アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第八章 民族
第一節 ユダヤ人問題 
ヴェニスからアウシュヴィッツへ 
著者:徳永 恂 
 休暇で旅行中の北海道・富良野での清々しい陽光の中で読了した。しかし内容的には、もちろん決して清々しい話ではない。アドルノ、ホルクハイマ−といったフランクフルト学派第一世代を、日本では初めて専門として追いかけ、既に学生時代から「ユートピアの論理」等の解説・紹介書を私自身愛読してきた社会哲学者が、フランクフルト学派の問題意識の根源にある「反ユダヤ意識」を、文献解読に加え、一部旅行記の形をとりながら自らの目と体で確認しようとした作業の軌跡をまとめたものである。初版は1997年に出版された模様だが、今回読んだ文庫版は、初版収録論文の一部が除かれ、若干の編集が加わり昨年7月に再版されたものである。主として前半が旅行記、後半が文献解読といった構成になっているが、私よりも若干時間的に先行し、且つ社会哲学者のプロとしてフランクフルト学派とその思想的意味を追い求めてきたこの著者が、おそらく70歳を過ぎて何を体験し、考えたか、というのは、私自身のこれからの20年(もしあれば、の話だが)の進路を再考する上でも示唆に富んでいる。

 前半の著者による「反ユダヤ意識」探索の旅程は、オランダ、ドイツ、イタリア、スペイン、モロッコ等に及ぶが、まずは表題にもあるヴェニスのゲットー(欧州のゲットーはここから始まった!) から始まる。ここには、そもそも住み着いた土着ユダヤ人に加え、15世紀後半以降は、スペインを追放されたセルファディ系のユダヤ人も加わるが、イタリアが欧州では相対的にユダヤ人が安心して居住できる国であったという。それでも、地域が限られているゲットーは、人口の増加と共に、上へ上へと伸びていった(リルケ「神様の話」)というのは面白い。ヴェニスに対するゲーテらの偏愛に対する、ジンメルの「表面を飾る華麗さの裏にあるものへの嫌悪」。それをジンメルのユダヤ性に求めるのか、それとも彼の疎外感の現われに過ぎないのか?

 次に、著者は、ヴィーゼンタールによる「希望の帆」という彼が翻訳した作品を通じての、スペインの1492年を巡る旅に出る。この年の8月3日にパロス(バルセロナ?)の港を出港したコロンブスは、当時の乗務員の慣習からすれば異例であったが、前日の夜11時までに乗船するよう指示を出し、監視していたという。時のスペイン国王フェルディナンドとイザベラが布告したユダヤ人追放令が、この日の真夜中以降施行されることになるまさにそのタイミングで、コロンブス一行はスペインを出航した。これは何を意味しているのか。

 これに先立ち、まずコロンブスの新大陸希求の動機は何であったのか、という問い。もちろん通説は、黄金郷に魅せられた一攫千金を目指す欲望。しかし、一方でユダヤ人を追放したイザベラらが、このリスクの高い投資に最終的に支援を与えたのは何故か。その最大の理由は、著者によれば「宗教的理由」であったという。レコンキスタにまさに勝利したイザベラらの、カトリック拡大への情熱、イスラムに続き、ユダヤ人もスペインの地から放逐しようという意志。それがユダヤ人追放令と相まったコロンブス支援の第一の理由であり、そして同時に、スペインからユダヤ人を追放することで生じるであろう経済的損失を埋め合わせるための新たな富への期待という打算。宗教的情熱と冷徹な打算の産物がコロンブスの冒険であり、またその出航のタイミングでの謎を解く鍵であるとする。しかし、そうしたイザベラらとは別の「宗教的理由」もあったという。それは当時の宮廷には多くの改宗ユダヤ人の側近がおり、彼らが日増しに強まる改宗ユダヤ人への迫害を収めるために、ユダヤ人の「黄金郷(エルドラド)」を求める夢をコロンブスに託したのではないかと言うのである。

 こうした推測を裏付けるため、著者は、15世紀以降スペインで激しさを増した異端審問の姿を描いていく。「異端審問の対象となるのは、キリスト教以外の異教徒ではなく、キリスト教内部の異端者である。」公然たるユダヤ教徒は、差別され迫害されるかもしれないが、少なくとも凄惨な異端審問の犠牲者にはならない。こうしてスペインでは「マラーノ(強制改宗者)」と呼ばれる改宗ユダヤ人がこの異端審問の犠牲になっていたという(「カラマーゾフの兄弟」でドフトエフスキーがモデルにしたという、彼自身マラーノである大審問官トルケマダの話)。コロンブスの冒険はまさにこうした異端審問の昂揚と、更に異教徒としてのユダヤ人追放と機を同じくしているのである。

