ人人口が、1910年には17.5万人まで急増した。ドイツ総人口におけるユダヤ人比率は6%と言われていたが、大都市でのユダヤ人の存在感はそれ以上に高まり、その後のナチの攻撃対象となっていく。
この戦間期にはまた政治指導者にもユダヤ系が目立つことになる。ユダヤ系公法学者のプロイスは、ワイマ−ル憲法の起草に、マックス・ウエ−バ−と共に中心的役割を果たし、大手電気・電力会社AEG社長から外相に転じたラ−テナウは、ラデックやリトビノフとの関係を使いソ連とラッパロ条約を調印、戦後賠償問題に突破口を開くことになる。世界恐慌時の蔵相で経済学者のヒルファ−ディングもユダヤ系であった(彼はナチに追われフランスで逮捕され自殺したという)。
ガリツィアからウィ−ンやプラハに移動したユダヤ知識人にも、戦後の活躍と迫害という運命が襲う。こうした例として著者が引き合いに出しているのは、法学者ケルゼン(プラハ生まれで米国に亡命)、ソロス(ブダペスト生まれ)、キッシンジャ−(ニュ−ルンベルグ郊外出身)ら。そもそもケルゼンは1919年社会民主党による連立政権にレンナ−(首相)、バウア−(外相)、シュンペーター(蔵相、1932年にハーバードに招聘され定住)と共に参加し、ユダヤ系が多数を占める政権として保守派の非難を受けたという。オ−ストリアは近年のハイダ−現象に見られるとおり、戦後も反ユダヤ主義がドイツのように反省されること無く残っていることが指摘されるが、これはオ−ストリアにおけるユダヤ人の存在感が歴史的に強かったことの現れであろう。
ナチの反ユダヤ主義で、マーラー、メンデルスゾ−ン、オッフェンバッハ、シェ−ンベルグらの曲の演奏が禁止される一方で、同じアシュケナ−ジ系のヨハン・シュトラウスの作品は禁止されなかった、というのも面白い話である。
以下、亡命ユダヤ系知識人のプロフィ−ルが語られるが、ここではカテゴリ−毎に主要な人物名のみピックアップしておこう。
経営学のドラッカ−と経済人類学のポランニ−はウィ−ンやブダペストでの同僚同士である。政治学ではプラハ生まれのドイチュ、ポ−ランド出身のラスキと英国ロンドン大学の彼の講座を引継いだポパ−ら。法律学では英国に移住したラウタ−パクト(ガリツィア出身)、シュヴァルツェンベルガ−(ベルリン出身)、ラックス(東ポ−ランド出身)、エ−ルリヒ(同前、戦後もワルシャワに留まった)、タウベンシュラ−グ(同前)といった、私にとって余り馴染みの無い名前が登場する。
次に来るのは、ロシア系ユダヤ知識人のリストである。長く収容所暮らしを送った言語学者ロッシ。亡命者としては、経済学ではガーシェンクローン、マルシャ−ク、バランら。言語学者ではヤコブソン(MITの彼の講座を引継いだのが、ベラル−シ系ユダヤ人のチョムスキ−)。数学者ではサイバネティックスの創始者ウィ−ナ−や社会学のギュルビッチが、そして面白いところでは、元米国商務長官のカンタ−がリトアニア移民の子供である、といったことが挙げられている。
ナチによる迫害以前に米国に渡り、大不況後のニューディール時代にル−ズベルトを支え活躍したユダヤ人群像として、法曹人では、リベラル派弁護士から最高裁判事に上り詰め、ブランダイス(プラハからの移民の息子)、マック、マ−シャル、カルド−ゾ、フランクファ−タ−といった名前が、また彼らの影響を受けた政治家としてコ−エン、経済学者・官僚としてその後の米国経済に貢献したユダヤ系移民としてバ−ンズやグリ−ンスパン、そして変りだねとして経営者としての地位を約束されながらも音楽家に転進したバ−ンスタイン等が紹介されている。
現代でも、アシュケナ−ジ系は、米国政権の要職で、影響力を行使している。ベトナム戦略を巡る論争では、政府側のキッシンジャ−と反対派のモ−ゲンソ−が共にアシュケナ−ジ系。国際法・比較法ではラインシュタインやシュレジンジャ−、ヌスバウム、フロイント、ソ連法のハザ−ド、バ−マンといった名前が紹介されるが、この辺はどうも著者の個人的交友関係の紹介という、あまり全体感には関係ない人物も多い。そして最後に、ホルクハイマ−とマルク−ゼが簡単に紹介されて、この脈絡の無い亡命ユダヤ人物紹介が終ることになる。
こうしたユダヤ人群像を、どのようにマクロの中に位置付けていくかは、なかなか難しい作業である。素材自体は、ありふれた情報であり、新鮮味はない。とすると、それを位置付ける枠組み自体が特徴を持たねばならない。「偏狭からの文化の活性化」という従来から意識している枠組み自体も、それを実生活の中で昇華できてこそ、初めて社会的価値を生むことになる。ひとつの可能性としては、こうしたユダヤ知識人に特徴的な思考様式の中に、民族とは必ずしもかかわりない、その他の文化活性化の功労者たちと共通するものを見出していく、という発想が考えられる。現実世界が、限りなく非合理性と不条理に満ちている中で、合理性を求めていく強い意志、しかしそれにもかかわらず、その営為が現実との中で限りない軋轢をもたらしていくという緊張感。こうした現実と思想の緊張感こそが、新しい文化現象をもたらしていく、というのが、その基本にある発想である。ミクロの情報にレゾンデタを見出していく友人に対し、私はこうした視点から、限りなく存在している「既に知られた事実」を体系化していくこと、そうした作業を引続き進めていくことにしたい。
読了:2003年4月13日