アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第八章 民族
第一節 ユダヤ人問題 
戦後ドイツのユダヤ人 
著者:武井 彩佳 
 続けて、ドイツ現代史シリ−ズの第3巻である。同じユダヤ人問題を扱うにしても、この作品は、ホロコ−ストに至る第二次大戦までのユダヤ人迫害史ではなく、それを生き残り、尚且つイスラエル等に移住するのではなく、迫害の地ドイツに残ることを選択したユダヤ人を中心とする物語である。

 かつて、D.マ−シュは「戦後ドイツではユダヤ人はいなくなったものの、ユダヤ人問題は存在した」と書いた。その時の私の理解は、人口の絶対数は減少したが、ユダヤ人問題に象徴される差別構造は残存し、特に90年代になると、かつてのユダヤ人の替わりにベトナムなどアジア系がネオナチの攻撃対象になった、というものであった。しかし、この作品を読了して感じるのは、むしろ戦後ドイツのユダヤ人社会(「ゲマインデ」という呼び方をされている)が、規模が縮小したが故に、そこに残ることを選択した人々は、ドイツ人の側からの公式の親ユダヤ人観と、心の底での反ユダヤ観という両義性に曝されると共に、政治的には国外ユダヤ人組織との関係で時として沈黙を余儀なくされるという、新たな形の抑圧を強いられていた、という。しかし、他方では、そうした中で、ドイツ・ユダヤ人の存在感を主張する動きも存在し、特にドイツ統一が達成された90年代以降は、そうした傾向が強くなってきたと言うこともある。こうした大枠の中で、戦後史の流れの中でのドイツ・ユダヤ人の姿を簡単に整理しておこう。

 ヒトラ−政権獲得時約50万人いたというドイツ・ユダヤ人は、終戦時には5−7万人(大半は収容所に連れて来られた外国籍のユダヤ人であるが、「ア−リア人」と結婚していた「混合婚」故に収容所送りを免れた者や都市で地下に潜伏し生き残った者たちもいた)となっていたという。彼らはナチ時代の「生き残る戦い」から戦後の「生き続ける戦い」へと移ることを強いられる。「ジョイント」と呼ばれたアメリカユダヤ人の民間援助機関やパレスチナ移住を推進するための「ユダヤ機関」がドイツ国内で活動を始めたのはようやく夏以降になってからであったというのは、先日読んだ小説でも描かれているとおりである。特に英国占領地域のユダヤ人は旧敵国ドイツ人と同じ扱いを受けたが、これは英国委任統治領であったパレスチナでのユダヤ人独立武力闘争のため、ドイツ・ユダヤ人はドイツに再統合することが出来るし、しなければならない、という政策の結果であったという。そしてユダヤ人を特別視しないという発想は、他の国の占領地でも多かれ少なかれ同じであり、その基礎には、「犠牲者集団としてユダヤ人を特別扱いするのは、ナチの人種理論の継続である」という考え方があった。しかし、ホロコ−スト後のユダヤ人の状況は一般のドイツ人よりも圧倒的に悲惨であった。その結果、戦後ユダヤ人の救済のためには、皮肉なことに「民族の枠組み」に戻ることが求められた。これがホロコ−スト後の「ユダヤ人としての自己理解」という戦後ユダヤ社会の出発点を形成することになったという。

 ドイツが「殺人者の国」としてユダヤ世界から忌み嫌われる中で、ドイツを生活の場として選んだユダヤ人への風当たりは強かったという。そうした問題は特に、戦後再構築された都市部でのユダヤ人生活共同体である、ゲマインデの公共財産相続問題で現れたという。戦時中にゲシュタポに利用されたナチ時代の遺産であるゲマインデが、生存者の救済の名目で、まずその公共財産を戦前から受継ぐという奇妙な状況が生まれた。しかし、戦争責任によりこの組織の指導者達が失脚すると、このゲマインデは実質的に解体され、新たな組織に生まれ変わっていった。
 また、戦後ドイツには、DPと呼ばれる、主として東欧出身で、収容所からの解放後帰る場所を持たないユダヤ人、あるいは戦後も依然残った反ユダヤ主義から逃れてきたユダヤ人のキャンプも多数存在していたという。この前に読んだ小説で描かれたパレスチナへの不法移民となるこうしたユダヤ人は、特にアメリカ占領地域に集中し、ユダヤ人の窮状を訴える広告塔として、パレスチナへのユダヤ人移住に消極的な英国に対するプレッシャ−をかける役割を担ったが、1950年にアメリカへの移住規制が緩和されるとその後急速に減少することになった。

 こうした一時的滞在者以外の、前記のように「殺人者の国」ドイツに定住しようというユダヤ人は、新たなゲマインデを組織するが、1948年のモントル−での世界ユダヤ人会議の「血に染まったドイツにユダヤ人は二度と根を下ろしてはならない」という宣言の通り、ドイツ外のユダヤ人組織からの風当たりは強かったという。極端に言うと「ドイツに住むユダヤ人は、ユダヤ世界のバリア(賎民)」として見られたという。そして1950年7月には、ユダヤ機関(国家亡き民の外交機関の役割を果たしてきた)がドイツに残るユダヤ人に対し、9月までに移住しない場合は援助を打ち切るという最後通牒を発することになったが、これはイスラエルへの帰還を認めない、という意味で、もはやユダヤ人とは見なさない、という警告も含んでいたという。しかし、ドイツを単なる通過地点としてしか考えていなかったDPのキャンプが閉鎖されたため、そこから追い出された彼らが流れ込んだことによりドイツのユダヤ人ゲマインデは存続することができた、という。またこの結果、ドイツの戦後ゲマインデは、ナチの経験や出身地、言語、宗教意識等の面において異なった背景を持つ集団になった。著者は終戦直後からのゲマインデ指導者として、N.ヴォルハイム(ナチの強制労働に対する損害賠償訴訟に勝訴。最終的にはアメリカに移住)とP.アウア−バッハ(バイエルン・ゲマインデの指導者で、ドイツ国内ユダヤ人の保護に奔走したが、公金横領等で有罪とされ獄中で自殺)の二人の軌跡を紹介している。