 スペインの旅は、その他、バルセロナ郊外のヘローナ(神秘主義的カバリストの故郷)や、グラナダのアルハンブラ宮殿(レコンキスタ以前のスペインにおけるキリスト教やユダヤ教の共存の証の発見)、セビリア(1481年の最初の「神聖裁判」と2000人以上のムラ−ノの火刑)と続き、そしてポルトガル、リスボンに入る。リスボンの旧ユダヤ人居住区から、郊外トマ−ルという街にある現存する唯一のシナゴーグの訪問。また別の「スペインを追われたユダヤ人」の痕跡を探る旅としてのモロッコ紀行(カネッティの「マラケッシュへの道」)。タンジール、フェズを経てマラケッシュ、ラバトへの道は、私にとっては未知のルートである。一連の紀行文の中でも、最も叙情的な文章であるが、内容は余りない。

 ワルシャワ、クラコフからアウシュヴィッツへ。こちらは私自身が著者と略同じ90年代半ばに辿ったル−トであるが、ワルシャワ蜂起/ワルシャワ・ゲットー蜂起記念碑及び幾つかのユダヤ人墓地は私がミスしたもの。オシフィエンティムやボルケナウに対する著者の想いは、私の抱いた感慨とほぼ同じである。言うまでもなく、著者はアドルノ・ホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」に想いを馳せている。
かつてユダヤ人人口30万人を有し「北方のエルサレム」と称されたというリトアニア・ヴィルニゥス。6000人のユダヤ人にヴィザを発行した杉原領事への想い。この旅は、バルト海沿岸の散策で終る。

 これ以降は、紀行文から離れ、反ユダヤ主義に関する一般の論考が続く。同じ教養文庫に収められている山下肇の「ドイツ・ユダヤ精神史」への改題(これはむしろオリジナルを読んでみたい)、啓蒙の東欧ユダヤ人解放への影響、マルクスにおけるユダヤ意識の検証、そしてドイツ留学時の斉藤茂吉のユダヤ観等。特にマルクスにおけるユダヤ意識論は、「彼ほど故郷への想いを語らなかった亡命者は少ない」マルクスの故郷トリアを旅しながら、結構偏執狂的に、マルクスの生い立ちと彼の著述の中に現れた「ユダヤ」関連表現を追いかけている。かつてドイッチャーの「非ユダヤ的ユダヤ人」で「ユダヤ人を超えたコスモポリタン」と位置付けられたマルクスであるが、著者によると、彼の書いたものでユダヤに言及したものは少ないが、その多くが「ユダヤ人への悪口、嫌悪、侮辱的言辞」であるという。

 そうしたコメントから「マルクス=反ユダヤ主義者=ユダヤ人の自己憎悪」というレッテルを貼る見方もあるが、結論的には、著者は、「マルクスの基本的立場は、『普遍的人間解放』を、もはや『宗教による救済』に期待しない立場」であり、「特殊問題である『ユダヤ人問題』を時代のより一般的な問題へ解消させようとした」、即ち、マルクスにとって、ユダヤ主義対反ユダヤ主義といった対立軸は、彼の立ち向かうもっと大きな問題の前に、さして意識化される必要もない、些細な事象に過ぎなかったと考えている。しかし、マルクスはもちろんホロコ−ストは知らなかった。そして今まさにそうした歴史を受けて著者は、マルクスの特性を、「自己憎悪」の心理ではなく、「非同一性」の志向に求めながら、現代の課題を「シオニズム的『故郷』概念を否定しつつ、『啓蒙の弁証法』に捕らわれた世界からの脱出を投企することにある」と提示するのである。

 こうして問題は、再び「アウシュヴィッツの後で詩を語ることは野蛮である(アドルノ)」に帰ってくる。反ユダヤ主義の問題は、アウシュヴィッツの前と後では、最早重みが異なっている。それは、丁度、アウシュヴィッツが、アドルノ/ホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」を生み出したように、近代の矛盾として我々の想像力の原点となるべき事象なのである。シオニズムや反ユダヤ主義は、我々日本人にとってはパレスチナ問題等で時折意識化されるに過ぎない想像の世界の出来事であるが、近代意識の展開という普遍的な議論を考える時には、まさに我々もその深みに入っていくことを余儀なくされる分野であるのは確かであろう。

読了:2005年5月3日