 戦後ユダヤ人組織が対処を迫られた最大の問題が、崩壊した戦前のドイツ・ユダヤ人社会が残した財産処分・継承問題であった。特に相続人の一族全員が殺害され相続人がいない財産をそのまま国庫に帰属させていいのか−何故なら、その財産を受継ぐ国家は、彼らを迫害し、殺害した犯罪国家である−という点がアウシュヴィッツ後の特殊ドイツ的問題であった。
 この結果、米軍は、相続人不在のユダヤ人財産の国庫帰属を停止し、財産の相続人となるべきユダヤ人継承組織(財産の返還を請求し、管理・処分し、ホロコ−スト生存者の援助にあてる信託会社の一種)の設立を定めたという。そして重要なことは、この組織を運営するのは、世界の主要なユダヤ人組織であり、ドイツのそれではなかったという点である。それは言わば「民族による財産の継承と言う、理論上でしかありえないことが実現された」特殊な例ということになる。更に、前記の、戦前のゲマインデ所有の資産を巡っても、その継承を主張するゲマインデ側と、上記の継承組織との間で係争になり、多くの場合後者が勝利したというのも、ドイツ・ユダヤ人社会が、国際ユダヤ人組織から軽視ないし時として敵視されていたことを物語っている。

 こうした戦後直後の、ドイツ・ユダヤ人社会を巡る動きに続けて、著者はその後の変化を追いかけている。基本的には、アデナウア−政権の「ユダヤ人との和解」政策を受け、十分な補助を与えられた「庇護者」としての立場を享受し、その分ドイツ人と交わることも、政治的に声を上げることのなかったドイツ・ユダヤ人が、ドイツ社会の変化を受け、次第に公の場での発言を行うようになる、というのがその時期の動きである。特に、反共的観点からシュプリンガ−に代表される西独保守派が、親イスラエル色を鮮明に出していたのに対し、イスラエルによるパレスチナでの横暴が目立つようになると、学生運動を中心とした左派内における反シオニズム感情が頭をもたげてくる。反シオニズムは容易に反ユダヤ主義に転嫁する。このように、戦後ドイツで、反ユダヤ主義が、右翼からではなく、左翼から解禁されていったというのは興味深い現象である。こうしてドイツ戦後ユダヤ人の第二世代は、学生運動の中で複雑な立場に立たされることになり、次第にそこから離れ、独自の社会的発言を行うようになる。こうした動きを象徴する1985年の2つの事件が、ドイツ・ユダヤ人第二世代のこうした姿を象徴している。

 一つは、5月に行われたレーガンとコールによる、親衛隊員も眠るビットブルグ墓地訪問(靖国問題との類似性が容易に想起される)で、これは言わば保守派への批判である。これに対し、2つ目の例はフランクフルトでの「反ユダヤ的演劇」である「ゴミ、都市そして死」の上演反対運動である。これは当時のフランクフルト・ゲマインデ会長であるブ−ビスを「金満ユダヤ人」として揶揄したり、反ユダヤ的セリフを含んでいたが、むしろ左翼インテリらが、表現の自由を標榜し上演を支持したことに対するユダヤ人社会からの批判であった。ユダヤ人組織の動きは、前者を阻止することはできなかったが、後者の演劇は舞台占拠という実力行使により上演が止められたという。イスラエル問題と同様に、ユダヤ人問題も単純に右翼・左翼では割り切れない局面に入っていったのである。ユダヤ人側は、これを機会に、ベルリン・ゲマインデ会長ガリンスキ−及びその後任のブ−ビス(前述)を先頭に、「記憶の番人」としての役回りを強めていったという。そして90年代に入ると、旧共産圏からの移民の流入もあり、ユダヤ人社会が多様化すると共に、大戦後50年と言う節目での「ユダヤ・ブ−ム」が起こる。著者は、戦後長く続いた親ユダヤ主義的教育と「過去の克服」への努力の結果としての「ユダヤ・ブ−ム」、と位置付けているが、他方で、こうしたブ−ムの産物の多くが、消費市場としては一般のドイツ人に向けられていることを考えると、単純な「覗き趣味」的サブカルチャ−と言えないこともない、と指摘している。

 最後に著者は、統一以降の新たな補償問題として、旧東独のユダヤ人資産返還問題(西独への逃亡者とそれ以前のユダヤ人の二重請求)やスイス銀行の休眠口座問題(世界ユダヤ人会議会長のブロンフマンのイニシアティブ)について、また「過去の克服」のほころびとしてヴァルザ−=ブ−ビス論争(「精神的放火犯」対「道徳的泥棒」)について触れている。

 ブ−ビスが自らを規定した「ユダヤ教徒のドイツ市民」という立場が、戦後の過程で様々な外的要因による変容を迫られた歴史があった。同化か、社会の警鐘者か、はたまた単なる圧力団体化したパラサイトか。戦後の教育にもかかわらず潜在的には常に存在している反ユダヤ意識が、ホロコ−ストの記憶が薄れる中で新たな展開を遂げる可能性、そしてそれにユダヤ社会の側がどのような反応を行うか。「犯罪者の国」で「荷物をほどいた」ドイツ・ユダヤ人の立場は、引続き安定と不安定の間の循環運動を繰返すのであろう。

読了:2005年12月2日